其の願い、叶えたり。「与謝野さん、うずまき行こう!」
医務室の扉を豪快に開け、有り難いお誘いの言葉を放ったのは乱歩さんだった。
「善いねェ、丁度小腹が空いてたとこさ」
時計を見れば午後三時を過ぎている。特別依頼もなく、事務処理に追われる国木田くん以外は暇をしているところだろう。
「鏡花達も誘おうか」
「いや、敦くんと出掛けてるからいない」
「おやそうだったかい、賢治は?」
「賢治くんは休みじゃないか」
「あ、然うだった」
うっかりしていた。今朝の朝礼にいなかったじゃないか。と云っても形式だけで殆どの者が参加していないが。今目の前にいる乱歩さんも例に漏れずだ。
「与謝野さん大丈夫? こん詰め過ぎなんだよ」
「本当だ、休憩挟むにもってこいだね」
ぎしっと音を立て妾は椅子から立ち上がった。
「与謝野さん何してたの?」
階段を下りながら聞かれる。
「ああ、手伝いに行く病院のリストを作ってたのさ。最近この手の依頼が増えたからね」
「でも異能力を使うわけじゃないンでしょ?」
「使わないというより、使えないよ。普通の怪我や病気は妾の異能じゃどうにもならない」
然う、いっそのことトラックにでも轢かれてきた患者なら妾の異能も役に立つが、逼迫しているのはいつだって骨折手術や、脳や心臓に病を抱えた患者だ。こればかりは、医師として向き合うことしかできない。そして、どんなに手を尽くしても、命は手から零れ落ちていってしまうこともあると知った。
「そだね、探偵社員みたいに解体するわけにはいかないか」
「さすがの妾でもそれはしないよ」
「そうであることを祈るよ」
ちょっと声が苦くなったのは気のせいということにしておこう。
さすがの乱歩さんも妾のやり方は厭らしい。まあ好む者などいないだろうが。
そして乱歩さんが妾の治療を必要とすることなど未来永劫ないだろう。なんせ稀代の名探偵なのだから。
「マスター! 僕ココアとパンケーキ! ココアは甘めにね!」
うずまきの扉を開くなり叫ぶ乱歩さん。他の客などお構いなしだ。それが乱歩さんらしくて思わず口角は上がる。年上だけれど、可愛い人だ。でも本当は、
「ほら、与謝野さんは?」
「妾はコーヒーとチーズケーキにしようかな」
ショーケースを見てつぶやく。黄色くて艶のある三角形は妾の腹を刺激した。
「マスター聞こえた?」
微笑んで頷くマスターに「お願いします」と言って席に着く。二人の時はいつもソファ席で向かい合う。
大人数だとカウンター含めてそこかしこに座るけれど、なんとなく、二人のときは奥から二番目のソファ席が恒例になっていた。
「何か妾に用事かい?」
「如何して?」
「いつもなら妾との暇つぶしは大抵花札だろう?」
「嗚呼、与謝野さんとの花札は楽しいからね。他の奴等は詰まんない」
「そんなに妾も強かないけど」
「否、与謝野さんはやっぱり頭が良いから楽しいよ、予想外の勝負に出てくるし」
名探偵だって頭脳だけでなく、運が必要になるものでは敗北もある。実際そんなに多くはないが勝負で妾が勝ったことは何度かある。太宰も混ざってやった時に勝った時は痛快この上なかった。あの日の夜に奢ってもらった酒は実に美味かった。
「それは善かった。名探偵の相手をできるなンて光栄だ。じゃあ、今日は単に駄菓子を切らしてたのかい?」
「否、それも違う。昨日賢治くんがたくさんもらって来てくれたよ。商店街のお姉さんから」
賢治のことだ、荷運びや肩たたきなんかしてあげたんだろう、駄菓子屋のお姉さんに。
「さすが賢治だね、じゃあ国木田くんが五月蠅かったとか?」
然ういえば、何度か医務室まで怒声が聞こえたような。相手は云わずもがな。妾が顎に手を置き考えていると、乱歩さんは吹き出した。
「国木田も苦労するなあ、単純に与謝野さんとうずまきに来たかっただけだよ。それ以上も以下もない」
そンな遣り取りをしていたら飲み物が運ばれてきた。マスター自慢のコーヒーは香りから絶品だ。
乱歩さんも満足気にココアを手に取る。「これこれ」と云いながら。
