初恋アザミにキスをする 1くちゅ、くちゅ、くちゅ。
響く水音が恥ずかしい。
でも、それがいやらしくてとても興奮する。
今日はアキの両手で耳を塞がれたまま、わざと音を響かせるように、舌で唾液をかき混ぜられていた。
「ん、んぅ…………も、アキぃ、待てって」
「耳塞がれて、興奮してるくせに」
耳元にキスされて、そのままアキの低い声を囁き入れられた。
ぞくぞくぞくっ。
快感が身体中を駆け上がる。
苦しい。
気持ちい。
もっとして欲しい。
もう止めてくれ。
アキ。
――なんで、こんなことになっちまったんだっけ。
デンジは働かない頭で、この拷問のような日々の始まりを思い出していた。
♦︎♢♦︎
若くしてホームレスだったデンジをアキが迎えに来たのは、突然のことだった。
目の前に急に現れた身綺麗な男――しかも服装だけでなく、顔までとても綺麗であった――に、初めデンジは警戒心を剥き出しにした。
だってアキは、開口一番に突然言ったのだ。「俺の家に住め」と。怪しすぎるにもほどがあった。学のないデンジではあるが、これまで悪い人間に騙されて散々酷い目に合ってきていたから、初対面の人間の甘言など信じられやしなかった。
だからデンジは、ずっと一緒にいた雑種の捨て犬――ポチタを抱き締めながら、威嚇する野生動物みたいな態度を取った。
「そんで、あんたに何の得があんだよ。大体、男は信用できね〰︎んだよ!」
「俺は、お前の前世の知り合いだ。だからお前を探してた。お前を保護したい」
デンジは、完全にドン引きした。
コワ〰︎……ヤベ〰︎〰︎奴じゃん…………。
真っ先にそう思った。そのはずなのに、アキの青い瞳に真っ直ぐに見つめられると身動きが取れなくなった。何故か逃げることも、完全に拒絶することもできなかった。
「とりあえず、腹減ってんだろ。飯だけでも食いに来ねえか」
「………………ポチタも……一緒でいーなら。行く」
「もちろん」
ぐうきゅるる、と大きな音が鳴った。
その時アキが、ははっと静かに笑ったのを、今でもデンジは良く覚えている。
ご飯に釣られて行ったら、アキは魔法のようにササっとオムライスを作ってくれた。誰かが手ずから作ってくれた料理を食べるなんて、初めてのことだった。
そもそもデンジは、誰かが家庭料理を作るのを眺めることすら初めてであった。
色とりどりの野菜が素早くあっという間に刻まれていき、たっぷりのケチャップで炒められると、信じられないくらい良い匂いが立ち込めた。そのままじゅうじゅうと、アキはご飯を炒めていった。今度は卵を片手で三つ割って、生クリームと一緒に手早くかき混ぜて。それをフライパンに注ぐと、あっという間に卵がじゅわっと音を立てて固まった。そこにチキンライスを乗せて、拳でトントンとフライパンの柄を叩くと、なんと卵がご飯ごとくるくるとひっくり返っていった。あっという間に、ラグビーボールみたいな綺麗な形に包まれる。アキはそれを容易く、ポンと皿にのせた。
――すげえ。魔法みてえ。
デンジは口をぱっかりと開けっぱなしにしたまま、夢中でそれを見ていた。一週間くらいろくに食べておらず腹が減っていたので、あまりの良い匂いに、途中から舌も出してハッハッと浅い呼吸をしていた。
アキはポチタ用に、茹でササミを割いたものに人参を茹でたものを加えたご飯まで作ってくれた。「犬は、玉ねぎ駄目だからな」と言って。
「うんめえぇえ!!!」
「いっぱい食え。スープもある。こっちは作り置きだけど沢山ある」
一口含んだ瞬間、それまで力のなかったデンジの目がキラキラと輝いた。オムライスはデンジがこれまで食べたものの中で、断トツで一番美味しかった。付け合わせの野菜スープは優しい味がして、二回もお代わりをしてしまった。
