アンドロメダの青い瞳 4アキは屋上で、タバコを咥えていた。
デンジがあそこまで執着するものを、少しでも知ってみたいと思ったのである。
「ゲホッゴホッ!まっず…………」
アキはすぐに咽せ込んだ。
こんなものの何が良くて、あいつは吸い続けているんだろう?
涙目になりながら、アキはデンジが見せた柔らかな笑顔を思い出していた。
きっと、あれが本当のデンジの姿だ。アキは本能的にそう感じとっていた。いつものへらへらした薄い笑みは、本当の姿を隠すためのものなのではないだろうか?
もしそうならば、何故隠そうとする?
そこまで考えてアキは、鉄柵に額をこすりつけ、大きな溜息をついた。タバコの火はつけたまま、二本の指で摘んでいる。
何で、あいつのことが気になるんだろう。
何で、俺はあいつに苛々するんだろう。
あいつの、過去が知りたい。
あいつはいったい、誰を想っている?
誰があいつに、ピアスやタバコを――そして、生活していく術を、教えたんだ?
デンジと話す時、アキはいつも、自分じゃない他の誰かを見られている気がしていた。
それが今になってどうしても、気にかかる。
そこに、大きなヒントがある気がするのだ。
「アキ君、こんなとこで何して――――って、タバコ吸ってるぅぅぅー!?」
背後から、もはや悲鳴に近い声が響いた。アキを探して、姫野が来たのだ。
「姫野先輩……タバコ、クソまっずいんですけど」
「やぁっと私のお願い聞いてくれて嬉しいな〜♪って、言いたいところ、だ・け・ど。……どうせ、まぁたデンジ君のこと考えてたんでしょ……?タバコも、彼の真似?」
「……よくわかりましたね。まあ、そうです」
アキが認めると、姫野は傷ついた顔を隠すように俯き、これみよがしに盛大な溜息をついた。頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜている。一体どうしたのだろうか?
「……デンジ君の真似して、ついにタバコまで吸うなんて。私があんだけ勧めても、ずぅっと頷かなかったのに。……で、今度は何考えてたのよぅ?」
「理由が、わからなくて。……あいつのことばかり考えたり、あいつのことを見てると苛々したりする、理由が……」
姫野はまたハアーっと、さらに盛大な溜息をついて項垂れた。表情が、もう全く見えない。
それから突然、心底呆れたような声で吐き捨てるように言った。
「アキくんさあ。……それ、恋じゃん」
「…………は?」
アキは茫然自失となってしまった。動きも思考も、完全に鈍っている。油を差していない古い機械みたいに、ギシギシと首を振った。
――…………は?
恋?恋って、恋愛の?
これが?
………………恋?
やがて額に手を当てて下を向き、冷や汗をかきだしたアキを横目に、姫野は嘆いた。ごく小さな声で早口に、ぽつりと。
「はあぁ。嫌だ嫌だ。敵に塩送っちゃった……」
自分のことでいっぱいいっぱいのアキには、その声はもう届いていなかった。
♦︎♢♦︎
強力な悪魔が現れたとの報告が入ったのは、その翌日のことであった。
今回は四課と民間で、協力して討伐に当たることが決まった。
敵の能力が厄介で、既に民間に大きな被害が出ていたのだ。そこで、敵の能力を目撃している民間のデビルハンター数人と協力し、四課が対応に当たることになったのである。
これから合同で会議を行い、その後すぐに討伐に向かう予定だ。
アキはデンジをちらりと見た。
あれから、アキはよくよく考えた。自分の気持ちにまだ整理をつけ終わっていないが、もう確信めいたものはある。
しかし、今は任務中だ。気を取られないように、完全に気持ちを切り替えなければ。
と、アキがそう思った時である。
デンジに軽やかに話しかける者がいた。
「調子どう?デンジ君」
「まあ、ぼちぼちかなア〜〜」
