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    @Clanker208

    水都百景録の一部だけ(🔥🐟🍠⛪🍶🍖🐿🔔🐉🕯)
    twitterにupした作品以外に落書きラフ進捗過程など。
    たまにカプ物描きますがワンクッション有。合わなかったらそっとしといてね。

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    ★水都史実二次。人を選ぶ要素含むので前書き確認PLZ
    ☆ENJ度5/5

    本作はこの場面のための作品なんだけど、それゆえに大っぴらに公開できないという…。うーんこれどういうカテゴリに入るんだろ、恋愛感情ではないと思うんだよな
    引用文は聖書です。文語訳から、文脈に合わせてちょっと手を加えました。
    文末の光は崇禎帝の治世の暗示。
    崇禎朝で徐光啓は活躍したけど袁可立は二度と出仕しなかったんですよね

    ##文章

    橄欖之苑 第十四幕その知らせを聞いたのは、日が落ちかかった頃だった。急ぎ馬を出し、灰色の街を駆けていく。瑠璃瓦を葺いた牌坊をくぐり、仕事を終えた振り売りたちが炭火を囲んで路地でたむろしている横を通り過ぎ、住宅街に面した通りに出る。
    夕暮れ時の大気は残酷なほどに冷たい。向かい風を浴び続け、頬はすでに感覚を失いかけていた。
    手綱を引いて馬を止める。邸宅の様子をうかがうと、ひと気を感じず、がらんと静まっている。しかし彼の家にはもともと人が少ない。それはいつものことだ。来訪を告げると馴染みの老僕が取り次いでくれ、中に入ることを許された。

    「君もおせっかいだな」
    相変わらず手狭な部屋で、苦笑交じりの声が出迎えた。
    「聞いての通りだ。天津に移るよ」
    子先はこちらに背を向けたまま、机の上に置かれた書物の整理をしていた。以前見た時は雑多に積まれていたそれも、今は随分数が減って、綺麗に整頓されていた。
    「家具はあまりないからいいけど、この通り、書の移動が大変でね」
    「……帰ってこられるあてはあるのか」
    「完全に、魏忠賢に睨まれたみたいだ。彼がいるうちは、難しいかもしれないな。でも大丈夫だ、天津なら順天府から近いし、やることもたくさんある。稲の改良と、それから前から書きたかった農書を…」
    「子先」
    騙されないぞという風に、俺は言葉をさえぎる。先程の明るい調子はただ気を遣ってのことだったらしい。子先はようやくこちらを向くと、衣を握りしめ、悔しげに眉を寄せた。
    「仕方ないだろう。これは勅命だ。どうにもならない」

    彼はそのまま背後の机に軽く寄りかかり、遠くを見つめるような目つきになる。
    「この国は、どうなってしまうんだろうな。奴の暴走は止まらないし、僕の改革も、何も叶わないまま…心残りばかりだ。伝教士たちも、僕がいなくなったら苦労するだろう。こればかりは、君にも頼めない」
    伝教士。その言葉がまた、棘となって引っかかる。
    「……頼まれたって、俺は引き受けてやらないぜ。天主なんてまやかしだ。そんなものを信じて、お前は幸せになれたのか?」
    「僕が立ち直れたのは彼らのおかげだ。そんな風に思ったことはないし、信仰をたがえるつもりもないよ」
    彼を怒らせるのは覚悟していた。しかしいつものような、強い抗弁は返ってこなかった。その違和感が、喪失感を募らせる。

    「いつもそうだな。どうして君は、そんなに彼らを否定しようとするんだ。何かされたわけでもないだろうに」
    「俺は……」
    正面切って問いかけられ、少し後ろめたい気持ちになる。調子が狂って、上手く言葉が出てこない。なぜ彼らを厭わしく思うのか。侵略への警戒心?異人への嫌悪感?いいや違う。この感情を何と呼ぶのか、本当はとっくに気づいていた。
    しかしそんなこと、彼に言えるはずもない。
    結局、それ以上の追及はなかった。もしかしたら、彼にもわかっていたのかもしれない。その代わりに。

    「礼卿」
    子先は静かに、そしてかすかに笑みを含んだ声で俺の名を呼んだ。
    「僕は君に、とても感謝しているよ。茨の園みたいなこの場所で、君はいつも味方でいてくれた。……だから」
    言葉が途切れる。目線が重なる。そして、
    「君の望みを、聞かせてほしい」
    囁くような声が、黄昏色を帯びた部屋の空気に溶けた。

    耳鳴りがしてきそうな、痛いほどの静寂。書物、家具、舶来の器具。空気や光でさえも、この部屋の中に存在する全てが、俺の言葉に耳をそばだてているようで居心地が悪かった。
    格子窓から差し込む西陽が、子先の輪郭を縁取っている。それはかつて天主堂で見た玻璃(ガラス)窓を思わせた。

    ふざけるな、と思った。
    今更だ。俺の望み?そんなものはもう断たれてしまった。
    彼を守りたいと思った。
    これ以上、苦しんで欲しくないと思った。
    だが結局、そんなことは叶わなかった。だから今、こうしているんじゃないか。
    大体そんなことを聞いてどうする。今はそれより――
    何かに引っかかって、俺の思考はそこで止まった。

