杉元巡査とアシㇼパさんのお話②(フチが悪いんだ)
アシㇼパは足早に交番を立ち去りながら心の中で言い訳をする。耳が熱い。早足だった足はだんだん駆け足になって行った。
(フチがあんなこと言うから)
将来あんな男と結婚してくれたら安心だ、なんて言うから。
いつも気軽に叩いていた大きな手だったのに、今日初めて杉元からアシㇼパの手のひらを打った。ほんの一瞬感じる熱さに手が痺れて顔にその熱が感染した。こんな顔、彼には見せられない。
手のひらを弾いた一瞬で頬を中心に広がった熱は未だ冷める気配がない。交番から一刻も早く離れたい気持ちと急に湧いた初めての感情に戸惑う心とで、アシㇼパは訳もわからず走り出していた。
(もう、何なんだこれは〜〜!!)
桜の花びらがセーラー服のリボンを掠めて行く。大きめのプリーツスカートを膝で蹴り上げるようにアシㇼパは中学校までの道のりを全速力で駆け抜ける。これだけ走っていれば、顔が赤いのは走って来て暑いからだとクラスメートには言い訳が出来るだろう。だが、今朝ハイタッチをした杉元に用意していた言い訳はない。
(前は何も考えないでハイタッチ出来たのに〜〜!!)
今朝急に。杉元といつものようにハイタッチをしようとして急に。以前言われたフチの言葉が頭の中に蘇って来て、その手に触れるのがとてつもなく恥ずかしくなって自分の手を引いた。いつもはアシㇼパが打つのを待っていた手が、初めて杉元の方からアシㇼパの手を打って来た。
それだけで心臓が揺れてしまった。
『行って来るっ!!』
何とか背を向けて立ち去ったことで今日のところは赤く染まった顔には気付かれていないはずだが、明日からはどうしよう。今日の帰りは?杉元にどんな顔を向けて話せばいいのか。
日常のささやかな習慣が突然大事件になってしまった。アシㇼパの中でだけ発生したその緊急事態を誰に相談するべきかさえアシㇼパには分からなかった。
朝の交番で取り残された形となった杉元は、アシㇼパの走って行く後ろ姿を見ていた。
「アシㇼパさん、足速いな〜」
中学校に上がると部活に入るのが義務付けられているという。アシㇼパはどの部活に入るのだろうか。あの俊足なら陸上部に入ればすぐエースになれるかもしれない。
(制服姿、可愛かったな)
兄のような微笑ましい気持ちだった。アシㇼパは中学の制服はセーラー服を選択していた。小学生の時は「動きやすいから」と言ってパンツ姿が多かったから、てっきり中学校の制服もブレザーのパンツを選択するだろうと思っていたのに。スカートを履いただけで、活発な女の子は大人の階段を登り始めた少女になっていたのだと実感した。
(女の子はすぐに大人になっちゃうんだなぁ…)
そのうち好きな男の子でも出来て、彼氏とか紹介されたりするんだろうか、とまで思考が及ぶと、ちくりと胸が疼いて何となく面白くない。
(アシㇼパさんならしっかりした子だから、ちゃんとした男を選ぶだろうけど…)
もし万が一、アシㇼパを預けるに足る男でなければ許せないかもしれない、と、起こるかどうかも分からない未来のことに思い煩う。
「ノラ坊、何突っ立ってんだ。巡回の時間だろ」
「菊田さ〜ん、アシㇼパさんに彼氏が出来たらどうしよう〜?」
「はあぁ?」
突拍子もないことをめそめそしながら相談されて、菊田は頭を掻いた。
「まあ、綺麗な子だからな…」
容姿だけで言えば、大人から見ても時々はっとするほど大人びて凛とした美しさがある。杉元の心配もわからないではなかった。
「でもああいう子は、同年代の男子からすれば高嶺の花だろうよ」
何せ菊田でさえ、時々自分の方が子供になったような気がする不思議な雰囲気を持った少女だ。同世代なら尚更だろう。
「そうかな〜?そう思います〜?アシㇼパさん、あれで結構面倒見がいいし、気さくだし、優しいし、さっぱりした性格だから、好きになるやつはたくさんいると思うんですよ〜」
「いや、嬢ちゃんはどっちかというととっつきにくい方だと思うがな。この街に来て俺も長いが、お前が来るまで話したことはねぇよ。顔は知ってたけどな」
「え?じゃあ気さくなのは俺にだけ?」
明るさの滲んだ杉元の表情に、菊田はため息をついた。彼は昔から気を許した相手に対する忠誠心は相当なものだが、その分時々めんどくさかった。
「特別扱い、良かったな。ほれ、巡回に行ってこい」
「はい!」
制帽を被り直した腕から、昨年アシㇼパを助けた時に負った傷が覗いた。刃物を持った人間相手に素手で立ち向かえる者は警察官でもそうはいない。柔道で鍛えた杉元の体術あっての捕物だった。
「あ、そうだ、ノラ坊。お前、今年は柔道大会と剣道大会どっちに出るんだ?」
杉元は毎年開催される全国警察柔道・剣道選手権の常連だった。地元警察署長直々の推薦によるもので、その期待に応えるように毎回優秀な成績を収めている。
「う〜ん…今年は柔道かなぁ。去年は土方の爺さんと剣道大会に出たし、今年は牛山の旦那の番なんで」
「爺さんだの旦那だのってお前…相手は警視だぞ」
