なみだはわらう毎日毎日変わらない景色。それを二十四時間体感しているのかさえ判らない。
あれ? 一日って二十四時間だっけ?
兎に角、天井近くの小さな窓から光が差し込ンで、やがてその光は弱まり、暗くなって、また光が差し込ンでくるから、一日一日過ぎていることは確かだ。
それに二回出てくる食事も、朝晩のものだろう。
この施設に隔離されて何れだけの時間が経ったかなンて知らない。興味もない。
食事こそ最初は質素だなと思ったが、今は味さえしない。
あれ? 味って何だっけ?
此処に来たばかりの頃は後悔と悪夢でずっと泣いていた。よくそンなに水分が排出されるなというほど、泣いていた。
ずっとずっと。
そしたら或る日、枯れた。プツリと切れた。脳が考えることを思い出すことを拒んだ。
だからもう妾は泣くということが判らない。
なみだって、何だっけ?
喋り相手なんて当然居るはずもなく。
ただ大凡半年に一回、髪を切りに来る人が居た。隔離施設でもそういうことはちゃんとするのかと思って可笑しかったから、初めての日は今も覚えている。
少し猫背で、でもしっかりと信念を持った目で、妾に話しかけてくれた女性、直視できなかった。
こういった施設専属なのか、毎回此の人が妾の担当らしい。
「与謝野さん、今日はどれくらい切りますか?」
あ、そうだ。其れは妾の名前か。
「……」
「伸びた分切りましょうか?」
そンなことを考えるのも面倒だ。いっそのこと坊主にするとか規定があれば良いのに。
「……は、残して」
久しぶりに声を出したものだから、掠れすぎた。
「あ、ごめんなさい。もう一度いいですか?」
「前髪は、残しておくれ」
「……視界を遮るためですか?」
嗚呼、慣れているな、そう思った。
コクンと頷けば凡て伝わったようで。鋏のジャキジャキと遠慮なく切られていく音をどこか遠くで聞きながらまた思考を閉ざした。
「終わりましたよ、ほら」
鏡を見せられ、以前のおかっぱ頭に戻っていた。俯きがちのせいで、前髪はだらしなく零れていく。
「あ……ありが、とう、ございました」
尻すぼみの声でなンとかお礼を云った。妾なンかに敬語を使ってくれる、気持ちを汲み取ってくれる美容師さんは毎回来てくれた。その度に前髪は残してくれた。お礼を云った。唯一人間らしいやり取りだった。前髪は常に視界を遮るかの如く。有り難かった。
そろそろまた来てくれるだろうかと思っていた日、全く正反対の恐ろしい人物が扉を開けた。
目だけ動かせば十分に判る。
森医師だった。
その後、訳が分からず車椅子に乗せられ、もう一度一緒に頑張ろうと云われても言葉がうまく耳に入らなかった。
怒って詰って叫びたいのに。
声が、出ない。
なみだもでない。
妾は人間の形をしていないのかもしれないと本気で思った。
すると、気付けば何故か車椅子を押す人はあまり年の変わらない少年に変わっていた。
だれ?
それを聞くのも鬱陶しかった。
ただ、廊下を進んでいることは判る。妾の部屋に戻っていないことは判る。
「あ、これはね。社長が足止めしているうちに君を逃がす作戦なンだよ」
「戻して」
男の子の言葉に思いがけず声が出た。少し、驚いた。こンな声が出たのか。さっきは何も出てこなかったのに。呼吸さえ、しているか判らなかったのに。
しかし、今は其れどころではない。緊急事態だ。誰か、助けて。妾をあの部屋に戻して。否、助けないで。助けなんて要らない。お願い。お願い。
妾のせいで、また周りの人の命の値段が安くなる。
「厭なら異能力使うの辞めれば?」
「違うね、僕の超推理が世界一!」
「証拠を見せようか?」
前髪が邪魔でよく見えないけれど、この男の子は少し頭の螺旋が緩んでいるらしい。先程から訳が判らない理論を述べてくる。
迅く戻りたい、けれど、自力で立つ脚力はないし、車椅子を動かす腕力も無い。
途方に暮れそうになったとき、男の子は手を掲げた。そういえば、さっき証拠と云った?
