赤ずきん こぼれ話「――今日は薬酒だけなのか?」
いつものように籠から赤く色づいた液体の入った瓶を取り出した弟は、少し動きを止め、疑問を呈した兄にそっけない声で答えました。
「そうだよ」
「ふぅん...珍しいこともあるもんだな」
そのとき、よくよく観察していれば、いつも感情が感じられない弟の声がすこし弾んでいることや、焼き立てのパンの匂いがしていたこと、パンを包んでいた包み紙が籠の中にそのまま残されていることに気付いたでしょうが、エランはぜんぜん、気付きませんでした。
かぴかぴのパンが戸棚にいくつか残されたままのおうちに一人ぼっちで住んでいるひとには、すこし難しかったのでしょう。しかたがないですね。
◆ ◆ ◆
それから三月ほど後のことです。
赤ずきんは、毎日――ではなく、魔女の家の人々に言いつけられたときだけ、長男の家に食べ物と飲み物を持ってやってきます。食べ物や飲み物でご機嫌伺いを装ってはいますが、実態としてはただの仕事の催促なので、以前は末の弟である三男と交代で来ていたのですが、最近は専ら赤ずきんと呼ばれる次男が来ていました。
「これ、今日の」
「なあ、また薬酒だけなのか?」
そして次男ばかりがおつかいに来るようになってから、変わったことが一つありました。それまでは毎回用意されていた焼き菓子やパンがほとんどなくなったのです。
「そうだけど」
「ベルメリアに俺がパン食べてないって告げ口したりした?」
言っておくけど、半分以上は食べてるし、食べれなかったやつは適当に鳥にやったりしてるから無駄にはなってないはずだ――多分――それに成人した男に焼き菓子ってどんなセンス?などとぶつぶつ言い始めた兄を遮って赤ずきんは言いました。
「してない」
「は?」
「あんたがパンをどうするかは僕には関係ない」
次々と送り付けられるパンを持て余していたので、別にパンがないならないで良いのです。けれども、相変わらずふてぶてしい弟になんとなく毒気を抜かれてしまったエランは、素直に疑問を口に出しました。
「じゃあベルメリアが作るの面倒になったとか?」
「……べつにそういうわけじゃないと思うよ」
その少し含みがある言い方と、さりげなく逸らされた目に、エランは初めて弟を訝しむ気持ちを覚えました。
「もしかして、お前つまみ食いしてないか?」
まあ、この弟は食に興味がないどころか何にも興味がないので、そんなことは天地がひっくり返ってもありえません──エランは無駄な質問をしてしまったことを後悔しました。
しかし、その質問をあとでたいへん、たいへん後悔することになるとは、その時の彼は思ってもいなかったでしょう。
「……パンは、食べた」
「え?お前が?」
天地はひっくり返ってしまったようでした。何に対しても全くやる気の感じられない弟が、わざわざ籠を開けてパンを取り出し、それを食べるなんて想像すらできません。
「僕と、スレッタが」
森の動物を餌付けでもしているのでしょうか。それどころか、勝手に名前を付けてパンを分け合っているなんて……ついに頭がおかしくなってしまったのかもしれません。エランの背中を寒いものが走り抜けます。
「……すれった?」
嫌な予感がしたのですからそこでやめておけばよかったでしょうに、エランはつい聞き返してしまいました。
弟は、薄く微笑みました。そこには先程の無表情でぶすくれた少年の面影なんてどこにもありません。
「ぼくの、こいびと」
天地はひっくり返って、粉々になってしまったのでしょう。
「……」
彼を刺激しないようにしよう。エランは遠い目をしてそう決めました。森の動物を恋人として可愛がる危ない人間が、いつの間にか弟になっていたようです。そう、エランの弟はもともと一人しかいなかったはずで───
「うん、うん……なるほどな。それで、何の種類なんだ?ウサギか?それともキツネとか?」
「彼女は女の子だよ」
少したぬきっぽいし、本人は狼だって言い張ってるけどね、といつになく浮かれた口調で続ける少年に、エランの思考は今度こそ音を立てて止まりました。
「……人間なのか?」
「そうだけど」
いつの間に?誰と?
この森に年齢の近そうな少女はいないはずです。
しかしそれよりも──
「お前に恋人!?」
いきなり叫んだ兄に、弟は微笑みを消して鬱陶しそうな顔をし始めました。
「さっきからそう言ってるでしょう」
この不愛想で冷たくて人一倍何もしたくない弟を、好きな女の子がいる──その可能性に思い当って、エランはあんぐりと口を開けました。
「そ、それはお前が勝手にその女の子のことを一方的に好きで、貢いでるとか……」
そうです。年頃の女の子にせっせとパンを貢ぐ男が好かれるものでしょうか。そう思うと少し哀れです。
「彼女は、ぼくのことがいっとう好きなんだって」
「はあ……」
彼女に言わせるとね、とうきうき言い出す弟の目は優し気に伏せられていて、唇のはしっこはちょっぴり上がっていました。誰でしょうか、これは。
「──僕は優しくて、かわいくて、とってもかっこいいんだって」
あと、一緒に僕の好きなことを探してくれているんだ、とってもしっぽがふわふわで、髪もふわふわで、泣き虫で───たくさんの情報が耳に入ってきた気がしましたが、どれもエランの脳を素通りしていきます。
ベルメリアのパンに惚れ薬がはいってるとか、ないだろうな……エランは現実逃避にそう思いました。あの魔女共ならやりかねません。まあ、弟とそこらへんの田舎娘を甘ったるいキャラメルみたいにべったりくっつけるために薬を使うほど暇ではないはずですが。それに、パンはもともとエランが食べるものなのですから、彼に影響が出ていない以上、その可能性はほとんどないでしょう。
恐ろしいことにこの森で最も奇人であるこの男に好かれ、この男を好いてしまっている人間が本当にいるのです!
相変わらず信じられない思いでしたが、エランは赤ずきんの緩んだ口を噤ませるため、急いで重々しい声を出しました。
「お前たちの浮かれた恋愛事情に興味はない」
自分の分のパンを勝手に食べられていたことなんて、もはやどうでもよいのです。
はやくこれを追い出さなければいけません。なんでしょう吐き気がしそうな程の甘さの惚気は!
「一緒にいると世界が輝いて見えるとか、抱きしめたら暖かくてずっとこうしていたかった〜とか、はじめての口づけは木苺の味──とかなんとか、今どき少女小説でも見かけないこと延々聞かされたら堪ったもんじゃない!」
エランは自分の想像にゾッとしながら叫び、弟を家から追い出そうとしましたが、どうしてわかったの、と言わんばかりに目を見開いている少年と目が合って、今日一番の後悔をする羽目になりました。
(おしまい)