杉元は頓着せず、はは、と軽く笑う。菊田の指摘はもう今更なのだ。杉元からすれば、地元警察署長の土方や副署長の牛山は警察官になるより前からの既知である。仕事でならいざ知らず、プライベートでは昔の呼び名がつい出てしまう。腕を見込まれて土方の爺さんからは剣道大会に出るように言われ、牛山の旦那には柔道大会に出るように言われ、両方に出るわけにはいかないので、毎年交代でどちらかの大会に出ては両人と腕を競い合っている。尤も、柔道の大会は体重ごとに階級が分けられているので、牛山の旦那との襟の取り合いは警察署の道場でのみである。
「じゃあ、巡回行って来ます」
自転車を漕ぎ出し、盛りを過ぎた桜の花びらの舞い散る中を風を受けて走った。
今年の花見はアシㇼパとアシㇼパの祖母と一緒に楽しんだ。裁縫は苦手だが料理は得意だと言うアシㇼパの腕は確かで、用意されたお花見弁当の美味かったこと。あの楽しかった花見で見た桜が散って行くのは惜しかった。来年、再来年と同じように家族みたいに花見を楽しめればいいな、と思う。セーラー服のスカートを翻して走って行くアシㇼパの後ろ姿を少し切なく思い出しながら。
帰りの交番前で杉元に不審がられない方法としてアシㇼパが選んだのは、家の方向が同じであるクラスメートと一緒にそこを通ることだった。アシㇼパは交番を前にしてクラスメートのオリガの背後に隠れた。
「アシㇼパ、何やってんの?」
「いや、別に…」
オリガは明るい金髪と透き通るような青い目をしているが、れっきとした日本人だ。母親がロシア人なのだという。瞳の色が濃さは違えど同じ青だということで何となく親近感を感じ、入学初日に意気投合した。
「あ。あそこのお巡りさん、また交番の前に立ってるね。アシㇼパの知り合いなんでしょ?」
「あ、ああ…まあ…」
オリガは首を捻りながらも交番の前まで来ると、顔に傷のある警官に挨拶した。
「こんにちは」
「こんにちは。アシㇼパさんのお友達?」
「はい。鶴見オリガといいます。アシㇼパとは同じクラスなんです」
「そうなんだ。アシㇼパさんと仲良くしてあげてね、オリガちゃん」
「はい」
オリガは笑って返事をした。
(…まるで子供扱いだ)
友人の背後に隠れながら、アシㇼパの父親か兄のような杉元の言葉にアシㇼパは口を尖らせた。
「それでアシㇼパさんは何やってんの?」
杉元は、オリガの後ろから出てくる気配のないアシㇼパのつむじを覗き込む。
「別に、何でもない」
その様子にオリガは何かを嗅ぎ付けてニンマリ笑う。それを見てアシㇼパは嫌な予感がした。だがオリガはその場では何も言わなかった。
「じゃあ私たちこれで失礼します。これからアシㇼパの家で勉強する約束してるんです」
「え!?」
声を上げたのはアシㇼパだ。家で勉強する約束だったなんてアシㇼパも初耳だ。これはこのまま家に連れて行けば、根掘り葉掘り聞き出されるに違いない。
「オ、オリガ…あの、ちょっと…」
「すぐに中間テストだもんね!頑張ろうね、アシㇼパ!」
「もう中間テストの勉強始めるの?学生さんは大変だなぁ」
杉元は感心してため息をついた。杉元も学生時代はまだそう遠くないが、自分が学生の頃はそこまで真面目に勉強をしていなかった気がする。何事も真面目なアシㇼパには、やはり真面目な友達が出来るのだろうと思った。
「それじゃさよなら」
オリガがそう言うと、アシㇼパはまだその背後に隠れたまま、オリガを盾にしてその場を去ろうとする。
「アシㇼパさん!」
杉元は咄嗟にアシㇼパを呼び止めた。自分でもよくわからないが、焦った胸の奥がちり、と痛んだ。だから、おずおずと振り返るアシㇼパの青い目が杉元を見てくれると、少しホッとした。
「…いつものは?」
両手を上げるが、アシㇼパは躊躇している。青い目が杉元を逸れてまたオリガの背に隠れてしまった。
「…もう中学生になったから、やらない」
「…そっかぁ…」
声には自分でも思っていた以上に力がなかった。アシㇼパは自分の知らないうちに大人になっていたのかもしれない。もう子供の頃のようには接してくれないのだろうか、という寂しさが声にありありと滲んでしまった。
「…明日」
「え?」
「明日は、日直だから少し早くここを通る」
「…うん、待ってるね」
自分と顔を合わせたくないわけではないのだとわかると、杉元はホッとして笑みが溢れる。
「…じゃ」
アシㇼパは杉元に向かって控えめに手を振ると、すぐにそれを引っ込めて友人を連れて家路を辿って行った。手を振り返しそびれて中途半端に持ち上げていた手を制帽の鍔に引っ掛けて被り直すと、杉元は大きくため息をついた。そこへ巡回から戻って来た菊田が自転車を停めながら言う。
「なんだ、不景気な面して。また嬢ちゃんとなんかあったのか?」
「…何もないんですけど…してないと思うんですけど…」
「何だよ、今朝からウジウジと」
「っていうか、なんでアシㇼパさんのことだってわかったんですか?」
「お前がわかりやすく落ち込んだり浮かれたりして俺に話を聞いて貰いたがるのは嬢ちゃんのことだけだからだよ」
