隣で寝てちょうだい、と仰向けのまま彼女はいった。
殺風景な屋上、彼女のとなりに腰をおろす。無機質な冷気の中、このまま寝転んでしまうのは少し勇気がいった。ためらいを見透かした二つの目が、遠くの交差点の信号のように光っている。
上着のジッパーを閉め、背中と後頭部とをゆっくり床に横たえる。床材がプラスチックであるためか、案外ひんやりしないことに驚いた。風によって粉にされた枯れ葉が耳元でかさかさと舞い、またどこかへ流されていく。
「星、好きなんですってね」
彼女の声もまた、枯れ葉のように空気を含んだ音で右耳をくすぐり、風と一緒に流れていく。ああ、と返事をすると、ちかちか光る青い目が空を見つめたまま、満足気に瞬いた。
「私も好きよ。図鑑で見るのも、星座早見をまわすのも。でも、こうして本物を眺めるのが、いちばん好き」
同感だ、と答える。今日は珍しく、この都会の空もよく澄んでいる。こんな日に見上げる星は、なによりも冷たく、気高く、かぼそい。
「詩的な表現ね、そういうの好きよ。ねえ青山くん、あなたと私、仲良くなれそうね」
それはどうだろうか。あんたは俺を知っているようだが、俺はあんたをよく知らないんだよ、すずきつづみ。いきなり一筆箋で屋上に呼びだされたことへの困惑と、ささやかな抗議をこめて、わざと冷たく答えた。そう、それは困ったわね、とすずきは嘯いた。声色が少し、笑っている。
「じゃあ、ゲームをしましょう。今ここにある星の名前、いくつ言えるかしら? あなたのほうが多ければ、私と仲良くなるかはあなたが決めていいわ」
まずは北極星、これは常識かつ一例ってことでノーカンよ、と彼女は言った。先手はこちらに譲りたいらしい。
「シリウス。こんな感じで言っていけばいいのか」
「そうよ。ベテルギウス」
「アルデバラン」
このあたりはちょうど見やすい位置にある。思い出しやすくて助かった。
「カストル」
「それなら、ポルックスだな」
「ふたご座ね、わかってるじゃない。デネブ」
「夏のやつ、意外とこの時期でも見えるんだな。あー、フォーマルハウト」
見えるか見えないかの位置だが、特にお咎めはなかった。
「そうね、ケフェウス」
正直どの星かわからないが、知ったふりをしておくことにした。
「あとは……」
困った。頭をめぐらせる。秋の星座、秋の星座。あれがデネブ、アルタイル、ベガ。いや、これは夏だ。デネブはもう出てしまったし、あとの二つは見えていない。
ゲームオーバー。有名どころしか抑えていなかったのが、急に恥ずかしくなった。
「どうにでもしてくれ。北斗七星」
それじゃ星座じゃない、と彼女は吹きだした。知識がなくて悪かったな、俺は素直な直観のままに星を眺めるタイプの星好きなんだ。
彼女はひとしきり笑ってから、ごめんなさい、と言った。
「べつに、無知を笑おうっていうんじゃないのよ。ただ、あなたって不器用なひとね」
そういって彼女は空へ手を伸ばした。白い腕が、暗い星の群がっているあたりを指している。
「あそこ、他より少しだけ明るい星。赤っぽい星が見えるかしら。あれが、トルキオン。その筋じゃ、有名かもね」
彼女の手が、わずかに北へ動く。
「その下、枝先の方向にちょっと動いたところ。あれはカンダスよ。そしてそのちょっぴり先、わかるかしら? アークハベラというの」
トルキオン、カンダス、アークハベラ。復唱する。聞いたことのない名前だが、異国の都市のように美しく、それでいてどこか懐かしい響きだった。きっと小さい頃、プラネタリウムでそんな名前を聞いただろうか。すっかり記憶のかなたに置き去ってきた星々を、淀みなく言葉にしていく彼女に、勝負のことも忘れて思わず感心してしまった。
「すずきは星のこと、よく知っているんだな」
「ええ。これでも、勉強したのよ。……なんて言いたいけど」
すずきはぺろりと舌を出した。
「ところがどっこい、なんにも知らないわよ。ほんの、出まかせ」
唐突にこちらを突きはなす一言が、セピア色のプラネタリウムをぴしゃりと凍らせた。
「いい? 山手線ゲーム、古今東西ゲームともいうけれど……こんなものは、言ったもの勝ちよ。まあ山手線の駅名くらいの分量じゃ、そうそう星みたいにはごまかせないけれど。青山くん、山手線はよく使う?」
「それなりには。ああ、言っておくが、ハンデは求めていない」
「そうじゃないのよ。東京駅から内回りっていえば、通じるかしらと思って。一駅ずつ。言える?」
「東京から、神田、秋葉原、御徒町……」
「それよ」
どれだよ。困惑してすずきを見ると、驚いたことに彼女は、少し不安げにこちらを見つめていた。
「だから、東京、神田、秋葉原よ。トルキオン、カンダス、アークハベラ。あの、通じていると、よいのだけれど」
思わず彼女の額に、軽めのデコピンを食らわせてしまった。ああ、と変なうめき声が己の喉から漏れていく。耳馴染みの良さは、聞きなれた駅名のせいか。すっかりまいった俺の様子に、すずきは額をさすりながら、満足そうに目を細めている。
「よかった。もし通じなかったら、一人で得意になっていたみたいで悲しいもの」
「それにしてもまあ、よくペラペラと……」
技巧的なでまかせを言えたものだな、と言いかけた時、忘れていた星の名前を思い出して飛びおきた。
「カペラ」
「あらら! 言われちゃった」
すずきも、よいしょと身をおこす。両の手で背中の砂をはたく音が、けだるげな拍手のようにぱらぱらと鳴っている。
「さすが青山くんね。私、もうあれでおしまい。思いつかないわ」
そのまま星空を背に、彼女は立ちあがった。細い手足が、風にゆれる梢のように伸びている。青い双眸が今は、北風に洗われた夜空のように、冷たく光っている。
「あなたの勝ちよ。私と仲良くなりたいかは、あなたが決めていい。もう話しかけるなと言うのなら、そうするわ」
そういった彼女の脚は、少しだけ震えているように見えた。
いや、震えていた。待て。なぜ十一月も終わろうというのに、ほとんど素足なんだ。
「あんた、寒くなかったのか」
「不器用なひと。寒いに決まってるじゃない!」
彼女はくるりと踵をかえし、階段を駆けおりていこうとする。
「おい、待て! 上着くらいは貸すから! 身体を冷やすな! 」
そう叫んで追いかけてしまった俺は、すでに彼女の術中なのだろうか。