黙って見つめていたら、
「如何して!? 如何してこれを!」
信じられない。
蝶の髪飾りが、目の前にある。
彼の人がくれた、彼の人が死んだ日になくした、妾が二度と異能は使わないと呪った日になくなった、髪飾り。
「ほらね、僕にはなんでも判る」
自信満々な男の子は、頭の螺旋等緩んでいなかった。旧基地で見つけるなんて、此の人はいったい。
「だったら教えて、妾に居場所なんて」
「ある」
食い気味に返答され確信した。此の人は、きっと、私に忘れたものを思い出させてくれる人だと。
「君の異能を必要としない場所だ」
「異能が欲しいんじゃない」
「その優しさがあるから誘いたい」
「その悲しみに意味があるんだよ」
気付けば大粒の涙が溢れた。嗚呼、そう、なみだってこンなやつだった。熱くて、しょっぱくて、自分の意志では止められないもの。
けれど、これは妾が最後に流した涙とは違う。
「嬉しい」なみだ、だ。
嬉しくて泣いたのは初めてだったかもしれない。
「ありがとう」
号泣しながらやっと伝えた言葉は、髪を切ってくれたあの女性以外で久しぶりに使ったもの。
そして心の中で思う。
「ごめんなさい」
妾だけ、救われてしまった。命が報われてしまった。
それさえ男の子は見抜いているかのようで、
「大丈夫、ありがとうで正解だよ!」
そうして笑った顔が、大きな硝子窓から見える夕日より眩しくて、前髪も切ってもらえば良かったと、この瞬間初めて思った。
きっとこの日の感情は一生忘れない。
「さあ、行こう! 社長が頑張ってくれてるうちにね!」
再び車椅子を押してくれる男の子は私が少しでも疑問に思ったことは凡て答えてくれた。質問する間もなく。
「あ、僕はね江戸川乱歩。君は与謝野晶子ちゃんだよね?」
「あ、はい……あの、江戸川さんは、」
「乱歩でいいよ! 君も探偵社員の一員なんだから! それに父上と母上がつけてくれた大切な名前だしね」
「らん、ぽさん……あの、」
「ああ、父上と母上は亡くなったんだ。今は社長のところでお世話になってる。って云っても社員は二人だけなんだけどね!」
そうなのか。ところでさっきの武装探偵社って、
「僕が異能力超推理で事件解決をしているンだ。でも事件現場は概ね安全な場所ばかりではなくてね、社長が守ってくれる。彼の人に勝てる人は此の日本全国でもそうはいない」
「あ、だから【武装】探偵社」
合点がいき頷くと、
「そういうこと!晶ちゃんは賢いね、僕の大好きな人間だ」
「へっ!?」
思わず振り向いた。晶ちゃん?! 大好き!? 咄嗟に前髪をかき分けた。どンな表情をしているのか見たくて。しかし当の乱歩さんは気にする様子なく、鼻歌でも唄いそうな顔で微笑んでいた。……人たらしなのかい? ほんの僅か、苦い顔をした。先が思いやられて。そしてそれも見逃さなかったのか、
「僕は噓吐かないよ。嘘は大嫌いだ。疲れるだけだよ。晶ちゃんも、もう嘘は吐かなくて良いからね」
さて出発、と私達はエレベーターに乗り込んだ。
「乱歩、説明が欲しい」
頭を抱えている目の前の怖い人は乱歩さんが社長と呼ぶ人だ。曰くとても強い人。
「だから云ったじゃない、この子も探偵社員になったからって」
「省きすぎだ。今回の作戦は与謝野君を森医師から離すことで、社員になっては意味が無いだろう」
「福沢さん頭固いなぁ、この子は探偵社に必要だ。既にね」
二人の言い合いを聞いて驚いた。社長の許可なしに妾を誘ったのかい? それは幾ら何でも拙いンじゃ……
「ああ、晶ちゃん違うよ。福沢さんは社員にしたくないんじゃなくて君を危険な目に遭わせたくないンだよ」
また、答えてくれた。
それを聞いた福沢という人は乱歩さんに「社長と呼べと云っているだろう」と愚痴をこぼすように伝えて、妾の方を向いた。
「すまない、私の言葉が足りなかった。君は武装探偵社に入りたいのか? また危険な目に遭うやもしれぬぞ」
其れでいいのか、怖い人はやっぱり怖い顔で聞いてきたけど、内容は心底優しいものだと理解した。
其れならば、妾の方こそ、云わねばならない。
「妾は、人を殺しました。人を助ける異能だと思っていたけれど、実際は違いました。妾のせいで何人もの人が死んでしまった。妾は……きっと人を救う武装探偵社に相応しい人間ではありません」