菊田はそう言いながら交番の奥の事務スペースに入り、自分のためにコーヒーを淹れ始めた。本当ならタバコ休憩と行きたいところだったが、勤務中はそういうわけにはいかないので、口寂しさを誤魔化すためにコーヒーを愛飲しているのだ。
「え!?俺そんなに態度に出てます!?」
杉元が無意識だったことに菊田は吹き出して笑った。振り返ってそこにいた杉元は、まるで出会ったばかりの頃の少年のような表情で両手で顔を押さえてなんているものだから、菊田もつい少年杉元によくしたように揶揄いたくもなる。
「浮いた話なんかは一切しねぇくせになぁ」
「そんな暇ありませんて」
生真面目にそう返してくるから、笑いともため息ともつかないものをコーヒーと一緒に口に含んだ。
「まあ、毎朝の儀式が明日から暫く出来なくなるんだ。お前でも調子が崩れることもあるんじゃないか?スポーツ選手だってそういうのがあるっていうだろ?」
「…しまった」
今度はなんだ、と目線だけで問うと、杉元はこの世の終わりのような顔をして言った。
「明日から暫く朝はいないって、アシㇼパさんに言うの忘れてた…」
本当に大失態だ、とでも言うように低いトーンで溢れた声に、始末書を書く時もそれくらいの重大性を心に刻んで臨んで欲しいものだと菊田は思った。
アシㇼパが断りきれずにオリガを家に連れて行くと、フチは思いの外喜んだ。そういえば家に同年代の友達を呼ぶなんてしたことがなかったな、とアシㇼパは思う。アシㇼパが家族以外の人間を家に連れて来たのは杉元が初めてだった。杉元はフチやアシㇼパの作った料理を何でも美味しそうに食べてくれるしフチも大歓迎だったが、アシㇼパの友達と言うには歳が離れ過ぎている。ではただの知り合いか、と言われればその言葉もしっくり来ないし、第一、距離があるようで寂しく感じた。
(杉元は私にとって何なんだろう…)
「ねぇ、あのおまわりさん、アシㇼパの何なの?」
ちょうど同じ疑問を心の中で転がしていたアシㇼパは、オリガの興味津々の青い目を前に自分の深い青色の目を瞬かせた。
「好きなの?」
「…えっ!?」
一拍遅れて声を上げるとオリガは首を捻った。
「違うの?」
「………わからない」
「わからないの?どうして?」
「どうして、って…」
アシㇼパは適切な言葉を探そうと視線を彷徨わせた。
「…誰かを…好きになったことがないから?」
「じゃあ初恋だ」
「…わからない」
話に聞く初恋は、もっと心が浮き立って幸せなものに思える。だがアシㇼパの心は楽しく浮き立ってもいなければ、幸せにしびれているわけでもない。急にこの気持ちが恋だと言われても、今まで通りに杉元と接することが出来ないなら、こんな戸惑いは邪魔だった。
「それに、杉元は大人だ」
アシㇼパがこの気持ちは恋ではないと否定する理由のひとつだ。恋をするなら自分と同年代であるとか、対等な相手に惹かれるのが自然な流れだろう。杉元は大人だし、アシㇼパの相手としては特に杉元の方に少々不都合が多い。大人である杉元はきっとそのうち似合いの大人の女と大人の恋をするのだろう。杉元がアシㇼパの知らない女の隣で笑うのを想像すると胸が痛むが、その理由をアシㇼパはまだ知らない。
「今は友達みたいに接してくれるけど、あいつからしたらどうせ私は歳の離れた妹みたいなものだろうし」
アシㇼパは自分の言葉に傷付いて急に目元が熱くなるのを感じて慌てた。
「妹なのにさん付けするの?」
オリガの言葉にアシㇼパは友人の澄んだ色の目を見返す。
「年下の女の子相手にさん付けするの、変なのって思ってたんだ。私のことはちゃん付けだったし。さん付けするのって、まるで同年代か目上の人にするみたい」
「…気付かなかった」
アシㇼパがそう言うと、オリガは「アシㇼパも変なの」と言って笑った。
「さっきのアシㇼパも変だったけど。あのおまわりさんの前ではいつもあんな感じなの?」
「そんなことはないぞ。なんか、今朝から急におかしくなったんだ。まともに顔を合わせづらいというか…」
「今朝から急に?何かあったの?」
「それが何もないから困ってる…」
オリガは小さく唸った。
「アシㇼパが変になるのは理由がわからないから仕方ないけど、今朝から急にそうなったんだったら、あのおまわりさんはもしかしたら嫌われるようなことをしたんじゃないかって気にしてるかも」
「そんな!杉元は何も悪くないぞ!」
「それはわかるけど」
少なくとも戸惑ってはいると思う、とオリガは言い添えた。
「うちのパパとママもね、普段はとっても仲がいいんだけど、たまーにパパがママの機嫌を損ねると、ママの不機嫌の理由が分からなくてパパがずっとオロオロしてるの。でも夕飯にパパの大好きなおかずが出てくると、それが仲直りの合図みたい」
「理由が分からなくても仲直りになるのか?」
「夫婦ってそういうものなんだって。ママが言ってた。歩み寄ることが夫婦円満の秘訣なんだって。私にはまだよく分からないけど」
オリガは首を傾げながら言った後、思い出し笑いをした。
