恋の道も一歩から 黄金の秋とはよく言ったものだ。緑一色だった山は色鮮やかな暖色の染めが広がり、常緑樹でさえも灯るように赤い実を付ける。川には間もなく、産卵期を迎え山の色と同じ赤黄緑のまだら模様に鱗を染めた鮭が遡上して来るだろう。春に水を蓄え、夏に陽の光を存分に浴びた山は今、色彩とご馳走に溢れていた。秋の山を歩く時、アシㇼパがそのご馳走を見つける目は双眼鏡以上だ。
「あ!杉元!クッチだ!」
アシㇼパが指差したのは杉元の身長より今少し高いところにあるサルナシの実だ。
「ほんとだ。小銃に銃剣を差せば届くかな?」
「よせ。枝が傷付く」
そう言うとアシㇼパは杉元を見上げて両手を掲げた。
「抱え上げてくれ。それなら届くはずだ」
杉元は顔を曇らせた。
(この人…)
無邪気に子供の頃よくしたように抱っこをねだる姿勢のままのアシㇼパを見下ろす。両手を差し出しながら一心に彼を見上げるアシㇼパに庇護欲をくすぐられ絆されそうになるが、不満が溶けるわけではない。
(もしかして俺を男として見てないんじゃ?)
共に故郷に帰る道行の中で、改めて杉元の想いは伝えた。アシㇼパがそう思ってくれているように、自分にとってもアシㇼパが一番大切だと。この先ずっと、それが覆ることはないと。
彼女は耳を真っ赤に染めながら、とても綺麗な笑顔を見せてくれた。
(帰ってきたばかりの頃はアシㇼパさんもまだ子供だったから軽く考えてたけど…)
抱っこをせがむアシㇼパはその仕草と姿がもうちぐはぐに見える年だ。ふくふくと丸かった頬は緩やかな曲線を描く輪郭に見惚れるほどに。唇は瑞々しく果実の色をしていて、気付けば目を奪われていることも増えた。そして彼女の心の美しさを表すような深い青と煌く緑が印象的な目が色香を含むようになった、というのは杉元の欲目ではない。
「どうしたんだ?早く抱え上げてくれ。あのクッチを穫りたいんだ。フチたちへのお土産にもしたい」
コロコロ…と鳴る腹も杉元を急かしている。杉元はこれについてはまたいつか話そう、と、この数年でもう何度目か思いつつ、足元に小銃を下ろしてアシㇼパの膝を取り、彼女を腕の中に抱え上げた。
「はい。これでいい?」
「…あ、ああ」
子供の頃のように両脇を抱えてくれと言ったつもりだったのだが、思いの外丁重に扱われ、アシㇼパは面食らった。
「そっちのクッチの方が熟れてるんじゃない?」
「そ、そうだな」
「アシㇼパさん、ちゃんと肩に掴まってないと危ないよ」
杉元がそう言うので、遠慮なく、というよりは思い切って、彼の頭を丸ごと抱えるような気持ちで肩に掴まった。反対側の腕を伸ばして一番大きな実を捥ぐ。それを杉元の方に持って行って目の前で振ると、ぱかっと開いた口の中にその実を放り込んだ。先ほど不機嫌に見えた彼はもう美味に顔を綻ばせる。
「ヒンナヒンナ」
(かわいい)
杉元は本当に美味しそうに食べるな、と思いながら次のクッチに手を伸ばす。一つ捥いで自分の口に入れてから、アシㇼパは杉元と同じ顔をして笑った。
「ヒンナヒンナ」
抱え上げられながら杉元を見下ろすと、やはり彼はアシㇼパを見て笑っている。その目は愛しい女を見る目そのもので、アシㇼパは急に落ち着かなくなった。動揺を誤魔化すために頭上の木の実に視線を移し、三つめからは捥いだ実を溜めようと思い、取り敢えず膝に置こうとすると、杉元の口がぱかっとまた開いた。
「………」
まあいいか、と思いながらアシㇼパは杉元の口の中にクッチをまたひとつ放り込んでやる。
「ヒンナヒンナ」
空っぽの膝の上に今度こそ実を溜めていこうと手を伸ばす。今度は片手で三つ捥ぐと、コロコロ、と鳴った自分の腹を宥めるために1つを自分の口に放った。
「ヒンナヒンナ」
言いながら杉元の顔を見下ろすと、ぱかっとまた口が開く。しかしアシㇼパは今度は顎に手を添えてその口を閉じさせた。
「むぐッ」
「これじゃいつまでもフチたちの分のクッチが穫れないだろ」
「はぁい…」
杉元はアシㇼパを抱えたまま少ししゃがみ、足元のサラニㇷ゚を掴んだ。片手でアシㇼパを抱え、もう片方の手でサラニㇷ゚の口を広げてアシㇼパがそこにクッチを放り込むのを待っている。