    いや。止まったのではない、答えにたどり着いたのだ。
    俺が本当に望んでいることは、彼を守ることなどではない。
    最初は確かにそうだった。だけど今は違う。
    守る?そんな必要などはない。ここに俺がいる必要すらないのだ。
    ……それが本当に叶うのなら。

    勇気を出して、俺は子先の眼をまっすぐに見返した。
    紫檀色の瞳。儚げな顔立ちに似合わず強い光に満ちたそれは、いつだって真理を見つめている。彼の眼に映るものと、俺が今見つけたもの。
    今は……今だけは、それは互いに重なっているのかもしれなかった。

    「なあ子先、俺はずっと考えてたんだ」
    正面から差し込む強い光に目を細めながら、俺はようやく問いに応じた。
    「民のため、国のため、お前はいつも誰かのために戦ってきた。だったら、お前は一体どこにいるんだろうってな。……否定はしない、それがお前だ。だが今は…」
    富国強兵、経世済民。そして…泰西、世界、天主教。お前が愛するすべて。
    「……今だけでいい。全部忘れてくれ。今この時を、お前だけのものにしてほしい。俺の望みはそれだけだ」
    ならば帰れと言われても構わなかった。それも覚悟のうえで、返事を待った。

    子先は何も言わず、ただ無表情にたたずんでいた。
    やがてそれが悲痛に歪み、肩が震える。食いしばった歯の隙間から嗚咽が漏れる。
    次の瞬間、
    突然襲った衝撃に、足がよろけた。首の後ろに走る軽い痛みと、うっすらと伝わる熱。踏みとどまって体勢を整えた頃にはようやく、何が起きたかを理解していた。

      ――ここに御子、橄欖之苑にいたりて言ひ給ふ。

    助けを求める子供のように、子先は俺に縋りついていた。

      ――わが心、いたく憂ひて死ぬばかりなり。汝等此處に止りて我と共に目を覺しをれ。

    嗚咽はしだいに高ぶって、激しい慟哭へと変わってゆく。今まで見せたことなどない、激しく、そして偽りない感情の発露。

      ――御子跪づきて祈り言ひたまふ。父よ、御旨ならば、此の酒杯を我より取り去りたまへ。

    むせび泣く彼の背に、手を回して抱きしめる。
    俺はただそうやって、彼が抱え続けてきた深い孤独と苦痛を受け止めた。

    落陽の残照が、西の空に溶けていく。
    物憂い黄昏色に染まっていた部屋の中は、今や薄青い夜の色に塗り替えられつつある。
    薄闇の中に、粗末な灯篭だけが淡い光をにじませていた。  
    深みを増してゆく闇に抗おうとも、それはあまりに頼りなかった。         

    夜の帳が上がってしまえば、虚しく消える蜃気楼。
    確かにそこにあるうちに。
    この手で触れていられるうちに――


    幕は上がり、再び下りる。

    天啓六年十二月。
    英雄の美名も、叛臣の汚名も冠することなく、俺は一人宮城の門前に立っていた。
    赤く塗られた城壁の上に、三層の楼閣がそびえたっている。屋根には黄金(こがね)色の瑠璃瓦が輝き、青や緑に塗られた梁には豪奢な象嵌細工が為されている。
    しかし今やその威容もむなしく映るばかりだ。
    大明。
    輝かしいその名に最早光はなく、
    路上に落ちた果実のごとく、奸臣と蛮族のなすがままに腐り果てゆくだけだ。
    冷たい風が一陣吹いて、頬をなぶった。

    俺が守りたいのは何だったのだろう。それはこの国だったのか?
    内外の危機に見向きもせず歓楽にふける愚かな天子、我が物顔で国政を壟断し血をすする奸臣、党争に明け暮れる廷臣たち。
    決してそんなものではない。きっとそれは「正義」だったはずだ。
    帝の寵臣を裁いたときも、満州族と戦った時も、俺はただひたすら「それ」を為そうとしてきた。
    しかしそれも、現実の前ではたやすく揺るがされる。

    だがあいつは違った。
    俺にとって、子先は正なるものの象徴だったのだろう。
    蟲毒の箱のような宮中にあって、その毒に染まらぬ高潔さ。
    それはあまりに幼く、愚かでもあった。しかし自分には、その愚かさを貫くことすら難しかった。
    彼の存在に触れると、俺が信じてきたものは確かにそこにあるのだと、背中を押されるような気がしていた。

    だがいまやその標はなく、自らの地位すら奪われた。
    もはやこの場所に正も義も見出すことは出来ない。ならば、ここにいる必要はない。

    官帽を脱ぎ、石畳の上に置く。まるで墓標だ、と自嘲して背を向ける。
    もう二度とそれを戴くことも、見ることもないだろう。

    灰色にけぶる、京師の陽が沈みゆく。
    それはわずかな光を投げかけてはいたが、それは最早、この眼には届かなかった。
    石畳を踏みしめて、俺は頽(くずお)れゆく至尊の城に背を向けた。
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