「うちのパパってね、甘いものが大好きなんだけど、ママが身体に良くないから食べ過ぎないで、って言ってもママに隠れてこっそり食べてるんだ。ママは全部お見通しなんだと思う。だっておひげにクリーム付けたまま帰ってくることあるんだもん。怒ってるように見せるのはフェイクなんじゃないかな。思い当たるところがあればそれを反省するでしょ?」
オリガが他人の心の機微に聡いのはそういうことか、と合点が行った。彼女は誰のこともよく見ているのだ。
「オリガのママはパパを手のひらの上で転がすのが上手いんだな」
そう言ってアシㇼパは笑った。
翌朝、昨日の宣言通りにいつもより少し早めに交番の前を通ったアシㇼパに、菊田が言った。
「アイツ、年一回ある柔道大会の練習に行っててなぁ。今日から暫く夜勤なんだよ」
「そうなのか…」
今日こそは普通に接するぞ、と気合を入れて家を出て来たので、アシㇼパは肩透かしを食らった気分だった。
「嬢ちゃんに言うの忘れてたってものすごく落ち込んでたから、あんまり怒らないでやってくれな」
「…落ち込んでたのか?杉元は」
「ああ」
改めて悪いことをした、とアシㇼパは反省した。オリガの言う通り、杉元はアシㇼパの態度の変化を気にしているに違いない。アシㇼパの視線は自然と下がり肩も力を失ってしまう。
杉元はアシㇼパのこととなると感情の起伏がやや激しいが、アシㇼパはアシㇼパで、杉元のこととなると年相応の少女の顔になる。改めてこのふたりの関係は難しい、と菊田は思う。お互いに敢えて言うなら「知り合い」なのだろうが、そんな言葉に収まるような薄い関係ではないし、兄と妹と言うには互いの関係性は杉元がそうしたがるからだが、対等だ。かといって友達という言葉を使うのも側から見れば特殊な関係性に思えてしまう。
(せめて嬢ちゃんがもう少し成長すればなぁ…)
菊田から見れば、背格好さえ追いつけば、なかなか似合いのふたりに思えるのだ。
(見守るしかねぇか)
そう結論付けて顎を撫でた。
「杉元が出勤するのは何時くらいだ?」
「ん?今日は夜勤になるから、だいぶ遅いぞ」
「そうか」
アシㇼパは少し考えてから何かを決めたようだ。「よし」と声が聞こえてきそうなほどわかりやすい表情を浮かべると、菊田を見上げる。
「じゃあ学校に行って来る。菊田もしっかりな」
「代わりに『いつもの』してやろうか?」
軽口を叩くとアシㇼパは憮然とした。
「もう中学生になったからやらない」
「…なるほど。悪かった」
「じゃあな」
セーラー服の膝丈のスカートを揺らして歩く後ろ姿は、服装以上に以前とは確かに違っていた。
「…ノラ坊が心配するわけだなぁ…」
女の子の成長は、早い。
夕方になり、交番に夜勤の杉元が出勤して来た。
「お疲れ様です」
「よう、どうだった、練習は?」
「もうひどいの何の。牛山の旦那と来たら階級違いの奴らまでみんな伸しちまって。まるで戦車ですよ」
「不敗の牛山の名は健在か」
菊田は苦笑いをしながらコーヒーを啜った。
「あの…菊田さん…今朝、どうでした?」
「ん?嬢ちゃんなら普通だったぞ」
「そう…ですか…」
てっきり安心するかと思ったのに、菊田の言葉を聞いた杉元は視線を落として背中を丸めた。
「なんだ?何か不満か?」
「…菊田さんには普通だったんなら、俺が何かしたんだろうなって…」
おそらく今日の練習風景では、不敗の牛山の健在ぶりは元より、タフな試合スタイルから不死身の杉元と呼ばれるこの男にも周囲は慄いたはずである。ほぼ敵なしのこの男が、大型犬が雨に降られてずぶ濡れになったが如く落ち込んでいる理由が、今年中学生になったばかりの少女だと知ったら、今日の練習相手たちはどんな顔をするのだろうか。菊田はもはや呆れ果てていた。
「菊田さ〜ん…アシㇼパさんに嫌われてたらどうしよう…」
「大の男がべそなんかかくな!」
そう言いつつポケットのハンカチを杉元の顔面に乱暴に押し付けた。杉元が菊田にこれほど懐くのは、こういう面倒見の良さがあるからだ。結局なんだかんだ言いながら冷たく出来ない人なのである。
菊田のハンカチで顔を拭った杉元の後ろから、見慣れた人影が現れた。
「あの…」
気まずそうに声を掛けてきたのは、制服を着替えたアシㇼパだった。
「アシㇼパさん!どうしたの、こんな時間に?もうすぐ暗くなるよ?」
アシㇼパは後ろ手に抱えていた包みを杉元に差し出した。
「…夜勤だって聞いたから……お弁当」
「え…お、俺に?」
アシㇼパは頷くこともせず、視線を逸らしたまま更に包みを突き出した。杉元がそれを受け取ると、視線は足元に落ちた。杉元は昨日からほとんどアシㇼパのつむじしか見ていないな、と思った。
「昨日は、すまない。ちょっと…戸惑うことがあって、動揺してたんだ。杉元は何も悪くない」
「あ…さっきの、聞いてた…?」
すると初めて顔を上げたアシㇼパは、笑いを堪えて口元が歪んでいる。杉元のまだ赤い鼻を見て、とうとう彼女は吹き出した。
「まったく、しょうがない奴だな、杉元は!」
「やだぁ、アシㇼパさん、そんなに笑うことないでしょ!?俺本当に悩んでたんだよ?」
「ふふ、すまない。それでチャラにしてくれ」
杉元は返事のかわりに弁当の包みを懐に抱えた。
「…ありがと」
「うん」
