橄欖之苑 第十幕「楊漣殿が、逮捕されたぞ!」
「彼を助けないと」
「余計をなことをするからだ」
その日は朝廷のあちらこちらで、そんな声が飛び交っていた。
それは東林党と宦官党の党争が、新たな局面を迎えたことを告げる出来事だった。
去る天啓四年六月。
東林党の領袖の一人であり、都察院左副都御史であった楊漣は魏忠賢の専横を見かね、その罪状を数え上げてこれを弾劾した。
太祖は宦官が政に干渉することを許さず、国政は内閣に委ねられるべきものであった。にもかかわらず魏忠賢は国政を壟断し、政体を乱している。これが第一の罪。
先帝が任命した大臣を嫌い、帝に解任させようとした。これが第二の罪。
帝の周りから忠臣を退け、逆臣を近づけた。これが第三の罪――
罪状の数は、二十四にも上った。
楊漣はこの弾劾状を添えて帝への上奏を試みたが、魏忠賢は様々に手を回してこれを妨害した。ある時は帝の出朝を許さず、ある時は武装した宦官で帝の周りを固め、楊を近づけさせなかった。
直訴は失敗に終わったが、しかしこれを機に、従来蓄積していた魏忠賢への不満が表出することになった。東林党は七十名の連名からなる上奏を提出し、改めて魏を糾弾した。宮中に吹き荒れる弾劾の風波。何かが変わる兆しと期待する者もいた。
一方の魏忠賢は、流石にこの事態を恐れたという。しかし彼は身を守るために帝を利用した。彼は帝の面前で泣きながら辞職を願い出た。平素から魏を信用していた帝は乳母の客氏のとりなしもあってこれに心動かされ、逆に楊漣の方を処罰したのだ。
弾劾者たちがすがったのは皇帝の裁き。
だがその皇帝は今や、正邪を見極める力もない傀儡でしかなかったのだ。
この出来事以降、魏忠賢の胸には黒い恨みの焔がともった。
彼は楊漣を恨み続け、
十月には東林党系の官僚を次々と放逐、楊漣もまた官籍から削られた。
しかし彼の気はそれでも晴れなかった。
彼が望んだのは屈辱を完全に晴らすこと。すなわち楊を抹殺することだった。
さらにそこに、先帝・泰昌帝が東林党を重用したことで割を食った旧勢力の憤懣が結びつき、復讐の黒焔はさらに勢を増す。
二十四条の弾劾から生まれた反攻の流れは、魏忠賢をかろうじて人倫に繋ぎとめていた鎖を引きちぎる作用をもたらしたのかもしれなかった。
そして、天啓五年。いよいよ報復の幕が上がった。
魏忠賢は宦官党の司法官を利用し、ことの発端を作った楊漣をはじめ二十数名を逮捕した。収賄の冤罪を着せられ捕らえられた楊漣は凄惨な拷問の末死亡。その他の東林党の同志たちも免職もしくは命を落とし、彼等の拠点であった東林書院も破壊され閉鎖されることになった。
宦官党の官僚を攻撃し魏に恨まれていた高攀龍は官籍剥奪、また、東林党と共に魏を弾劾した兵部尚書の趙彦も任を解かれて故郷に帰されることになった。
こうして、奸臣の振るう刃はこれまでにないほどの「草」を刈り取った。
その後に残ったのは、さらなる閉塞と闇、そして……一つの決意だった。