狂気は1/2の確率を喰らうか(仮) 香水を買った。
特に欲しかったというわけではないけれど。丁度仕事でいつもより少し多めの報酬が入ったこともあって、なんとなくマンネリ化してきていた生活に少しだけ変化をつけてみようと思い立ったのが発端だった。
スーツを新調するよりは安く済んで、髪を切る事よりは贅沢した気持ちになれるもの。ネクタイはしないし、靴かサングラスでも新しく買ってみるか、というつもりで足を踏み入れた百貨店。そこでたまたま見つけて気になったのが、香水だった。
「どれか気になるものがありますか?」
売り場をうろうろしていたところに声をかけてきた女性店員に少し緊張しながら初めて見にきたことを伝えると、香りの好みやどういった時につけたいのか、などいくつか質問が返ってきた。
集中したいという理由で仕事中につける人。休日に癒し目的でつける人。異性と会うここぞという時につける人。用途に合わせて使い分けたりする人も少なくないのだとか。
“香り”というものはそれくらい人の気分や集中力に強く影響するんです。と女性店員は人好きのしそうな柔らかい声で言った。
なるほど思ったよりも奥が深い、と話を聞いているうちにだんだん興味が湧いてきて、自分の好みに合いそうな物を知るためにもいくつか試してみることにした。
強い香りはあまり得意じゃない。甘すぎるのもちょっと。専門的なことは全く分からないけれど、石鹸っぽい香りのものと柑橘系のさっぱりした香りのものは結構好きかもしれない。と伝えると、店員はその系統の中でさらにいくつか新しいものを出してくれた。
「あ…これ、」
「気に入られましたか? これは柑橘の香りが主役なんですが、少しだけスパイスが入った珍しい作品なんですよ」
一度にいろんな種類の匂いを嗅いでいるせいで鼻がバカになっているような気はするものの、手にしたそれは嗅いだ瞬間から今まで試したものとは少し違う、妙な安心感のある香りだった。落ち着くと同時に、なんとなくソワソワするような、気持ちがわくわくするような。そんな不思議な感覚を覚えたのはこれが初めてだった。
「香水はつけてから時間が経つに連れて香りが変わっていくんです。これはつけたての時にまずスパイスが香って、最後には木蓮の花の香りに変わっていくんですが、終わりも甘すぎず爽やかなので男性にもおすすめですよ」
勧められるまま、手首に軽く吹きかけてもらったそれを改めて嗅いでみる。確かにさっぱりした柑橘の匂いの後ろで、少し刺激的な不思議な香りが邪魔にならない程度に存在している。ちゃんと嗅いだことはないけれど、多分これが“スパイスの香り”で、“ソワソワする香り”の正体なんだろう。
「スパイスの香料は人が本来持つ体臭に近い香りのものが多いので、同じ香りでも人によって落ち着く気持ちになったり、逆に刺激的に感じたりと印象が違って面白いんですよ」
稀にいらっしゃるアルファ性やオメガ性の方には影響が出てしまうこともあるらしいのですが……。
話しながらハッとした様子で俺の顔色を伺う店員の意図が最初はわからず首を傾げていたが、数秒考えて気づいた俺はああ、と声を出した。
「俺はベータなんで、大丈夫です」
「失礼いたしました。かなり少ない人口とはいえ、全くいらっしゃらないわけでないので……。当事者の方が直接肌につけない限りは影響のない程度の香料なのでご安心ください」
値札を見せて貰えば、サングラスよりは高いけれど靴を買うよりは安く買える。それくらいの値段だった。
小さな紙袋に包んでもらったそれを受け取って百貨店を後にした。歩いている間に店でつけてもらった香りがふと香ると、なんとなく浮き足立つ。今まで気にしたことなんてなかったけれど、香りが気分に大きく影響するということを肌で感じるきっかけとなった。
アルファ性、ベータ性、オメガ性。
知識としては知っている。けれど、日常生活の上では耳馴染みがなさすぎて、どこか別の国の話のように思っていた。
男女問わず優秀な遺伝子を持つ者が多く、他人よりも抜きんでた才能や知能で一目置かれる存在であるアルファ性。