それを見て菊田は心の中でやれやれ、と呟いた。
アシㇼパのことは帰宅ついでに菊田が家まで送っていくことになった。
「悪いな。家は反対方向なんだろ?」
「仕事じゃなくてもこんな時間に嬢ちゃん一人で夜道を歩かせられるかい」
「ありがとう」
「ああ」
素直なのはアシㇼパのいいところだと菊田は思う。素直過ぎて杉元への気持ちは丸わかりなのだが、本人がそれを隠したいか否定したい気持ちもわからなくもない。だが応援したいと思った。
「あいつが練習している道場は署内にあるんだが、明日見に行ってみるか?」
「一般の人間も入れるのか?」
「俺の身内だってことにすりゃいいさ」
「身内?」
「俺の娘にしては大き過ぎるがな」
「じゃあ姪ということに」
「了解」
「ありがとう、菊田」
「…どういたしまして」
素直なところはアシㇼパのいいところだが、その素直さが菊田には時々妙にむずがゆい。だが悪い気分ではない。
(可愛い奴らだよ、ほんと)
署内の道場、というので狭いのかと思いきや、自治体の体育館以上の広さがあり、半分を柔道の練習に、もう半分を剣道の練習に充てていた。柔道の方でも剣道の方でも指導者らしい立場の人がおり、異彩を放っていた。
「剣道場の方で教えてるのはウチの署長の土方警視だ。もう七十は超えてるはずだが、いまだに現役だ」
菊田は小声で「そら恐ろしい爺さんだぜ」と呟いた。
「柔道場の方は副署長の牛山警視。不敗の牛山と呼ばれていて、全国の警察署で名が知れ渡ってる。杉元は今年は柔道の大会の方に出るんだ」
「今年はって?毎年違うのか?」
アシㇼパは杉元の姿を探していた視線を移して隣の菊田を見上げた。
「ああ。昨年は剣道大会の方に出て…確か結構いいセンまで行ってたと思うな。前に杉元はヤンチャしてた時期があったって言ってたろ?土方署長と牛山副署長はその頃から杉元に目をかけてたんだ。それで毎年杉元を取り合ってんのさ」
「杉元は男にモテるんだなぁ」
「いやぁ…それは語弊があるがな…」
そんな会話をしているところへ、ほとんど怒号と言ってもいい雄叫びが聞こえた。視線を向けてみると先ほどまで練習していた人々が脇に避け、牛山、杉元の両雄の組み合いを固唾を呑んで見守っている。
両者は互いの襟を掴み合い、一歩も譲らない。柔道の心得のないアシㇼパでも、二人の実力が周囲とは一段違うところにいるということがわかった。地に根を張っているのかと思えるほどの重力をそこに感じたのだ。かと思えば次の瞬間にはまるで踊るように互いの足を取り合おうと道場の端から端までをすごい速さで駆け抜ける。その気迫は息をする音さえ勝負の邪魔になるのではないかと思うほどで、アシㇼパはいつの間にか無意識に両手で口を覆っていた。
組み合いは完全に膠着状態になった。両者に隙などひとつもない、と周囲の人間には思えたが、その時牛山が吠えた。杉元の襟を引き、体勢を前のめりに崩させると、牛山は大きな体躯を素早く沈めて杉元の身体を背に負い、釣り落とそうとした。背負い落としという背負い投げに似た技だ。しかし杉元は畳に落とされる直前、素早い判断力で全体重を片腕に乗せてそれを凌いだ。それどころかその勢いを逆手に取って牛山の身体を引き落とし、瞬時に身体を回転させて牛山の片腕を両腿で挟み込み、あっという間に腕ひしぎ十字固めの体勢を取った。
「やった…!」
菊田が小さく呟いた次の瞬間、杉元の身体が牛山の腕ごと宙に浮いた。
「嘘だろッ!?」
観戦者になっていた周囲の人間も、杉元自身も、思わず叫んだ。そして牛山は、そのまま片腕で杉元を投げ飛ばしたのである。
道場の端まで転がった杉元の身体は壁にぶつかった。
「…い、一本…!」
観戦者の一人が言うと、ゆうに三メートルはあった高さから吹っ飛ばされた杉元がのっそりと立ち上がって言うのだ。
「…やっぱり体重差は埋められねぇなぁ」
悔しそうに言うだけでどこも痛めた様子がない。観戦者の一人が「化け物だ…」と呟いた。しかし牛山は太く笑って言うのだ。
「お前はもっと食って俺の階級まで追いつけ。試合で決着をつけてやる」
「冗談じゃねぇ。旦那が体重落として俺の階級まで降りてこいよ」
杉元と牛山の階級差は二階級だが、牛山の方は百キロ超級である。実際の体重差は階級差以上に大きかった。
「杉元を片腕一本で持ち上げるたぁ、やっぱり不敗の牛山はバケモンだぜ…」
菊田の独白は呆れとも畏怖ともつかなかった。
その声を聞きつけたのか、杉元が観戦席に目を上げる。するとその先には菊田の他にアシㇼパがいるのだから、驚いた。
「アシㇼパさん!?」
「惜しかったな、杉元」
「え、なんでここに…っていうか、今の見てたの!?」
「嬢ちゃんは俺の姪ってことになってんだ。あんまり騒ぐな」
「もう〜!菊田さん!アシㇼパさんも来るなら教えてくださいよ!よりによって負けてるところ見られるなんてかっこ悪りぃ…」
ぶちぶち文句を言う杉元に菊田はおざなりな謝罪をした。
「……か……かっこ、良かったぞ…杉元」
「え?本当?」
「ああ、本当だ…」