このたった一度ですっかり餌付けされてしまったデンジは、そのままアキの家に泊まった。あの飯がまだ食えるんなら、まあ良いかあと思ってしまったのだ。そうしてふわふわの布団に包まれて、清潔な匂いのするシーツの上でポチタを抱きしめると、まるで泥のように熟睡してしまった。
結局、デンジはポチタと一緒に、そのままアキの家に住み着いてしまった。もう、ホームレスに戻ることはできなかった。
アキのそばはあまりにも、居心地が良かったのである。
デンジは、男が嫌いだった。
男は乱暴ですぐに暴力を振るうし、ひどく酒に酔っていたりする。デンジが今まで関わってきた男たちは、デンジを利用したり借金を取り立てたりするものばかりだった。だから、男は大嫌いだったのだ。
けれど。
アキは、デンジの知っている男たちとは明確に違った。
アキは押し付けがましくない静かな優しさで、デンジを迎え入れた。彼は意外と口が悪かったが、その行動には常に思いやりが滲んでいた。
ろくな教育を受けていないデンジがうまくできなかったり、間違ったことをしてしまっても、アキは絶対に怒らなかった。静かに「これは、こうすんだ」と言って、見せて教えてくれるのだ。
風呂に入った後に髪を拭くこと、ドライヤーの使い方、毎日歯磨きをすることから始まり――洗濯をすること、皿を洗うこと、掃除をすること……本当に様々なことを、デンジは一からアキに教えてもらった。
アキは決して、声を荒げない。ただ、デンジが間違ったことをした時、少し目を細めて切なそうな顔をするだけだった。
あらゆるメディアに縁のなかったデンジは全く知らなかったことだが、アキは有名人であり、芸能人でもあった。デンジはアキの家に暮らすうち、次第にそれを知るようになった。
彼はメガヒットを飛ばすシンガーソングライターをしつつ、料理研究家としていくつも本を出しているらしかった。
アキの料理動画は、動画サイトで大人気であった。それは音声もBGMもなしで、ただ丁寧な料理工程の手元を、料理の環境音と共に淡々と映すものだった。しかしそれに夢中になる理由が、デンジには良くわかった。
デンジは、アキが料理をするのを見るのが大好きになってしまい、頻繁に口を開けたままそれを見つめるようになっていたのである。何度見ても、それはまるで魔法のようであった。
アキはデンジがそうして見つめていても、文句一つ言わない。ただ、少し小さく笑うだけだった。
ポチタは半分手作りの、美味しそうなドッグフードを朝晩にもらうようになり、明らかに毛艶が良くなった。ポチタもデンジと同じで、あっという間にアキに懐いてしまった。警戒心の強いポチタにしては、とても珍しいことである。
アキはポチタのことも、たいそう可愛がってくれた。最初に動物病院に連れていき、必要な注射などを打ってくれた。そしてすっかりシャンプーをして爪を切り、耳掃除をし、綺麗にしてくれたのだ。ポチタ用に買われたケージの中のベッドで、昼間は気持ちよさそうに昼寝をしている。夜は今まで通りデンジが抱き締めて眠っていたが、アキはそれで良いと言ってくれた。
デンジはPCの使い方も教わったので、そのうちアキの歌も、動画サイトで聴くようになった。低い声でゆったりと歌われるそれは、とても心地が良かった。歌なんてちゃんと聴いたことがなかったが、初めてそれを聴いた時――何故かデンジは、一筋の涙を零してしまった。照れ臭いので、このことはアキには内緒だ。
直接歌って欲しいと頼むと、アキは「なんか照れんな……」とぼそりと呟いた後に、ギターを持ってきて歌ってくれた。
――すげえ。これも、魔法みてえ。
デンジはもう完全に、アキのことを魔法使いとして認識した。
生で聴くアキの歌の迫力は、凄まじかった。
切なくて、甘いメロディ。人の心を虜にさせる力が、その歌声にはあった。
それからデンジは、アキの歌を聴くのも大好きになってしまった。頻繁にねだっては、聴かせてもらうようになったのである。
さて。