すらりと高い背に、真っ黒な髪を目の上までさらりと流している、美貌の男。そのピアスの数はデンジの比ではなく、年若いが壮絶な色気とオーラに溢れている男だ。
民間のデビルハンターの一人、吉田という若者。
彼はデンジの肩に気軽に腕をかけて、ヒソヒソ話を始めた。
………………距離が、随分と、近い。
「ねえ。どうだった?」
「どうってなンだよ」
「……早川さん。やっぱり忘れてただろ?……望みないよ。もうそろそろ諦めて、僕と遊びにいかない?」
「ハア?お前今回もストーカー野郎なわけえ!?絶〜〜っ対やだね!」
「はい、一万円」
「いや、それにはもう釣られねーかんな!!」
「チッ」
二人のヒソヒソ話は、断片的にしか聞こえない。しかし、ストーカー野郎などという不穏な単語がアキの耳に届いた。
アキはもうそちらが気になって、仕方がなくなってしまった。何故あんなにも、親密そうなのか。自分から殺気が漏れ出ているのに気がついて、アキは慌てて引っ込めた。
アキは姫野にそっと近付いて、耳打ちした。
「あいつ……何者ですか?」
「民間から助っ人で来た吉田くん。岸辺さんの秘蔵っ子。知ってるでしょ?」
「いや、それは知ってます。そうじゃなく、その……デンジと、やたら親しくないですか?」
「友達なんじゃなーい?年も近いし、民間時代に知り合ったとか?」
友達……?そんな距離感では、ない気がする。
まさかあいつがデンジに、ピアスやタバコを教えたのだろうか?
アキの心は、いっぺんに千々に乱れた。
これは――嫉妬だ。
さすがに、アキにだってわかった。
アキはもう、認めざるを得なかった。
間違いなく、自分はデンジを好きなのだと。
この不可解な感情たちは全て、恋だったのだと。
この時とうとう降参して、受け入れたのである。
そうこうしているうちにメンバーが揃い、会議が始まった。
アキはあれほど乱れていた自分の気持ちを完全に封印し、仕事モードに切り替えていた。伊達に長年、公安のデビルハンターをやっていない。その精神力は、まるで鋼のようであった。
民間のまとめ役の人物が、本題を切り出す。
「今回問題になっているのは、夢の悪魔。人に取り憑いては、その者の一番の望みを夢として見せるようです。取り憑かれた者は次第に精神を乗っ取られて、死に至ります」
「取り憑く……?外側から、討伐することはできないのか?」
「人へ取り憑くと一時的に悪魔の身体能力が強化され、こちらの攻撃時に分裂増殖するようになります。討伐の難易度が跳ね上がるのです。取り憑かれた人物の、夢への依存度が高いほど、能力がより強化されるようです。敵の増殖から逃げきれないケースが相次いでおり、民間の死亡例が増えています。勿論、取り憑かれること自体のリスクもありますが」
「なるほど。それでは誰かに取り憑く前に、速やかに討伐するのが一番か」
「それが最適と考えます。ただし、奴の肉片に少しでも触れれば、一瞬で取り憑かれます。討伐時は、それを警戒する必要があるかと」
「……一度取り憑かれた者は、死ぬしかないのか?」
「第三者がその者の夢に入って、夢への依存を断ち切れば、助かるケースがあるようです。しかしその第三者も夢の中に一緒に囚われて、死ぬリスクが大きい。取り憑かれた人間を救うのは、命懸けになります」
「現実的じゃないな。一度取り憑かれた者の命は、諦めて引くしかないということか」
話し合いをしながら作戦を決めていく。
確かに、民間に全て任せるには厄介な案件だ。速攻で片付けられれば良いが、失敗すれば泥沼に陥るだろう。
会議が終わり、アキ達は現場へ向かう。
「お前ら、今日は先行すんな」
いつもは先行させるデンジとパワーに、アキは車を運転しながら声を掛けた。
「なんでじゃ!!!ワシは血が足りぬ!!!」
「俺、チェンソーマンになってぶった斬ってやるぜ〜〜!?」
文句を言う二人に溜息を吐いて、アキは念押しした。