対して、他人と比べて特別劣っているというわけではないが、主に生殖器の作りの違いを持つオメガ性。特に“孕む”という特性上、男のオメガ性は差別対象として虐げられるだとか、そういった存在を利用した最低なビジネスが存在するだとか。そういう薄暗い話は職業柄、噂話として耳にしたことが何度かある。
男女の性別とは別に、人口の数%しか存在しないアルファ、オメガの性。ほとんどの人間がどちらの特性も持たないベータ性で、その性はほぼ遺伝で決まると言われている。
アルファとオメガの間に生まれた子供はそのどちらかの性を受け継ぐことがほとんどであり、逆にいえばベータ同士の子供はほぼ確実にベータ性を持って生まれる。
稀に遺伝子変異があることもあるらしいが、アルファは能力に、オメガは男でもほとんどが中性的で華奢な見目に成長する上、ヒートというわかりやすい特性があるため、疑いや可能性があれば専門の病院で性検査を受けることもできる。
俺は両親ともにベータ性のはずだったし、アルファ性やオメガ性の特性も持ち合わせていない。
瞬間記憶や計算能力は高いと言われているし自負もあるけれど、何より人口に対する発現率と遺伝の確率を考えれば検査を受けるまでもなくほぼベータで確定。見た目はもちろん華奢でも中性的でもなく男だし、さっきの店員の話も合わせれば、この香水を実際肌に乗せて何の影響もなく過ごせている、つまりフェロモンの影響を受けるという一番大きな特性を持っていないことが何よりの証拠だ。
アルファ性に生まれていれば、もしかしたらもう少し違った人生を歩めたかもしれない。
そう思わなくもないが、彼らは彼らで、フェロモンによって受ける影響で悩まされることがあるのだろうと考えると、凡庸と言われようともやはりベータ性に生まれていて良かったと思う。今日みたいに、思いつきで香水を買うことだってきっと安易にできないのだ。彼らは。
自分の意思とは関係ないものに振り回されるという感覚はベータの俺にはわからない。けれどきっと恐ろしく、歯痒いものだろうという想像くらいはつく。周りのヤクザたちの“ヒートを使ったビジネス”の話を聞く限り、きっと楽ばかりの人生ではないだろうから。
◇
翌日。スーツに着替えて髪をセットして、サングラスをかける前に、昨日買った香水を少しだけ手首につけて、仕事に向かった。
集中力を上げるためだとか、そういったことは別に期待していなかった。ただなんとなく気分よく打てればいいと思っただけ。実際、リラックスしつつも適度な高揚感を持って勝負に臨めて、さらにツモ運がやたらと良かったこともあって大勝で終えることができた。
『負けた方は、賭け金に終了時のお互いの点差を元に計算した追加金を差し出す』という相手から提示されていた条件の下、俺が五万点差をつけて勝ったため、うちの組は賭け金に加えて更に350万のボーナス金を受け取った。上機嫌の組長から受け取った報酬袋には予定の倍額が詰められていて、俺もかなりいい気分のまま家に帰り、玄関のドアを開けようとした。が、直前で手が止まる。
「来てやがる……」
鍵が開いている。電気がついている。ドアを開ければ、予想通り煙草の匂い。
「勝手にあがるなって何回言えばわかるんだよ」
「いいじゃない、鍵壊してないんだから」
「当たり前だ……!」
我が物顔で煙を吐きながら笑っている男に殺意が芽生えそうになる。壊さなきゃ勝手に開けていいわけがあるか。
「玄関の鍵、変えるか……」
「じゃあ次から窓だな……窓は破らなきゃならねえが……」
「あ……?」
俺の顔を見てアカギはクツクツ笑ってるが、こっちは笑い事じゃない。
「お前が言うと冗談に聞こえないからやめろ」
「冗談だと思うの?」
「えっ……」
今度こそ吹き出して笑い出しやがったクソ野郎に腹わたが煮えくりそうになるけれど、ここでコイツの相手をするだけ時間の無駄だ。そう自分に言い聞かせて、無言でアカギの手元にある灰皿をひったくって自分の煙草に火をつけた。
「ねえ、なんか香水つけてる?」