ここまでされてしまっては、生まれてこの方人に優しくされたことのないデンジなど、ひとたまりもなかった。
デンジはすっかりアキを信用し、居心地の良すぎるアキの家の居候になったのである。
最早、前世うんぬんなど怪しげなことを言われたことは気にならなかったし、自分なんかにここまでしてくれるアキが言うのなら、本当のことなのかもなぁと思うようになっていた。
それにアキは、初日の宣言以降、前世の話をすることは決してなかった。
そうしてデンジは、あれよあれよと言う間に、正式にアキの家に住むこととなった。その途端、アキはデンジを学校に通わせる手続きまでしてきた。既に準備をしていたらしく、異常に手際が良かったのである。
真新しい学ランを着て、とうとうデンジは学校に通い始めた。勉強にはもちろん全く付いていけなかったが、小学生レベルの読み書きから、アキが少しずつ教えてくれた。
このようにして、デンジはどんどん、アキなしでは生きていけない状態になっていった。
恐らくデンジは――この時もう、アキのことをすっかり好きになり始めていた。
だから。
頷いてしまったのだ、多分。
あんな提案にも――つい。
♦︎♢♦︎
「やっぱアキって、めっちゃキスとかうめえの?」
「……なんでだよ、急に」
デンジはその日、ワイドショーを眺めていた。隣にアキもいて、曲作りのための調べものをしていたので問いかけたのだ。
アキは曲作りに没頭する時も、だいたい自宅の専用部屋にいる。レコーディング以外は基本的に在宅勤務なのだ。ライブやテレビ出演なども、ほとんど行わずにいるらしい。
「だってほら!抱かれたい…ランキング?入ってんじゃん」
デンジが指差したテレビ画面では、今年の抱かれたい男ランキングなるものが発表されており、アキが三位にランクインしていた。アキの姿が大きく映っているのを見て、デンジは驚いたのだ。
動画サイトしかほぼ露出がないにも関わらず、日本三位。すごいことだ、よくわからないが。多分モテモテと言うことだ。
「だってさあ、日本で三番目にモテるってことだろ〰︎?モテモテじゃん。女といっぱい付き合ってるんだろ?」
「……恋人はいねえ。それで、なんで急にキスが出てくるんだよ」
「なんか、キス上手いとさあ、モテんだろ?拾った雑誌に書いてあったからよお。い〰︎なあ。俺は女にモテたことなんかねえからなあ〰︎」
「学校では、どうなんだ?」
「女の椅子になるアルバイトしてるぜ」
「…………」
アキは顔をしかめて、盛大なため息を吐いた。
「好きでもねえ奴にモテたって、そんないいもんじゃねえぞ」
「いいじゃん、俺はモテてえ!女と付き合ってセックスしてえ!はあ〰︎、俺もキステク教えて欲し〰︎わ」
それは完全に、軽口だった。だから次にアキが発した言葉に、デンジは仰天した。
「……教えてやろうか?」
「ハ?」
デンジは、ポカンと小さく口を開けた。
その瞬間、その開けた口ごと食べられるように――包みこまれるように、ちゅうとキスされた。
え。
え。
アキに、キスされた……!?
激しく動揺するデンジの間近で、アキが静かに言った。
「俺が、教えてやるよ。デンジ」
「はぇ!?いや、えーとぉ……そのお……」
「大丈夫。お前は気持ちいいだけだ。それに、ちゃんとお前がモテるようにしてやる。良いだろ?」
アキは青い目を、デンジへ真っ直ぐに向けた。夏の空のような青が真剣な光を宿しているのを見て、デンジはたじろいだ。
確かに興味はある。
気持ち良いことは好きだ。
それに、モテモテのアキに教えられたら、多分俺もモテモテになれるんじゃん……?
デンジはまるで言い訳のようにつらつらとそんなことを考え、気付いたら完全に流されて――頷いていたのである。
それからだ。
甘い甘い、拷問のような日々が始まったのは。
デンジは――――アキに、毎日キスを教え込まれることになった。