観戦席を見上げる杉元からは見えるまい。たったこれだけを言うのに耳だけをイチゴのように真っ赤に染めているアシㇼパの後ろ姿など。
試合は三ヶ月後だという。それまで杉元は署内の道場に通い詰め、勤務は夜勤になるそうだ。練習の運動量を見たアシㇼパは、あれでは体力が持たないだろうとほぼ毎日弁当を差し入れた。
「こんな毎日来て大丈夫?おばあちゃん心配しない?」
「心配ない。フチには交番に行くって言ってあるから」
「はぁ…不良娘になっちゃって…」
「祖母公認の不良娘なんて、品行方正じゃないか。こうして宿題も持って来てるし」
「奥の事務所でやるんならいいぞ。杉元の巡回の時間までな」
「菊田さんまでぇ〜!」
「嬢ちゃんの頑固さ、お前だってよくわかってるだろ」
アシㇼパは菊田と目を見合わせてにひひ、と笑った。二人はいつの間にか結託しているらしい。
「もう〜…巡回の時間までだからね。家まで送ってくから」
「ああ」
こうしてアシㇼパはまんまと交番の事務所に指定席を獲得したのだった。
「嬢ちゃん、試合も見に行くだろ?また俺の姪になるか?」
「ああ、よろしく頼む、アチャポ」
「妙に仲良いのなんなの〜?」
「そりゃお前、ついでとは言え俺にも弁当作ってくれてんだ。ささやかな礼だよ」
菊田は何の含みもなくただ笑った。
試合で杉元は危なげなく順調にトーナメントを勝ち進み、表彰台に上がった。
「あいつは無差別級にでも出るべきだったな。どれもこれも余裕で勝ちやがって」
面白くもなかっただろ、と菊田はアシㇼパに詫びようとしたが、アシㇼパの目は杉元にずっと釘付けで、きらきらと輝いていた。それを見て菊田は愚問だったと言葉を飲み込んだ。
選手の控え室に訪れると、杉元はアシㇼパに見えやすいように腰を屈めて表彰状を広げて見せた。
「アシㇼパさん、勝ったよ!」
「すごかったぞ、杉元!」
その様子はまるで忠犬と飼い主だった。
「さすがだな、不死身の杉元」
老獪な声がして振り向くと、白髪を一本に結んだ剣道着姿の老人が立っていた。老人とは言っても弱々しい印象も柔らかい雰囲気もなく、抜身の刃が人の姿を取っているようだった。
「土方警視」
杉元と菊田が即座に敬礼の姿勢を取ると、土方は面白そうに顎髭を撫でた。
「おや、随分よそよそしいじゃないか?私とお前の仲だろう?」
「そんなこと言ったって、一応ここは署内ですよ」
「ヤンチャしてた坊主が随分丸くなったじゃないか」
ははは、と笑うと、土方はアシㇼパの姿に目をとめた。
「こちらのお嬢さんは?」
「は、私の…姪です」
言い淀む菊田に、杉元は「本当にこの人は嘘がつけない性分だな」と思った。
「なるほど?こんにちは、綺麗な青い目のお嬢さん。試合は楽しんだかね?」
「ああ。杉元は来年は剣道の大会の方に出るんだろう?そちらも楽しみだ」
「ふふふ…剣道には階級はないからな。今年よりは見応えのある試合になるだろう」
「爺さん、まだ試合に出るつもりなのか?」
杉元は思わずいつもの砕けた口調で言ってしまった。
「そりゃ当然。いくつになっても男子は刀を振り回すのが好きだろう?」
それでは、と言って去っていく土方の姿を見送り、アシㇼパは言った。
「杉元は本当によく男にモテるな!」
「アシㇼパさん、それあんまり大きな声で言わないでね?」
三ヶ月にも及んだ練習期間は全て残業扱いになるのだという。懐が温かいところで、いつもお世話になっているからと、杉元はアシㇼパとフチを食事に誘った。
「ちょっといいところを予約したから、おしゃれして来てね」
杉元がそう言うので、アシㇼパは二時間も悩んでやっと決めた白いノースリーブのワンピースに、水色のサマーカーディガンを羽織った。そこへフチが、アシㇼパの母が若い頃に付けていたものだというネックレスを出して来てくれた。おしゃれしているのだから、何かひとつは飾り気が欲しいと言って。フチは孫にネックレスをつけるとおしゃれ心に火がついたのか、アシㇼパの髪も服に似合うように編み込んでくれた。
「…こ、これ、気合いが入り過ぎてないか?」
姿見を前にアシㇼパは落ち着かない様子でフチを振り向いた。そんなことはない、杉元ニㇱパも可愛いと褒めてくれるはずだ、とフチは力強く言う。しかし、そうして気合を入れ過ぎたためと、途中交通規制に引っ掛かってしまい、フチとアシㇼパは待ち合わせの店に遅れて到着した。
「良かった。どこかで事故にでも遭ったのかと思って心配してたんだ。俺が迎えに行けば良かったって」
アシㇼパはフチに髪を編み込んでもらっていて良かったと思った。今日は蒸し暑い上に慌てていて少し急いだので、いつものように髪を下ろしていては、今頃くしゃくしゃになっていただろう。
「すまない。遅くなって」
そんな会話をしているうちに料理が運ばれて来た。ホテルでフルコースのディナーなど、杉元は本当に奮発したらしい。アシㇼパは毎回少しずつ料理が運ばれてくる店など初めてだったので、料理が来るたびにどんなものかと目を輝かせ、料理を口に運んでは美味さに驚き、嬉しそうに笑った。
「すっかりご馳走になってしまったな。美味しかった。ありがとう」