「話、聞いてなかったのか?相手の肉片に触れれば取り憑かれる。お前らの戦闘スタイルはあまりにもリスキーだ。だから俺が良いというまで、前には出るな」
バックミラー越しに見る二人は納得がいかなさそうだったが、しぶしぶ頷いた。
――それでいい。
アキは今日、なんだか嫌な予感がしていたのだ。
二人を守らねばならないような、そんな気がしていた。
先程気持ちを自覚したばかりの、想い人を見る。デンジは薄ら笑いで軽口を叩きながらも、少し心配そうな目でアキを見ていた。
――大丈夫。俺が、必ず守る。
アキはギュッとハンドルを握り込んだ。真っ直ぐに前を見据える。
――この気持ちはいつか、絶対にお前に伝える。今までのことは、何度だって謝ろう。
アキは、既に決意していた。彼は一度こうと決めたら即行動、絶対に迷わない男であったのだ。
しかし。
嫌な予感ほど当たるものだということを、この時のアキは失念していた。
♦︎♢♦︎
浦寂れた、廃ビルの一室。
床から蠢く、無数の黒く細い手。それらが持ち上げるようにして一本の黒い幹が立っており、その先端には月がついていた。
月は、悪夢に耐える人間のような形相をしている。
報告書通りの、夢の悪魔だ。
「コン」
アキは、迷いなく狐で速攻をかけた。それを合図に、公安と民間のデビルハンターたちが素早く接敵する。
喰いきれなかった肉片を、触れないように処理していく。打ち合わせ通り。特に問題は無さそうだ。
しかしそこで、ごく小さな肉片が突然、弾丸のように飛んだ。
その方角には――――後ろで待機する、デンジがいた。
デンジは弾丸と化した肉片に、そのまま脳天をぶち抜かれた。
「デンジ!!!」
デンジの周囲から正円を描くように、無数の黒い腕が素早く伸びる。倒れた彼を、蠢く小さな手が掴み上げ、あっという間に磔にしていった。
デンジはもう、意識を失っている。
そこからぬるりと、一本の幹が生えた。
ぐら、り。
月の顔面が、現れる。それは、奇妙な笑みの形を作っていた。
アキたちが動かずに警戒していると、悪魔は突然、発狂したように笑い出した。無数の音声と金属音の合成音のような、不快な音が部屋中に反響する。
「…………はハハ……わはハハハは!!!チェンソーマンダ!!!チェンソーマンにトリツいた!!!こレデ、セカいはわたシノものダ!!!!!」
アキは自分のミスだと思ったが、どうやらデンジが取り憑かれたのは、たまたまではなさそうだ。敵はデンジのことを知っているらしく、チェンソーマンと連呼している。それに先程飛ばされた肉片は、明らかに彼に狙いを定めたものだった。
「クソっ!!!」
アキは舌打ちをする。
――どうして。よりによって。どうしてデンジが!
「にんゲンドもよ、あきラメろ…………そのライんをコエテキたら……………こイツのゆメニとりこまレテ、しんジマうからなア!!!ひはハハハハはは!!!」
夢の悪魔はデンジの血を飛ばし、自分の前にピッとラインを引いた。ここを超えてくれば死ぬと、こちらを脅しているのだ。
悪魔はその口端を異様に吊り上げ、興奮し切っていた。
「ぎゃッはハハハ!!!すごイユめだ!!こんナニツヨくいぞンシテいるユめは、ハジメてだア!!!!」
狂気の声を上げながら、敵の細い腕は急激にその本数が増えていった。ざわざわとデンジの姿が埋もれて、どんどん見えなくなっていく。
――駄目だ。このままでは、デンジが死ぬ!!
この状態で攻撃すると分裂増殖し、こちらが死ぬリスクが高くなると会議で共有されている。それが分かっている以上、安易に攻撃はできない。仲間の命が掛かっているのだ。
しかしデンジを見殺しにするという選択肢は、アキにはまずなかった。
それならば、取れる手段は一つだけだ。
アキは、会議で言われていた言葉を思い出す。
"第三者がその者の夢に入って依存を断ち切れば、助かるケースがあるようです"
「俺が行きます。――デンジを、助けます」
アキは、一片の迷いもなく言い放った。