続いてホールの女性がパンケーキとチーズケーキを運んできてくれた。勿論乱歩さんの前にクリームたっぷり乗ったパンケーキを、ベリーが横に転がるチーズケーキを妾の前に。常連の探偵社員相手に慣れたものだろう。
「いただきます」
妾がそう手を合わせる前に乱歩さんの口の中はパンケーキでいっぱいだ。自然と頬が緩むのを感じながら妾はフォークを手に取った。
「然ういえば社長は出張中だったねェ」
「うん」
「今夜の酒の相手は誰に頼もうか」
「与謝野さん、飲み過ぎは善くないよ」
「乱歩さんも駄菓子の食べ過ぎは善くないよ」
簡単な、何でもない遣り取り。
カップをソーサーを置く音、
皿にぶつかるフォーク、
店内に流れるクラシック、
どれも頗る穏やかで、
心臓からぬるま湯に浸かっていて、怖い。
「与謝野さんは勘がいいから困る」
「勘が鈍ったら探偵社員として終わりだよ」
何事もないように、二人甘味を口に入れていく。
変に身構えないように。自分を律して、妾は妾を貫く。
乱歩さんはとても優しいから、時間をくれた。
「近々、与謝野さんは……」
「うん」
珍しく煮え切らない乱歩さんに続きを促す。
「あの厭な奴と会うことになる」
「厭な奴?」
「与謝野さんを苦しめた僕が大嫌いな奴」
嗚呼、それだけで、全てを察する。
やっぱり、乱歩さんは優しい。否、社長のことが大好きだからかもしれないが。
大抵のことが如何でもいい乱歩さんが、彼の人のことを「大嫌い」と云うなんて。
「それは困ったね」
妾はソファに背を預け、天を仰ぐ。
「当分の間は病院の手伝いも無理だ」
「然うかい、じゃあ連絡しとかないといけないねェ」
「あちらさんの首領のことに、耳を傾けちゃ駄目だよ」
ココアに息を吹きかけて、乱歩さんはこちらを見ない。
「声も聞きたかないけどね」
「与謝野さんは昔のことがあるから、動揺すると思う。でも絶対に駄目だよ」
「判ったよ。ありがとう乱歩さん」
「思ったより取り乱さないね」
ようやくこちらを向いてくれた乱歩さんの瞳には、心配の色があることが判る。妾はなんて幸せ者なんだ。
「あれから十年以上経ってるからね、妾もぼんやり十年過ごしていた訳じゃないよ」
「知ってる」
そんなこと、誰よりも。そんな言葉が続きそうな声色だった。
「探偵社は守る。私情で崩れることなんて絶対しないよ」
「僕は与謝野さんのこと云ってるんだけど」
珍しく、本気の口調に一瞬動揺した。
この人は妾を助けるために、あの場所に来てくれた人。異能力を、異能力が使えない場所で使ってくれた人。
とても、大切な人だ。
どうか、この人が戦場の前線に立つことがありませんように。
きっと、持ち前の超推理でそんな日は来ないだろうが。
「森さんには二度と壊されないよ、だって妾には世界一の異能力を持った人がくれたものがあるから」
そっと、髪飾りに手を添える。
「……僕があげたんじゃない」
何故か拗ねた返しをされたが、あの日、是を妾の膝に置いてくれたのは、間違いなく乱歩さんだ。
「それにいざとなったら、探偵社唯一の推理力を持った名探偵が如何にかしてくれるだろう?」
「読み切ってみせるよ」
「其の言葉だけで十分妾の御守りだ」
少し冷めたコーヒーは酸味が増していたけれど、やはり美味しい。
乱歩さんと過ごすゆったりした午後は、次は何時になるのだろう。
その日まで、心を保てるよう、妾はゆっくりゆっくり時間を持て余した。
チーズケーキを一欠片何度も噛んで飲み込む。
もうこの話はお終い。
「社長のお土産何だと思う?」
「僕はもうお願いしてある」
「え、そいつは狡いよ乱歩さん」
「出張先の名物を敦くんに頼んで調べてもらっておいたんだ」
「妾も頼んでおけば善かった」
「それは社長困ると思うよ?」
量に、と憐れむ顔をされ妾は反論する。
こうやって、ずっと話していたいな。無理だと判っていても、願わずにはいられない。
でも、探偵社を守りたいという気持ちに嘘は無い。
妾の大事な場所、乱歩さんが誘ってくれた大事な場所、絶対に守る。
然う固く決意しながら、妾と乱歩さんは笑って、不貞腐れて、二杯目の飲み物を頼んだ。
「マスター、御代わり!」