「……? ああ。まだ残ってるか、?」
煙草を咥えたまま立ち上がって上着をハンガーにかけていると、後ろから声がかかった。朝つけたきりだからもうだいぶ薄くなってるとは思うが、意外とわかるもんなんだろうか。
「好きじゃねえな。その匂い」
首だけで振り向けば、さっきまで人を小馬鹿にして笑ってたはずの男が不機嫌さを全面に出した顔でこちらを見ていた。
「お前にどうこう言われる筋合いはない。俺は気に入ってる」
「風呂入ってきてよ」
「吸い終わったら言われなくても行く」
「ダメ。今すぐ」
「はぁ?」
こいつの考えてることは何ひとつわからない。けど、流石にちょっと腹が立った。八つ当たりされているとしか思えない。少しくらい言い返したってバチは当たらないはずだ。
「なんでお前にそこまで指図されなきゃ、」
言いながら振り返ると、立ち上がったアカギが目の前に迫っていた。
「なん、」
「いけ好かねえ他人の匂い纏わりつかせて目の前立たれたら苛つくんだよ」
「は、」
今から人殺しでも始めそうなほど鋭い、温度のない視線。同じく温度のない低い声。まるでドス黒い靄のような重い空気が身体中に纏わりついて、ひゅ、と息を呑んだ。
全身から冷や汗が吹き出す。足が竦む。呼吸がうまくできない。怖い。なんでこんなに怒ってるんだ、俺が何したって言うんだ。わからない、こわい。
「な、に……っ、なんで、そんな、」
「1分待つ。その間に風呂行きな」
「わ、かっ、た。わかった、から……離れて、くれ」
無言でアカギが離れたあと、まだ長い煙草を灰皿に押し付けて、逃げるように風呂場に駆け込んだ。
ひとりになった途端、ドッと全身の力が抜けて風呂場の床に座り込んだ。多分、腰が抜けている。しばらく立てそうにない。
座り込んだまま震える手でシャワーを手に取って、頭からお湯をかぶりながら呆然としていた。
そんなに嫌いな匂いだったんだろうか。いや、でも、前に俺の整髪料の匂いも好きじゃないと言ってたし、あの時は別に怒ってはいなかった。
そもそも香水に関しては匂い自体微かに残っている程度のはずだし、嫌いだったとしてもあそこまで怒る意味がわからない。元々あいつは普通ではないけれど、さっきのアレはどう見ても異常だった。それに、“他人の匂い”という表現もよくわからない。嫌いな奴が使っているものと似ていた、とか。
考えられる限りの可能性を考えていく中で、ふと、あの香水売り場の店員の言葉を思い出した。
「あいつ……もしかしてアルファ性か、?」
人口の数%しか存在しない希少なアルファ性とオメガ性。確率を考えれば、俺たちベータ性は生きていく中でその存在と出会わないまま人生を終える者がほとんどだろうと思う。アルファ性なんて稀な人種に出会うことなんてそうそうない。存在自体が幻みたいなものなのだ。
だけどあいつは、赤木しげるはどうだ。人間離れした感性、勝負力、運。あいつならあり得るかもしれない。否、アルファ性が存在するとしたら、きっとあいつのような存在なのだろう、と想像さえつく。あんな奴が世界にあと数人、数十人いるかもしれないと考えるのはそれはそれで恐ろしいけれど。
あの悪魔がアルファ性だったとしたら。香水の残り香に含まれるフェロモンに似た香料に影響を受けてしまったのだろうか。
でも、噂で聞いていた話とは少し違う。
アルファ性もオメガ性も、フェロモンに影響を受けた際は理性を無くし本能的に性行為に走る、という話は有名だ。でも、あんな風に他人を射殺さんばかりに攻撃的になるという話は聞いたことがない。それに、あの香水の香料も当事者がつけない限りは影響は出ない程度のもの、という話だったはずだ。
わからない。ただ単純に機嫌が悪かっただけなのだろうか。だとしたら逆に酷すぎる話だ。俺は別に何も悪いことはしていないし、あいつだって直前まで何ともなかったのだ。普段から理不尽なところは確かにあるが、流石にあそこまで怒るからには何かしら理由があってくれなければ困る。
匂いが残ってないか確認することはできないけど、なるべく丁寧に全身を洗って、身体の震えがおさまってからなるべく音を立てないように風呂場から出た。
