名探偵はお見通し追っていた文字が、滲み出した。隣の頁の図解はぼやけて人の形が辛うじて認識できるくらい。
やり過ぎたか。
眉間に手を当て、目を閉じるとズシンと目蓋に漬物石でも置かれたようだった。目薬をお気に入りの巾着から取り出す。その一滴は突き刺すように沁みた。
集中力がすっかり飛んでいった。背もたれに体重を預ける。
次に助けを求めてきたのは脳だ。圧倒的に糖分が足りない。少し考え、分厚い医学書を閉じて立ち上がった。
「おや、乱歩さん。珍しいねェ」
探偵社の扉を開くと其処には乱歩さんしかいなかった。買い物に行くときは絶対にいない乱歩さんがいる。なンだい、お見通しか。まあ、医務室に籠もっていたから当たり前か。
「難解事件が起きてなきゃ僕は自由だからね」
馬鈴薯を薄く切って揚げたお菓子をバリバリいわせながら乱歩さんは云った。
「丁度善かった、乱歩さん駄菓子何かくれないかい? 糖分が足りなくてねェ」
「善いよ、与謝野さんは特別」
「ふふ、そいつは有り難い」
目の前の机の上をがさごそ漁り、んーとね、と駄菓子がみるみる机を覆った。
「ラムネ味の飴玉もあるし、チョコレイトもあるし」
チョコレイトと聞いて、嗚呼、そいつは善いと思った。
「乱歩さん、チョコレイト少し分けて、」
「でも、今日の与謝野さんにはこっちをお勧めするよ」
ソファに座った乱歩さんが両手を広げた。妾は目を丸くする。意味が判らず、何のつもりか聞こうとしたら、
「ほら」
促された妾はまるで磁石のように引っ張られ、気付けばその腕の中に収まった。
「お疲れ様、だから今日は休んだ方が善いって云ったのに」
ギュッと力を込めて抱き締めてくれる腕に応えるように、妾も乱歩さんの背中に手を回した。
「有給は出来るだけとっておかないと、何に遣うか判らないから」
「与謝野さんは優しすぎるンだよ」
「そンなこと云うのは乱歩さんくらいさ」
妾はソファに膝を置き、少し距離を取る。
「目の下のクマ、凄いよ」
覗き込まれた顔に、妾は狼狽える。
「仮にも恋仲の女性になンてこと云うんだい」
「仮じゃない」
急に、声が静かになった。それまでのじゃれ合いが嘘のように、じんわりと空気が変わっていく。
水に青の液体を一滴垂らしたような。其処を金魚が泳いで青はじわじわ広がる。
金魚は、妾。
「御心配どうも、でも是くらいたいしたことないさ」
「違うよ、そっちじゃない」
そっちじゃない、と云われても。妾は何か約束でも忘れてただろうかと考える。
「与謝野さん。泣きたいなら、泣いて善いよ?」
妾は何となく云われていることに気付きながらも知らない振りをして、ふっと、微笑む。
「医学書を読んで泣く医者なンて居やしないさ、世界中探しても」
「んーん、違う」
頑固だなぁ、と乱歩さんは口をへの字にして、額と額を合わせてきた。距離はゼロとイチの間。
帽子を被っていないから、乱歩さんの癖毛が触れて、くすぐったい。
「云っただろう? その悲しみに価値がある。与謝野さんは優しい」
乱歩さんにしては珍しく、一つ一つ慎重に、言葉に想いが込められたような。そんな云い方だった。
嗚呼、やっぱり。
名探偵は判っているのだ。
妾の右目から雫が落ちる。
そして、乱歩さんのシャツを掴んだ。
「……また、救えなかった」
「うん」
「前の症例と同じだ、同じことを繰り返した」
「うん」
「妾は、結局、何も出来ない」
「医者は神じゃないよ」
「判ってる! 判ってるけど……」
シャツを掴む手の力が緩んでいく。無力さを思い知りながら。
「動脈瘤破裂はどうしようもない、人間がどうこうできる、まして与謝野さんの異能でもどうしようもないよ」
「ははっ……病名まで判ってンだね」
「そりゃ名探偵だからね」
そして、乱歩さんはまた私を抱き締めてくれた。
「善いよ、今は僕も、見てない」
こんな時にこんな優しい声、狡い。狡い。
再びシャツを掴む手に力が入り、妾は声にならない嗚咽を漏らして、目からは悔しさで搾り取られた水分がぽたぽた落ちてきた。
人を助けたかった。
異能を使わずと救えるくらい、半殺しに等しなくて善いように。そして、外傷以外の病気にも立ち向かいたかった。全ての命を大切にしたい。
まずは語学からだ。英語に独逸語、医学に関するものから始めた。其れは想像以上に長い道のりで、けれどそれでも辞める気には毛頭ならず。
そして、異国の医学書も読めるようになった。症例がどんどん頭の中で増えていく。この日本で、横浜で、妾の力が役に立つなら。
医師免許を取ってからは、人手不足で大きな病院から小さな病院まで助けを求められた。
其処には、妾の異能ではどうにもならない患者がたくさん居た。外傷で瀕死の重傷など滅多にない。殆どが内部のものだ。どれだけ手術や薬の調整、実践を重ねても重ねても、簡単に、呆気なく、命は手の隙間から零れ落ちていった。
救えた命があることは判っている。妾も馬鹿じゃない、其処だけ見落としたりはしない。
それでも、救えなかった命の方が、深く、底の方へ止まることなく積もっていく。そして時折、金魚が泳いで其れ等を渦巻き、何時の間にか涙となって外に出る。
大抵、ギリギリになったところで乱歩さんが気付いて、心は決壊せずに済んでいるが。
ひとしきり泣き喚き、段々恥ずかしくなってきた頃、乱歩さんが背中をトントン叩く。大の大人がこんな子供のような泣き方をしてしまった。
「落ち着いた?」
「あ、ああ。悪かったね、みっともない処を見せちまって」
「これは僕の特権だからね」
よく意味が判らず、特権? と聞き返すと、
「今日は社長に云って全員外の勤務にして貰ったんだよ」
成る程、道理で乱歩さんしか居なかった訳だ。
……何故?
