アンドロメダの青い瞳 3今日は、公安四課のメンバーでの飲み会だった。姫野が企画したものだ。
アキはずっと、斜め向かいに座るデンジを視界の端で捉えていた。認めたくはないが、何故か奴からは目が離せない。それは歴とした事実であった。
未成年のくせに、「俺も酒飲もっかなぁ〜!」とふざけているデンジに苛々して、斜めの席からまた説教を飛ばしそうになる。飲み会の空気を悪くしそうだったため、アキは何とか耐えた。
デンジは若くて愛嬌があるためか、周りにやたらと可愛がられ、気に掛けられていた。何だかそれが、非常に面白くなかったのである。
視界の端でデンジを捉えながら、無心でビールを煽るうちに、アキは自分の許容量を超えて酒を飲んでしまった。気づけば意識がぼんやりし、体に力が入らない。何かに囚われて自己管理ができなくなるなんて、初めてのことだ。
自分の情けなさに驚愕するも、一度摂取してしまったアルコールは元に戻せない。吐くこともできないまま、アキの意識は遠ざかっていった。
そして――記憶は定かではないが、酔い潰れたアキは、なんとデンジに介抱されてしまったらしい。
知らない部屋で目覚めて頭を抱えていると、デンジがひょっこりと顔を出したのだ。「あ、目ェ覚めた?おはよ」と声を掛けられ、アキは仰天した。ここはどうやら、デンジの家らしい。「俺、朝メシ作ってっから」と言った彼は、すぐにまた顔を引っ込めてしまった。
アキは驚きのあまり、しばらく固まって身動きができなかった。いつも説教を飛ばしている後輩に介抱されるとは、あまりにも不甲斐ない。
時間をかけて何とか再起動したアキは、今の自分の状態を確認した。結っていたはずの髪が、下ろされている。ジャケットは脱がされ、ネクタイは外されていた。横を見てみれば、ジャケットはきちんとハンガーにかけられて、壁にぶら下がっているではないか。
もしかしなくとも、デンジがやってくれたのだろうか?
意外だ。アキが思っていたよりも、きちんとしている。
部屋だって、よく片付いていた。生活感はあるが、清潔に保たれている。ちゃんと掃除が行き届いているのがわかった。
デンジは、社宅に一人暮らしのはずだ。自分でしっかりと家事をしているらしい。
アキは恐る恐る、部屋を出た。
そうするとすぐに、キッチンで朝食の準備をするデンジの姿が見えた。とても手際よく二人分の朝食を作っている。テレビの前のローテーブルには、もうほとんど完成した朝食が並んでいた。整然と並べられた箸と皿。炊いたばかりの白米に、彩りの良いサラダ。作りたてのベーコンエッグ。出来過ぎなくらいの、立派な朝食だ。
アキは首を傾げた。聞くところによると、デンジは義務教育を受けておらず、それはそれは劣悪な環境で育ったという。父親には虐待され、彼が死んでからは家族と呼べる存在がいなかったようだ。
……なのに、デンジの暮らしぶりは驚くほどきちんとしていた。一体誰が、彼にこういう細やかなことを――きちんと暮らしていく術を、教えたというのか?