緩慢な動きで寝巻きを身につけて、重い足取りで脱衣所を後にする。
さっきの様子だと、アカギはもうここには居ないかもしれない。そうであってくれれば嬉しいと僅かに期待を込めたけれど、漂ってくるハイライトの煙でその希望は見事にへし折られた。
アカギは、さっきと同じ場所に座ったまま相変わらず煙を吐いていた。灰皿の中には吸殻の山。さっきほどの攻撃的な雰囲気は感じられないが、話しかける気には到底なれなくて、俺はなるべくアカギから距離をとって、部屋の隅に小さく丸まるように座った。狭い古アパートの一室で取れる限界の距離は、あまりにも心許ない。
カチ、カチ。と時計が時間を刻む音がやけに耳につく。静かすぎる部屋の中を、その音とアカギの煙草がじりじり燃える音、煙を吐き出す音だけが満たしている。家主であるはずの俺はといえば、その中で物音を立ててしまえばあいつの視線がこちらに向くかもしれないと思うとどうにも恐ろしくて、身動ぎひとつできずに膝を抱えてじっとする他ない。
わからない。なんだか疲れてしまった。いっそ眠ってしまいたいけれど、布団を敷くこともこの状況じゃ叶わない。
「誰かからもらったの。アレ」
「え……、?」
ぼんやりしているところに突然話しかけられて、自分でも驚くほどビクリと肩が跳ねた。アレ、とは何か。と一瞬考えて、すぐに例の香水の話だと理解した。
「……貰ったんじゃない、自分で買った、」
「ふうん」
ざり、と古い畳の上を滑るようにアカギが近寄ってくる。俺が取っていた精一杯の距離はあっという間に詰められて、さっきの恐怖が蘇って一気に心拍数が跳ね上がった。
「ひ、っ」
「……もうしない、さっきみたいなことは」
「う゛……っ」
後退りしようにも後ろが壁で逃げられない。少しでも距離を保ちたくて壁に張り付くように縮こまった俺にアカギが言う。恐る恐るその顔を見上げてみれば、まだ少し不機嫌そうな、それでいて少しだけ困っているようにも見える何とも言えない表情の男と目が合った。
「……なにがそんな、気に食わなかったんだよ、」
本当は聞くつもりなんてなかった。掘り返してまた怒らせるのが怖かったから。ただ、普段変化のないその表情に微妙な困惑が見えた気がしたから、つい、口にしてしまった。
俺の質問に、アカギはしばらく黙って考えるそぶりを見せた後、「わからねえ」と答えた。
その表情は怒っているようには見えず、やっぱりどちらかといえば困惑しているように見える。
それならば、と、思いきって切り出した。
「お前、さ。もしかしてアルファ性か……?」
「あ、?」
怪訝そうな顔でこちらを見ているアカギに、香水売り場で店員から聞いた話をそのまま伝えてやった。アルファ性だけでなくオメガ性にも関わってくる話ではあるが、どちらかに当てはまるとすればお前は確実にアルファ性の方だろうからそう聞いた、ということも含めて。
俺の話にアカギは僅かに目を丸くしていたが、全て話し終える頃には「なるほどな」とどこか納得しているようだった。
「調べたことはねえが、あり得る話ではあるな。確かにさっきは、あの匂いを嗅いだ瞬間に急に苛ついた」
「興奮する、の捉え違いじゃないのか?」
「いや……むしろ真逆。不快感以外の何者でもなかった」
「ンン……?」
不快感を覚えるなら、やっぱりフェロモンの影響とはまた違う要因なのでは? と俺は首を傾げたけれど、当のアカギは「へえ、そういうことか……」とやけにスッキリした表情を浮かべた後、クツクツと肩を揺らして笑い始めた。
「なにがそういうこと、なんだよ」
「わからない?」
「わからない」
「なるほど、凡夫だ……」
「?!」
なんでここで喧嘩を売られなきゃならないんだ。
バカにするな! と声を荒げようとした瞬間、アカギの顔が首筋ギリギリまで近づいてきて思わず動きが止まった。
「は……? なに、」
「言われてみたら少し、匂いするな」
「え、いや……ちゃんと風呂で洗い流して、」
「香水じゃない」
「……?」
本当にわかんない?