「与謝野さんの危機だからって云ったら直ぐ対応してくれたよ」
其れは、つまり、妾の限界を感じ取ってくれていたということか。
この人には敵わない。
「妾の涙は乱歩さんの特権なのかい?」
「慰める役割が僕の特権」
そして、また、優しく背中を撫でて、今度は頭をポンポンされる。
顔がどんどん熱くなる。
「乱歩さん、もう大丈夫だから」
「まだ駄目でーす」
甘やかされるのに慣れていない妾は、如何すれば善いのか判らず。硬直してしまう。
「本当に大丈夫だから」
「慌てる与謝野さんも善いね」
やっと体を離してもらえたと思ったら、目蓋の辺りに接吻が落とされる。
「僕は何時でも此処に居るよ」
「……うん」
「与謝野さんの気持ちが判らないわけじゃない。僕が喜んで向かう殺人事件には必ず被害者がいる。其れは、幾ら僕でも気の毒に思うよ」
確かにそうだ。乱歩さんが喜ぶのは推理であって謎解きであって、被害者には弔う姿勢を崩さない。
「其れは、僕に救うことができない命だ。その代わりに、犯人を捕まえる」
「立派なことだよ」
「それと同じように、与謝野さんが悲しんでくれて、その優しさに救われる人が居るンだよ」
「何も出来ず死なせたのに?」
「ああ。例えば亡くなった御家族は? 感謝されただろう?」
何故知っているのだろう。何処も受け入れ拒否で妾がいた処が最後に受け入れた病院だった。たった其れだけのことなのに、家族から「ありがとう」と云われた。
「寄り添ってくれる医者が居るだけで、救われる人も居ることは事実だ」
やめておくれ、やっと止まった涙がまた溢れてきたじゃないか。
「僕は与謝野さんは世界一優しい医者だと思うよ。探偵社員は誰も信じないだろうけどね」
確かに、怪我してくる度に悠然と解体をする妾が、「厭なら二度と怪我するな」なんて考えてることは知る由もないだろう。
「ひゃっ」
突然涙を舐め取られ、変な声が出た。
「今日はとことン僕に甘えなよ。誰も見てないンだから」
まあ太宰あたりは気付いてるかもしれないけど、そんな言葉と共に顔中に接吻を落としていく。
「待って乱歩さん。其れは、妾が持たない」
恐らく真っ赤であろう妾は顔を上げることが出来ず。
すると、あーーーー、と乱歩さんは片手で目を覆い上を向いた。
「僕の彼女は可愛すぎる」
顔から火が出そうな一言。其れでも遣られっぱなしは性に合わないから。
「妾の彼氏は甘やかしすぎ」
そう云って頬に接吻した。
乱歩さんは、目を見開いて茫然としている。貴重なその顔に、妾はなんて幸せ者なんだろうと感じる。
「おや、名探偵でも予測できなかったかい?」
挑発的な妾の声に名探偵は悔しそうに、
「そうだね、予測できなかったことをしよう」
と、深く口付けてきた。
戸惑う妾などお構いなし。乱歩さんに翻弄されながらも、人の体温に安心する。
あーあ。きっと此処まで、乱歩さんはお見通しだったのだろう。
妾はそのまま乱歩さんに身を預け、心の傷を溶かして貰うことにした。
金魚は尾びれを揺らし、心ゆくまま泳いでいく。