HiMERUさんがおなかを壊している話「なんで……来たのですか」
お腹を抑えながら、それでもなんでもないように声を出した。
それがいつもより強い口調になって、余裕のなさの表れみたいになって嫌になってくる。
「あの……HiMERUさん……大丈夫ですかぁ」
扉ごしに俺に話しかける声が聞こえる。
いつものように自信のない態度。おどおどとした姿勢。そんなもの、姿を見なくてもわかる。
それなりに高い身長を丸め込むような、小さく見せるようなあの三つ編みがありありと浮かんでくる。
サークルで出かけていた最中であり、不自然に抜けた俺を誰かが様子を見に来るのは予想できる展開だ。
まだ、桜河だったら……いや、誰にも来てほしくなどないのだけど。
「礼瀬」
「はっ、はい」
「HiMERUは大丈夫ですから先に行くといいのです」
「で、でもHiMERUさん、もう三十分はトイレに籠りきりですし。流石に心配ですよ……」
礼瀬の言葉で我に返った。もうそんなに時間が経っているのか。
この狭い密室のなかでは時の流れなんてものは感じることができない。時計がかけてあるわけでもなければ室内なのも相俟って外の景色で判断することすらできない。
ぐるぐるとせわしなく異音を出す体内をきゅっと丸める。
明らかに体調が悪かった。体調が、というよりかはどちらかというと消化器官の異常。
あけすけもない、恥じらいを捨てた表現をしてしまえばおなかの調子がよくなかった。完全に下痢だった。
何が悪かったのかと考えてもまったく心当たりなどなく、ただただ胃腸の不調に参っている。
水のような固体のなりそこないが、絶え間なくじくじくと尻の穴を冒していく。
永遠のような、かと言って時が無駄に消費されていくのを時間の経過で自覚していく。
もう……三十分も経ったのか。
便器に叩きつけていた勢いもすっかりなくなり、もうどうすることもできないというのに身体が憔悴しきっているのか、トイレから出ることができない。
「礼瀬……。ふたりにHiMERUは体調が優れないので失礼すると連絡してくださいませんか」
「いいですけどぉ……」
扉ごしにバッグの中を探るようなごそごそとした音が聞こえてくる。
礼瀬はここで連絡する気なのか……?
俺は思わず舌打ちしてしまいそうになった。
俺の手元にも無意識に引っ掴んでいたのかバッグはあるし、連絡することも不可能というわけではなかった。
だけど、実際の所まったくそれができることはなく、時間が過ぎてしまった。
スマホを取り出す余裕もなければ、一旦流すこともできていない。
だから、あまりここにいてほしくないのだ。
たった一枚隔てただけの密閉もされていない空間。
普段気を遣っていようがなんだろうが、所謂下痢状態にあればそんなものは無関係だ。
取り繕っていないところどころか、こんなところあまり記憶にすら残したくない。
品のない、不必要に揶揄うような幼稚な感性をこの男が持っているか否なんてこの際どうでもいい。
ただ単純に見られたくない。認識されたくない。こんなHiMERUは、HiMERUじゃない。
「礼瀬……」
「はいっ……なんでしょう」
「あなたに一方的にお願いばかりして申し訳ないのですが」
「い、いえ。全然……それより……」
「ふたりを連れて……先に……ぅう……」
「ひめ」
「HiMERUのことはいいので」
礼瀬が何かを言おうとしているのをわざと遮る。聞きたくない。早くここからいなくなってほしい。その望みだけが口を動かす。
なのに、頭はまったく思い通りに働いてくれない。スマートに用件を纏めることすらできない。
もはや自分が何を言っているのかもわからない。
「……ぅう……」
全然よくならない。あれだけ出しても腸は荒れて、俺を苦しめる。
ぎゅるぎゅると変な音が鳴っている。次第に呼吸が浅くなっていく。
「HiMERUさん……大丈夫ですからぁ……。こちらのことは気にしなくて……いいので……」
俺が気にするんだ。
咄嗟に強い言葉で暴言まがいのことを吐いてしまいそうになる。イライラしてあたってしまうなんて最悪だ。そんなこと理性があるうちには絶対にしたくない。
だいたい礼瀬は普段から過保護すぎるきらいがある。ユニットだけでなく、サークルでも、いつでも。
いっそ邪だともとれる愛情表現はそれでも、あまり俺に向けられることはなかった。
桜河などの小さく、かわいいものが好きなのだこの男は。だから。
「HiMERUのことなどどうでもいいでしょう……」
「な、なんでそうなるんですかぁ!? そんなわけないでしょう」
「HiMERUのことを置いていきなさい。これは命令なのです」
あぁ、くそ。全然頭がまとまらない。めちゃくちゃ言っているという自覚はあるが止めることができない。
「嫌ですよ?! そんなの、いくらHiMERUさんに命令されても聞くわけにいきませんよぉ」
「なんでなのですか。HiMERUは桜河ではないのです」
「え……? あの、どういう」
「あなたの好きな小さくて可愛い存在じゃないのだから置いていきなさい」
「そんなめちゃくちゃな……というかHiMERUさんに私はどう見えているんですかぁ……。いえっ、聞くのは怖いぃぃぃ。どうせ碌なことじゃありませぇぇん……。そうですよねぇ……私のような矮小な存在がHiMERUさんに好かれるどころか、嫌われてもおかしくないですよねぇぇぇ……すみません、すみませんぇぇぇん……」
なにやら早口でまくし立てているけれど、脳に酸素が生き渡っていないのか軽い脱水症状でも起こしたのか半分も理解できない。
意識が薄く、ぼんやりしていくのを感じる。
空気が波のように揺れて、ぼうっとしてくる。
「HiMERUさん……HiMERUさん!」
「なんですか……」
「置いてかないので、出られるようなら出てきてくださいませんか? あの……声がどんどん……弱まってきているので……。あと言動もおかしい……い、いえこれは私ごときが言っていいことでもないのですが……」
「ひめるはおかしくなどないのです」
「ひぃぃっ。す、すみませぇぇん」
舌がうまく回らず、どこか舌足らずのような発音になってしまう。それに気づいたところでどうすることもできない。言及されなかったのが幸いだ。もしかわいいとでも言われたらここで死ぬ。
だけど確かに、悔しいけど礼瀬の言う通り一旦ここから出た方がいい。だいぶ意識が曖昧になってきている。気を失いでもしたらシャレにならない。
「ちょっとだけでてってくれませんか」
「え……」
「すぐ向かうので……」
「では別に」
「に、匂いとか消したりするのです!近くで嗅がないでください。まったくHiMERUに何を言わすのですか!?礼瀬はここまで言わないと理解できないのですか!?」
「ひぃぃ。わ、わかりましたぁぁぁ。でもそれはHiMERUさんが勝手に言ったんじゃ」
「うるさいのです」
謝りながら遠ざかる足音に、ふぅと小さく息を吐いた。
正直、何か考えられる精神状態でもないのだけれど、ここから引っ張ってくれたのは……まぁ……ありがたくはある……。
なんて、弱りきった脳みそはそんなこと甘いことを弾き出していた。