店を出てアシㇼパが言うと、杉元はどういたしまして、と言って笑った。
「やっぱりおばあちゃんとアシㇼパさんの料理の方が美味いけどね」
フチはそれに嬉しそうに笑った。
「フチ、アシㇼパ」
「アチャポ」
やって来たのはアシㇼパの本当の叔父のマカナックルだ。
「帰りのアシに難儀すると思ってな。フチを迎えに来た」
「なんでフチだけ?」
「この後アシㇼパさんを連れて行きたいところがあって。おばあちゃんには、足が心配だから、アシㇼパさんだけ連れて行って欲しいって言われてるんだ」
アシㇼパはフチを半眼で見やった。足が心配などとは嘘だ。今も元気に畑仕事に出ているし、近所の人も驚くほどの健脚で評判なのだ。
杉元ニㇱパとふたりで行っておいで、などと言うので、アシㇼパはフチがやたらとおしゃれさせたがった理由にやっと気が付いた。
「杉元ニㇱパ」
フチは杉元の手を取り、何事かを口にした。しかし杉元には訛りが強くて断片的にしか聞き取れない。
「わかったよ、おばあちゃん」
杉元はフチの手を優しく叩き、帰りはちゃんと送って行くからね、と約束した。
杉元はアシㇼパをどこに連れて行くのか教えてくれなかった。だが、行き先は今いる場所からそう遠くはないと言う。
「さっきの…」
「ん?」
「さっきのフチの言葉、何言ってるのかわかったのか?」
フチはアシㇼパは私の宝物だから、よろしく頼むと言ったのだ。まるで嫁に出すみたいではないか、とアシㇼパははらはらしたのだが。
「アシㇼパさんが大事だっていうのは伝わった」
「…合ってるけど、ちょっと違う」
「え?なんて言ったの?」
「何でもない」
アシㇼパは杉元がフチの言葉を全て聞き取れていなくてホッとしたような、がっかりしたような、妙な気分だった。
「連れて行きたいの、この高台の上なんだ」
高台を登る間、涼しい風がカーディガンの袖をくすぐって行く。汗ばんでいた肌に心地よかった。電灯は少ないが、街明かりが明るくて足下の明かりに困ることはない。その割に街の喧騒が届くことはなく、静かだ。杉元はアシㇼパの歩調に合わせて隣を歩いている。
「こんなところがあるなんて知らなかった」
「この街に来たばかりの頃に巡回してて知ったんだ」
この街に早く馴染もうとしていた杉元は、今ではこの街で知らぬ道はない。杉元の顔の傷を見て避ける人ももういない。
「あ、だけど昼でも一人で来ちゃだめだよ。人気がないからね。俺と一緒の時以外は来ないこと」
「子供じゃあるまいし」
アシㇼパは口を尖らせた。
「人気がないのも、一人で来るのが危ないことも、見ればわかる。言われなくても一人で来たりしない。私を子供扱いするな」
杉元は心の中で「さすがはアシㇼパさんだな」と思った。アシㇼパは冷静で観察力に優れている。生来のお節介が出てしまったな、と思った。
「また私に何かあったら杉元が無茶をするのはわかっているからな」
それは実際にあったことなので反論の余地はなかった。あの時犯人に掴まれてあざが出来ていたアシㇼパの腕は今は真っ白に傷ひとつない。奇しくもあの時出来た杉元の新しい傷はアシㇼパの腕にあったあざと同じ場所だった。それに気付いた時、杉元はアシㇼパの代わりになるのなら傷付いても誇れるものになると思った。
(アシㇼパさんを子供扱いしたんじゃないよ)
どうせ言ってもアシㇼパは信じないだろう。だから心の中で弁解する。
(ただ大事なんだ)
高台からは街を一望することが出来た。これだけでもここまで登って来た価値があるというものだ。すっかり日も暮れ、街明かりは輝いている。夜景というほどでもないが、なかなか見応えのある美しさだ。
杉元は時計を見ながら言った。
「そろそろだよ」
そう言ってアシㇼパの視線の先を促した。すると、風鳴りのような音が聞こえて、急に空が明るくなった。遅れてドンッ!という音がいくつも連続して聞こえる。
「花火大会があったのか」
「隣町のだけど、ここに来るとよく見えるでしょ」
「うん。綺麗だ」
アシㇼパは次々に上がる花火から目を離すことが出来ずにいたのだが、その間にどうやらここが穴場だと知っていたらしいカップルがぱらぱらとやって来る。カップルの女の方は、皆艶やかに着飾った浴衣姿だった。
(私も、浴衣を着て来れば良かった…)
それを羨ましく見ていると、隣の杉元がアシㇼパの顔を覗き込んで来る。
「どうかした?」
急に至近距離に杉元の顔が迫ったので、アシㇼパは視線が右往左往してしまう。それを周りのカップルへの戸惑いと取った杉元は、アシㇼパの背後に回って周りが見えないように彼女の姿を隠した。
格好だけ見れば後ろから抱き締められているようだ。なのに、杉元は意に介さず「これで大丈夫」などと言う。何が大丈夫なのかさっぱりわからない。少なくともアシㇼパの心臓は高台に登って来たせい以上に早鐘で、身体はギシギシと音を立てそうなほど力が入ってしまう。
「…言いそびれてたんだけどさ」
花火を見上げたままの杉元の声がアシㇼパの頭の上から降ってくる。
「今日の格好、可愛いよ。いつものアシㇼパさんじゃないみたいだ」
