「ん……あぇ、おれ、寝てた…?」
寝起き特有の舌足らずな声が彦助の耳をくすぐる。明日の休みのために色々と頑張っていたのは知っている。ソファでうたた寝をしていた奉一を見て、愛おしさと同時に、最初から一緒についていけないことに悔しさが込み上げてくる。
同じ事務所の仲間たちと一緒に海に行こうと決まったのが数週間前。人はたくさんいたほうが楽しいだろうから、自分たちのことを知っている近しい友人も連れてきていいよ、ということを伝えられて彦助がスケジュール帳を確認すればその日は朝からどうしても外せない仕事が入っていた。
それに気付いたときの彦助の荒れ具合といったら。同じスタイリスト仲間に代わってもらえば…だとか、果ては仕事をキャンセルするだの、今後の仕事の信頼に関わるようなことを言い出すので奉一は全力で止めた。
最終的にまたプライベートで2人だけで行こう、と約束にキスまで貰って彦助は渋々納得した。
新しい水着を買いに行ったときには彦助に選んでもらうことにした。これは彼の気を良くする為ではなく、どうにも奉一の好みを見つけるのが彦助は妙に上手いからである。
そんなこんなで迎えた前日。一度納得はしたが、それでも心の中でわだかまりが残っている。
……どうせなら困ってしまえ、と彦助は悪戯に興じることにした。もちろん、奉一の無防備な姿に欲情したのもあるけれど。
そうして頬に触れて、撫でて、場面は最初に戻る。
「ひこ、どした…?」
奉一は20歳という年齢ながらまだ幼い顔立ちをしている。とはいえ“そういう”意思を持って触れる意味を知らないほど、精神が幼いわけではない。ぴく、と体がはねる。
「……俺明日遊びに行く予定なんだけど」
「…知ってる」
「それにまだシャワーも浴びてない……っ」
「終わってからでいいだろ……だめか……?」
しゅん、と、まるで垂れた犬の耳が見えるような、そんな感じで許しを乞えば奉一は言葉を詰まらせた。
彦助は自分のどんな姿が奉一にとって弱いのか、よく理解していた。つまりこれは“巧妙な手口”ということだ。
「……ほどほどにしてよ」
「ん、分かってる」
ちゅ、と頬に口付ける。頷いてはいるが正直なところ、彦助は加減をする気など全く無い。受け入れてしまったのが終わりの始まりだということに、奉一が気付かないように追い詰めていく。
愛撫を施し、だんだんと息が上がっていく様を見るのはいつだって気分がいい。彦助は唇を舐めた。
今からこのソファはベッドだ。少し狭いけれど、その狭さもまたいいアクセントになる。大人2人分の体重を受け止めた布生地のソファが少し沈む。
立てた膝の間に体を潜り込ませればもう閉じることは出来なくなった。
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「う、わぁ……」
翌朝。
案の定、というべきか。結局ソファで散々楽しんだあと、寝落ちてしまった奉一がベッドで目覚め、だるい体と腰をなんとか奮い立たせる。シャワーを浴びるために浴室に立って、鏡越しに見た光景は思った通りのものだった。
首元や胸に散らばる赤い痕の数は数えたらキリがない。だけど奉一がもっと、と強請ったことも覚えていて、強く責めることも出来なかった。
はぁ…と大きく溜め息を吐きながら排水溝に流れていくお湯を眺めていく。珍しくゴムを着けていたから、それが白く濁っていくことはない。
情事のあとを洗い流して、髪を乾かしたりしながら必要な荷物をまとめていく。ふと、女性からすれば少ない化粧品の棚からあるものが無いことに気付く。
——コンシーラーが見当たらない。
今まででも、興が乗ってキスマークを残してしまったことは何度かある。それでも、今の今まで何のスキャンダルにもならなかったのは化粧で隠していたからだ。
ところが、そんな“隠し事”に一役買っていた一番の功労者がどこにもいない。今からコンビニやドラッグストアに行くのも待ち合わせの時間がある。
……ふと、先に家を出ていった存在を思い出す。
まさかとは思うが、それしか考えられない。
「犬かよ……」
今日のことをまだ根に持っていて、困らせたいがために彦助がどこかへ持っていってしまったのだ。
こんな体では肌を晒すことに抵抗が生まれるし、十分に遊べないだろうと。それから自分以外の誰かと遊びに行くことへの、恋人からとしての嫉妬心。
風呂場でこぼしたものよりも更に大きい溜め息を吐いて、仕方なく首元があまり開かないパーカーを着込む。海ではラッシュガードが脱げないな…とひとりごちながら奉一も家を出るのであった。
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