「つづみちゃーん、しっかりしてよう……」
何でもそつなくこなすお姉さんことすずきつづみが、カップルだらけのキラキラ通りでめったにない痴態を晒している。嬉しくはない。首筋を撫でる彼女の吐息も、こうアルコール臭くては敵わない。
「ふふふ……不死鳥の丸焼きってまだ売ってるかしら……」
「はいはい、不死鳥を食べない。酔いがさめたらチキン買おうねえ。きっとタイムセールで2割引きだねえ。だから足を動かす」
上半身の体重はほとんどこちらに預けているが、一応彼女のブーツはアスファルトの上をトコトコと動いている。
肩に回された彼女の力ない手が時折ぶらりと揺れ、その度に「ふふっ」という声が耳元で聞こえる。
しばらくすると笑い声の中に、小さな嗚咽が混ざりはじめたが、聞かなかったことにした。
「湯たんぽ、ほかほかぁ……」
冷え切っていた手に、即席のペットボトル湯たんぽを握らせると、つづみが棒読みのような、惚けたような、不思議な声を出した。タオルを枕に回復体位をとらせたのだが、かけてやった毛布がベージュなためか、巨大な猫が丸まっているようである。おっきなネコチャンはベッドの上で、お湯入りのペットボトルをコロコロ転がして遊んだり、ぎゅっと両手で握ったりしている。
あまりベッドを揺らさないよう気をつけながら、ささらは枕の近くに腰をおろした。つづみの顔は横向きであまりよくわからないが、すぅ、すぅ、と小さな息遣いは聞こえる。伸ばした青髪の隙間に、似合わない大柄なピアスが光っているのがよく見えた。なんとなく痛々しくて、ささらは左手で、彼女の髪をゆっくりと撫でた。
「どう、おさまった? いろいろと」
「うーん……」
はい、ともいいえ、ともとれる返事をして、つづみはペットボトルを転がしつづけている。
ひとまず、涙と胃液とをまきちらして、感情の嵐は去ったらしい。
「ほんと、近くに私んちがあってよかったよね……部屋代バカ高いけど、ここ住んでてよかったって思ったよ。わりと初めて」
「すごいわね。セレブ」
「聖夜に仕事のないアイドルが、セレブなわけあるかいな!」
こっちは一人で泥水すすってんだぞ、あの日からずっと……!と叫ぼうとも思ったが、傷ついて幼子のようになった彼女を見ると、そんな言葉をぶつける気にはなれなかった。そもそも彼女がこうなった原因は多分、こちらにある。
「吐き気は?」
「今は、ない。お部屋は、くるくる、きらきら回っているけれど。観覧車、みたい」
「酔っ払いのくるくるは、どっちかっていうと、コーヒーカップじゃないかなぁ」
そうね、とつづみが言う。そうだよ、とささらも言う。観覧車はもっと静かに、でも大きく回るんだ。ステージの袖で出番を待った、ふたつの心臓のように、
「観覧車、回れよ回れ……」
「よく、知ってるわね」
「つづみちゃんが、教えてくれたんじゃん。綺麗な短歌だなあって思って、ずっと覚えてた」
「君には一日(ひとひ)……そうね、きっと私はあの人にとって、たった一日分の価値しかなかった」
ペットボトルを転がしていた白い手は、いつのまにか静止して、小さく震えていた。ささらはそっと、自分の手を重ねた。
「私は、バカね」
「うん、バカだよ」
「すごく、ベタよね」
「うん、ベッタベタだよ」
つづみは堪えるように、小さく、長く、息を吸った。
「ささらにしとけばよかった。諦めずに、追いかければよかった」
その一言は、とうに閉め切ったはずの扉の隙間に、深々と突き刺さった。
あの時、つづみの手を取っていたら、どうなっていただろうと思う。
二人でステージに立った最後の日、つづみから告げられた想いをささらは拒絶した。自分はどんな中傷を受けようが、喋って歌って踊ることしか知らないし、そうして生きていくつもりだ。しかし彼女には沢山の道があった。口さがない世間とアイデンティティの軋轢に、幾晩も苦悩していた彼女の姿も、よく知っていた。彼女が大切だった。大好きだった。だからこそ、自分をとりまく無遠慮と好奇の渦に巻き込みたくなくて……。
「その結果がさ、クリスマスに暇してる年増のアイドルと、うぶな恋して遊ばれた女。笑っちゃうよねぇ、いい歳してさ、二人とも……」
「おかげさまで、二人っきりで過ごしたってスキャンダルにもならないわ。皮肉なこと」
「にゃにおう!? これでも昨日の夜はイベント出たし、明日の夜は挨拶周り、明後日は収録だぞ!」
「収録って、なんの?」
「……グラドル対抗ティラノサウルスレース」
「ふふふ、グラドルが着ぐるみって、ふふふ……!おっぱい見えないじゃない」
「笑うな! おっさんかお前は」
デコピンの要領で、つむじあたりを軽くはじく。つづみはしばらく小声で笑いつづけていたが、やがてぽつりと言った。
「あのステージ。ささらには一夜じゃなくて一生(ひとよ)だったの。そうでしょう? 一生かけて、追い続ける光。恋だ愛だに、うつつを抜かしている場合じゃないものね」
「つづみに、とっては」
「私、私にとっては……多分ささらが、貴女自身が、一生の想い出」
つづみはゆっくりと身体を起こして、隣に座った。上気した顔がこちらを向いて、ゆっくりと近づいてきた。
キス、され……
ない。代わりにデコピンが飛んできた。
「さっきのお返し。ねえ、ささらが世間の声なんか跳ね飛ばして、むしろ私の愛を認めさせる! ってくらい強くなったら、迎えにきてくれてもいいわ。それまでに私が売り切れちゃったらごめんなさい、だけど」
「どの口がおっしゃるんですかねえつづみさん……このささらちゃんこそ有名になっちゃったら四方八方引く手あまたのモッテモテ、ソールド・アウト間違いなしなんだから!」
ソールド・アウト、売り切れ。そういえば何かを忘れている気がする。
「あ……もうスーパー閉まっちゃった。つづみちゃんさ、『不死鳥の丸焼き』買えなかったけどいい?」
「不死鳥?」
そう聞き返してから、つづみは変な引き笑い混じりで笑い転げはじめた。
「ふふふ、不死鳥……! ささらあなた不死鳥って……!フヒャ、不死鳥は食べ物じゃないわよ!ヒュー!」
「つづみー!笑うなー!あんたがさっき自分で言ったんだぞー!」
感傷的なことを言ってもこの女、やはり酔っ払いだ。朝までつきっきりで看ていてもバチはあたらないだろう。
こんな日も、一生の想い出になっていくのだ。二人の間では、きっと。