「…片手じゃ重いだろ」
「え?全然?」
けろっとした顔で即答され、アシㇼパは二の句を飲み込んだ。その表情を杉元は不満と取ったらしい。
「あ、でも子供の頃に比べたら重くなったよ?」
「当たり前だろ。もう子供じゃないんだぞ!」
「そんなのわかってるよ」
わかっていないのはアシㇼパさんの方だ、と杉元の中には長年飲み込んで来た思いがまた湧いてくる。だがそれを言葉にすることはない。男として見られていないかもしれない、という不安を言葉にするのは非常な勇気がいる。今腕の中に自分のもののように抱えるこの人を手放さなければいけなくなるかもしれないと思うと、それがほんの少しの可能性であっても怖いのだ。ずるい考えかもしれないが、アシㇼパが無頓着なままでいるなら、こうして形だけでも自分のもののような気でいさせて欲しいと思ってしまう。
「…杉元?」
「…何でもないよ。ほら、早くクッチ穫って、クチャに戻ってごはんにしよう。アシㇼパさんのお腹も俺の耳元でずっとコロコロ鳴いてるし」
「え!?」
「え?」
アシㇼパは杉元の肩から急に手を離し、両手で自分の腹を押さえた。杉元の腕の中でぐらりと彼女の身体が傾ぐ。
「ちょっとアシㇼパさん、急に手を離すと危ない…!」
「うわッ!」
傾いだことに驚いて、今度はアシㇼパは杉元の頭を抱え込んでしがみついた。アシㇼパの腕で視界を塞がれた杉元は、それでも彼女を取り落とすことだけはすまいと両手でその身体を支えた。
「……す、すまない、杉元……」
「……いや、うん…大丈夫……」
お互いに落ち着きを取り戻すと、アシㇼパはそろそろと杉元の頭から身体を離し、杉元はアシㇼパから目を逸らしながらサラニㇷ゚を抱え直した。それからはお互いに無言でクッチを穫り、サラニㇷ゚にそれを受け取り、土産の収穫を終えた。
アシㇼパは杉元の腕から地に足を下ろすと、服の下の汗腺が一気に開いたように汗が湧いた。
(自分から杉元に抱き付いてしまったッ!!)
子供ながらに杉元に「一番大切な人」と言われてから早数年、二人の関係性はアシㇼパが子供から大人になるまでの間の距離感を保ち続けている。あれからずっとアシㇼパの中にあるのは、振り返ればそこにいつでも杉元がいるという幸福感。彼なら全て許してくれるという安心感と、だからこその甘えた気持ち。それには気付かれないように用心してきた。今までそうとばれたことはなかったし、抱き付くなんてアシㇼパにとって究極の甘え方をしたことはなかった。不慮の事故、として杉元が気にしないでいてくれたらありがたい。そう思いながら、小銃を拾い上げる杉元の後ろ姿を見た。
(…気にしてはいなさそうだな)
それはそれで少し複雑な気持ちではあるが、まだばれて欲しくはないのだ。
(だって、どうすればいいのかわからなくなる…)
相棒以上恋人未満。それが長年の関係だったから。子供の頃から好きで今も一番大切な人である杉元と、コタンの女たちの話で聞く恋人同士のようにあれやこれやするのはアシㇼパの心臓にとってはまだ負荷が高過ぎた。
「じゃあ、クチャに行こうか、アシㇼパさん」
「うん…」
杉元は肩に掛けた小銃の負い革を握り締めながら、その実その下の自分の早鐘の心臓を押さえ付けていた。ぎゅっと瞼を閉じようとして慌てて目を開き、頭を振る。目を瞑ると先ほどの感触が余計に生々しい。視界を塞がれていたが、視界を塞がれていたからこそ、わかってしまったのだ。
(柔らかかった……ッ!!)
成長著しく大変結構なことである、というのがまず第一の感想であることは、杉元佐一も健康な一成人男子という点を鑑みてどうかご容赦願いたい。負い革を握り締める拳は喜びを握り締めるものでもあるが、忍耐を言い聞かせるものでもあり、動揺を鎮めるためのものでもある。これが例えば一年か二年前の杉元であれば、こんな感想を抱けば即座に己の倫理観によって自らを罰しただろう。つまりはもう、杉元にとってアシㇼパは女なのである。だからこそ「男と思われていないかもしれない」という事態が不満なのだ。
(何とかしなければ…アシㇼパさんに俺を男として見てもらわなければ…ッ!!)
棚ぼためいた不慮の事故が杉元の気力に喝を入れた。