首元に顔を埋めたまま話すアカギの息がくすぐったい。明らかにおかしい距離感に肩を押し返そうと両手をかけた。その手首を逆に掴まれると同時に、首筋に生ぬるい濡れた感触がナメクジのように這って、全身に鳥肌がたった。
「ひっ……おま、なに、し、て、っ」
「特性が薄いってことかな。でもさっきよりは匂い、強くなった」
「ちょ、やめ、ろ……っ、なんなんだよ、っ」
混乱ばかりが頭の中を渦巻いていて、アカギの言動に全くついていけない。おかしな状況にバクバク暴れ回る心臓が痛い。顔があつい、目が回りそうだ。
「あんたが買った香水さ、多分アルファ性のフェロモンに近い匂いが使われてるんだろ」
「は……っ、ぁ、?」
「だから俺はあの匂いが不快だった。自分のテリトリーに他人の手垢がついてるみたいで気色悪りぃと思ったワケだ」
ぼんやりしてきた頭でも、アカギの言葉をなんとか理解することはできた。多分動物の縄張り争いみたいな本能が刺激されたのだろう。それはよくわかった。けど。
「っ俺はベータだ……っ、お前の、テリトリーには、入らない、っ」
「ククク……そこだ。的が外れてるんだよ」
「ぁ……?」
「元々特性はかなり弱いんだろうけど、そろそろ自分で気づかない? さっきよりだいぶ匂い強くなってきたじゃない」
あんた、オメガ性だろ。
「は……ぁ、……ッ、?! 、っ」
ぐわ。と突然視界が揺れた。同時にあの香水を限界まで煮詰めてドロドロに溶かしたような強い香りがぶわりと舞う。それを吸い込んだ瞬間、頭が殴られたようにまたぐらぐら視界が揺れた。
倒れ込むように目の前のアカギの肩に顔を埋めると、さっきの匂いにダイレクトに脳みそを殴りつけられて頭の中からぐちゃぐちゃになっていく。下半身の後ろ側が生暖かい何かで濡れてぬるついている。なにが。わからない。なにが起きてる、?
「ふ、一気に濃くなった……っクるな、これ、」
「、あ、ちが……っ、お、れ、っ俺は、」
オメガじゃない。あり得ない。
だって俺の親はベータ同士で。見た目だって華奢なわけでも小柄なわけでもない。
何よりあの香水のフェロモンがアルファ性の特性を持っているのなら。俺がオメガだったとしたら影響がなかったことに説明がつかないじゃないか。だからあり得ない、あり得ないはずなのに。
「は……、なん、で、っ、だよ、」
ぶわ。とまた香りが強くなる。あの香水を煮詰めたような、香水なんかとは比べ物にならないくらいに強いアルファの、アカギの香り。視界が歪む。脳が溶ける。腹の中がグズグズ疼く。
離れなければ。
認めたくはないが、ガンガンと本能が鳴らし始めた警鐘を無視するわけにはいかない。このままじゃマズい。俺自身はもちろん、こいつだってこんなことを望んでいるわけがない。
「ア、かぎ……っ、もう、離れろ……っ」
身を捩って逃げ出そうにも、壁とアカギに挟まれている状態ではどうにもならない。手首を掴まれたままの腕で身体を押し返そうとしたけれど、それに気づいたらしいアカギに両手とも壁に押し付けられて完全に身動きを封じられた。
自分の意思とは関係ないものに振り回されるという感覚なんて、想像の世界でしかわからないと思っていた。わからないけれど、きっと恐ろしく、歯痒いものだろうと。
そんな生温いものなんかじゃなかった。自分が自分でなくなるんじゃないかという不安と、恐怖。目の前の男が怖くてたまらないのに、脳が勝手に溶かされて、欲しくなって。怖くて苦しくて、心がぐちゃぐちゃに引っ掻き回されて。
強い力で掴まれた手首が軋む。ギラついた、それでいてどこか虚ろなアカギの目が恐ろしくてたまらない。なんだっけ、アルファとオメガのフェロモンが影響し合ったらどうなるんだっけ。離れなきゃいけない。ああ、なんでだっけ。腹が疼く。怖い。欲しい。こわい。
ぐるり。
視界が回って、アカギの顔と天井が見える。ぶつけた頭が痛い。ああ、今度は床とアカギに挟まれて動けない。
着ていた寝巻きが剥ぎ取られる。やめてくれ、って、多分言った。唇に噛みつかれて、喋ることもできなくなった。