悶々とした気持ちを抱えながら、アキはデンジにそっと話しかけた。
「……デンジ。介抱させて、悪かった。昨日のこと、ほとんど覚えてねえ……。朝食まで、すまない」
「あ!起きてきたのかよ?今味噌汁できたから、呼びに行こうと思ってたわ!ま〜〜座れよなア!」
「あ、ああ……」
デンジは心なしか、いつもより声が弾んでいた。何だかその様子にアキはほっとして、ローテーブルの前に座った。
デンジが、よそった味噌汁を運んで来る。油揚げとほうれん草の味噌汁から、あたたかな湯気が上がっていた。本当に、きちんとしている。
「二日酔いは大丈夫かよ?昨日ベロベロだったぜ〜」
「それは、大丈夫だ。昨日は、その……迷惑かけた」
「別に、大した迷惑じゃねーしぃ」
小さく笑って、デンジは麦茶を持ってきてくれた。アルコールを分解し続けた体に、水分が染み渡る。
「麦茶お代わり、これな。食おーぜ」
「ああ」
「「いただきます」」
アキはまたしても驚いた。示し合わせたわけでもないのに、「いただきます」のタイミングがぴったり重なったからだ。まるでいつも、そうしていたみたいに。見ればデンジも少し目を見開いて、こちらを見ていた。暁の瞳が激しく揺れるのを、それを誤魔化すように何度も瞬きをする様子を、アキは目撃した。
「……はは、重なっちまったなあ?」
デンジは一言だけ言うと、何事もなかったかのように切り替えて食べ始めた。アキも、黙ってそれに続く。
食べてみると、料理はただ美味しいだけではなかった。何だか、妙に落ち着く味だったのだ。味噌汁やベーコンエッグの味の濃さ、サラダの野菜の切り方。それらがアキの慣れ親しんだものに、妙に似ていた。
それに、食事を共にして気がついたことがあった。アキはチラリと、デンジを盗み見る。デンジは、食べ方がとても綺麗だった。箸だってきちんと使っている。
アキは思い切って、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「なあ、お前……誰かと一緒に住んでたことあんのか?その。家族、以外と……」
アキの言葉に、デンジの身体はわずかに強張った。
「……なんで、そう思った?」
「いや。なんか、慣れてるし、ちゃんとしてるから。気に、なって……」
アキはもごもご言いながら、全然理由になっていないなと自分でも呆れた。でも、気になって仕方がなかったのだ。
デンジはアキの苦しい言い訳を気にした風もなく、とても柔らかい声で返事をした。
「人と、一緒に暮らしてたこと……あるぜ。ずーっと、前だけどな」
その声音には、懐古と哀愁が滲み出ていた。
アキはそれを聞いた途端、心臓が壊れそうに痛むのを感じた。
――この苦しさは、一体なんだ?
自分でも理解できない、制御できない感情。デンジといると、こんなことばかりだ。
けれど今朝の二人は、最後まで険悪になることはなかった。ぽつりぽつりと話をしながら朝食をとる、穏やかな朝だった。
最後にアキが「ごちそうさま」と言ったら、デンジはふにゃりと嬉しそうに笑っていた。
いつもの、へらへらした薄ら笑いとは全然違う。
アキは衝動的に、その顔をずっと見ていたいと思った。
♦︎♢♦︎
飲み会で、視界の端に映るアキの酒が止まらないのを見て、デンジは心配していた。
アキは酒に弱いわけではないが、特別強くもない。今日の酒量は、明らかに彼の許容量を超えていた。
一緒に住んでいた頃、嫌なことや悲しいことがあると、アキは酔い潰れる時があった。そういう時と、今日の彼は飲み方が同じだったのだ。
アキの介抱を買って出たのは、完全に下心からだった。今なら、アキに遠慮なく触れられる。いつもアキとべったりしている姫野も、酔い潰れている。貴重なチャンスであった。デンジは自ら、今日は自分の家に泊めると立候補した。
アキを肩に担いで運ぶ時、デンジの心臓はバクバクと高鳴った。久しぶりのアキの温度と、重み。体温が上がって、目に涙の膜が張るのを感じた。
痩せ型のデンジが体格の良いアキを支えるのは大変だったが、何とかタクシーに詰め込んで運んだ。
タクシーで一度アキが目を開けた時は、ビクリとしてしまった。
揺蕩う深い青が、こちらをじっと見ていた。そしてなんと、「デンジ……」と呼んでくれたのだ。