「其れは違うね」
「其れは間違いだ」
決死の思いで伝えた過去の話は二人同時に否定された。何故? 妾のことは森医師から聞いているはず。乱歩さん程の人なら、この髪飾りを見つけてくれた旧基地で何が起こったか知っているはず。髪飾りを撫でてもなんの気休めにもならないけれど、触れずにはいられなかった。
「君は悪い大人に利用された。僕は偶々福沢さんという人間に出会うことが出来たから真っ直ぐに歩いている。僕と君とで立場が逆でもおかしくなかった。若しそうなら、君は僕の入社を拒否するかい?」
「そんな……!」
するわけがない。こンなに優しくて妾なンかに寄り添ってくれた人を。
「子どもは大人に守られて然るべきだ。其れを与謝野君は享受できなかった。だから、今度は争いとは縁遠い処で、私はそう考えただけだ」
福沢さんが眉尻を下げて申し訳なさそうな顔をする。如何して、貴方がそンな顔を。
「わっ! 晶ちゃん! 社長の此の顔は貴重だよ! 普段表情筋が全く動かない人だからね! 晶ちゃんを自分の庇護下に置きたくなったって。判りにくくてごめんねー」
「……乱歩」
「なーに? 代弁してあげただけだよ」
ニコニコと愉しそうにする乱歩さんと、また元の顔に戻った福沢さん。否、社長。
妾は車椅子に座った儘、頭を下げた。
「掃除でも雑用でも店番でも何でもします。妾を此処に置いてください」
目をぎゅっと瞑る。今、妾は、甘えている。きっと「善いよ」と云ってくれることを判って頭を下げている。最低だと判っていても、せっかくの機会を手放したくなかった。
「駄目だ」
「えっ……」
福沢さんの張りのある否定に、脳に衝撃が走った。
ほら、矢張り、無理なのだ。妾の罪は赦されない。
「だーかーらー、社長は言葉が足りなすぎ! 晶ちゃん、まずはリハビリだよ」
「は……い?」
福沢さんが咳払いを一つして、
「幾つか病院の宛が在る。其処でしっかり体力と気力を取り戻すこと。其れが社員として最初の仕事だ」
あ、落ちる。そう思ったときには既に落ちていた。次から次へと止め処なく、なみだが落ちる。今日、何年分のなみだを流しているのだろう。
「気力なら二丁目の喫茶処のあんみつを食べると善いよ。彼処の寒天も小豆も絶品だから」
「其れはお前が食べたいだけだろう」
「一緒に食べるから善いンじゃない。ね、晶ちゃん」
屈んだ乱歩さんに向かって妾はハッキリと答えた。
「はい」
涙を拭って、妾は口角が上がっていることに気付いた。笑っている、のか?
「まずは第一歩、だね」
うんうんと頷く此の人に隠し事は無理だなと諦めて、妾も頷いた。その反動でまた涙が落ちた。
妾の罪は妾が覚えていればいい。妾が自分を赦さなければいい。絶対に忘れない。彼の人がくれた、乱歩さんが見つけてくれた、髪飾りに誓って。
「晶ちゃーん、事件で隣町に行ったから序でに饅頭買ってきたよ」
あれから妾は社長に紹介された病院に入院して、リハビリに励んでいる。乱歩さんは殆ど毎日来てくれる。
「また餡子かい?」
「これでまた気力上がるよ、目標は僕と二丁目のあんみつを食べることだからね」
忙しいだろうから来なくていいと云ったが、社長命令だからと返されてしまった。探偵社に誘ったからにはちゃんと責任を持つよう云われたそうだ。始めは申し訳なく思っていたが、毎回菓子を持ってきて一緒に食べるので、菓子が目的なのではと思い、あまり妾も気にしなくなった。其れこそ乱歩さんの思う壺とは知らず。
「今日は自分だけで廊下を歩いたよ。手摺りは何度か掴まったけど、先生もあと少しだって」
「晶ちゃんは頑張り屋だからね」
素直に、嬉しい。褒められるということをすっかり忘れていた妾は、毎日嬉しいが更新される。特に、乱歩さんから云われると。
「そういえば乱歩さんって何歳だっけ?」
今更ながらの質問を、饅頭が包まれた紙を破りながら、してみた。なんてことない、世間話程度のつもりで。
すると、少し空気が揺らいだ。気がした。乱歩さんは翡翠の瞳を開き、
「晶ちゃんの一つ上」
そして事も無げに饅頭を一口で食べた。
其れだけ。たった其れだけのこと。
其れなのに、鼓動が迅くなったのが判る。
嘘、なにこれ。
「あー、あんみつ楽しみだなー」