アキはまたすぐに目を閉じてしまったが、デンジは鼻の奥がつんとするのを必死に堪えていた。その場で大泣きするのは、いくらなんでも恥ずかしかった。
そうしてやっと家に辿り着いた今、なんとかアキをベッドに寝かせているところだ。このままでは痛そうなので、髪を解く。デンジはアキのサラサラの髪が大好きなので、それだけの動作でもドキドキしてしまった。それから、皺になるといけないのでジャケットを脱がせて、ネクタイを解く。何というサービスタイムだろうか。
ちなみに、デンジがやたらと手慣れているのには、訳があった。一緒に住んでいた頃も、酔い潰れたアキを介抱することが何度かあったのだ。その頃は服をひん剥いて、容赦なくパンツ一丁にしていたものだが。今は、そんなことをできる関係性ではない。
デンジは眠ったアキに遠慮がちに寄り添い、横になってみた。
懐かしい、アキの匂いがする。
アルコール臭いし、タバコの匂いもしないけれど。
ピアスも開けていないし、今は闘う時に刀も持たないけれど。
アキは、やっぱりアキだった。
デンジはしばらく、静かに泣きながらアキに添い寝した。そうしてそっと部屋を出て、自分は床で寝ることにする。
どこでも寝られるのはデンジの長所であるが、今日はさすがに寝付ける気配がなかった。デンジは冴えた頭で、『前回』のことを思い出していた。
アキと付き合い始めたのは、デンジがレゼに振られた直後くらいからであったと思う。
告白は、アキからだった。
男は完全に恋愛対象外だと思っていたデンジは、勿論アキに恋愛感情なんてなかった。
――でも、好きって言ってくれてるし。アキなら、まあいっかあ。
デンジはそう軽く考え、告白にオーケーしたのである。思い返せばこの時点でも、だいぶおかしい。自分にも、もともと無自覚な好意があったのかもしれない。
それからアキは、デンジを本気で慈しみ、大切にしてくれた。
デンジは初めて、ちゃんとした気持ちの良いキスをされた。もっと滅茶苦茶に気持ちの良い、セックスだってした。
それに、アキはちゃんとデートもしてくれた。手を繋いで、生まれて初めての水族館にも行ったし、観覧車にだって乗ったのだ。
アキのエスコートは、細やかだった。これらはずっと後で気がついたことだが、アキはいつも車道側を歩いていたし、さりげなく荷物を持ってくれていた。デンジは馬鹿な子どもだったから、その時は全然気がつかなかったのだ。アキが亡くなってから、そういうことに何度も思い当たっては、泣くはめになった。
デンジは人生で初めて、誰かに本気で大切にされた。
アキに依存し、心をあけ渡すようになるまで、時間は掛からなかった。まるで溺れるかのように、あっという間に恋に落ちていった。
ある日、デンジの愛の容れ物はとうとう許容量を超えてしまった。デンジは軽くパニックになり、アキの腕の中でさめざめと泣いた。
嗚咽をこぼしながら、「どうしよう、おれ。アキんこと好きになっちまった」と言うと、アキが心底驚いた顔をしていたのを覚えている。
それからデンジは小さな子どものように、大声でたくさん泣いた。「アキが死ぬの、嫌だ。置いてかれんの、嫌だ」と、何度も何度も叫んだ。
アキは、近い未来に死ぬことを詫び、それでもデンジに手を伸ばしてしまった自分を詫びた。それから困りきった顔で、「生きてる間、お前をめいっぱい大切にするから、一緒にいてくれ」と懇願した。
デンジは勿論、それに頷くことしかできなかった。もうとっくに、後戻りなんかできなくなっていたのだから。
デンジを愛してくれたアキのことを忘れたくないから、『前回』のことは何度もなぞるように思い出している。それでもデンジは、毎回泣いてしまう。
今日も冷たい床の上で、結局同じように涙を零した。しかし、隣の部屋にアキが寝ていると思えば、心は温かかった。
翌日の朝。デンジは張り切って朝食を用意した。まるで三人で住んでいた頃のような、ちゃんとした朝食。アキの驚いた顔は新鮮で、何だかおかしかった。
食べ終わった後、ごちそうさま、と言って、アキは小さく笑った。それを目に焼き付けるように見つめながら、デンジは強く思った。
――俺、やっぱアキが好きだなあ。
デンジは、再度しっかりと確認してしまったのだ。
前回も、今回も。やっぱり関係なかったと。
デンジは結局、アキだけが好きだった。