少しでも大人っぽく見えるように服を選び、フチにネックレスを付けてもらったり髪を編み込んでもらって精一杯おしゃれをしても、周りのカップルに比べれば今のアシㇼパと杉元はちぐはぐだ。
「……こんな子供といて、恥ずかしくないか?」
声が震えてしまった。自分で言った言葉なのに、どうしようもなく傷付いて急に目元が熱くなる。杉元はアシㇼパを懐へ抱え込むように立っている。これほど近くにいては、涙を誤魔化しようもないだろう。杉元は少しの間無言だった。アシㇼパが詮無いことを言ったと後悔し始めた時。
「今日もそうだけど、女の子はすぐに大人になっちゃうんだなって思ったんだ」
花火の音に紛れて、杉元の声が降って来る。
「いつも見てるはずなのに、ほんとにあっという間なんだなって。だから、今のアシㇼパさんと思い出を作りたかったんだ」
夏の花火に、秋の紅葉狩り、冬のかまくらに、春の桜。アシㇼパと会ってから季節は一巡したが、まだまだ思い出は足りないと思った。アシㇼパにとって、その季節ごとに印象的な場面に自分がいて、自分にとってもその場にアシㇼパがいて欲しいと思った。
「俺は今日の花火をアシㇼパさんと見られて嬉しいよ」
アシㇼパの手にぽつ、と落ちたのは雨ではない。さりとて悲しい涙でもない。
「…また来年も連れて来てくれ。今度はフチに浴衣を着付けてもらうから」
「…うん」
杉元はアシㇼパの頭に顎を乗せてぐりぐりと擦った。
「痛いぞ、杉元!」
アシㇼパの目には先ほどとは違う涙が浮かぶ。
「アシㇼパさんは来年にはどのくらい背が伸びてるんだろうねぇ〜」
「痛いって言ってるだろ、ばか!」
アシㇼパは伸び上がって杉元の顎に頭突きした。彼は声もなく悶絶している。
「いつかはこんなことも出来なくなるんだからな!」
そう言って涙目のまま杉元を見上げたアシㇼパに、杉元も涙目で笑いかけた。
その顔が最後の花火に照らされた時、アシㇼパはこの気持ちを恋と呼ぶことに決めた。
自分の気持ちを認めて改めて杉元の周りを観察してみると、実に不愉快が多いことに気が付いた。道を聞くふりをして必要以上に近づく女には、杉元に作ってきた弁当を文字通り差し入れて妨害した。ある時は、菊田も他の巡査も巡回などでおらず、杉元が交番に一人だからと言って断ってもなお、目的地まで案内して欲しいと腕を組もうとして来る女もいた。それには「落とし物を拾ったから」と言って交番に張り付いた。
以来、アシㇼパは学校の宿題を交番の奥の事務所でやることにしている。制服で出歩いていれば巡査に質問をされてもおかしくない時間までそうしているのだ。
「アシㇼパさん、すっかり不良になっちゃって…」
「交番にいるんだから日本一安全な素行不良だな」
「塾に行ってる同級生はみんなこれくらいの時間まで出歩いてるんだ。勉強してるんだから問題ないだろ?」
アシㇼパの正論に杉元は反論する余地もない。
実際、学校でのアシㇼパの成績はトップクラスだ。所属している陸上部でも活躍し、出場することが既に決まっているインターハイは優勝候補と言われている。来年は三年生で受験生となるが、アシㇼパの成績ならどの高校でも選び放題だ。
「お前の学生時代とは大違いだな」
「俺の学生時代を見て来たように言わないでくださいよ」
そんな日常会話も、杉元が本部の特別任務とやらに呼ばれてからもう遠い昔のようだった。警察の柔道剣道大会で毎年表彰台に上がる杉元は、署長からの推薦を受けて特別任務に従事しているのだ。配置換えではなく、緊急体制ということなので、任務が終わればこの街に帰ってくる。
アシㇼパは杉元がいない交番でも、これまでの習慣でここで勉強している。杉元が危険な目に遭っていないか、心配になって菊田に聞いてみたことがあったが、「特別任務なんで一般人には教えられねぇんだよ」と、本当にすまなそうに言うのでそれ以来聞かないことにしている。
腕の立つ要員が必要な任務など、危険でないはずがない。聞くまでもなかったとアシㇼパは菊田を困らせてしまったことを反省したが、心配は尽きなかった。
「…思い出を作りたいって言ったじゃないか」
夏はもうとっくに過ぎてしまった。浴衣を着て行く約束だった花火大会は終わってしまったし、紅葉の綺麗な季節ももう過ぎて、そろそろ雪が降り出そうとする頃だ。
杉元がアシㇼパの街の交番勤務に復帰したのは、初雪が降った日だった。
「もう帰って来られないかと思いましたよ」
「それはこっちのセリフだぜ。ひやひやさせやがって」
アシㇼパがいつものように勉強道具を持ったまま交番に来ると、そんな会話が聞こえた。
「杉元!?」
「アシㇼパさん!久しぶり!」
まるで一週間ぶりとでもいう口ぶりで杉元が笑っていた。
「お前…お前…半年ぶりだぞ!?連絡も寄越さないで!!」
「ごめん。個人的な連絡も許可されてなかったんだ。でもやっと帰って来られたよ」
「…花火大会、終わってしまったぞ」
「うん…ごめんね、約束破って」
「紅葉狩りだって、果物狩りだって出来なかった」
「ごめん…」
「杉元と…行きたかったのに…」
アシㇼパの視線は言うごとに下がって行き、足元を見つめている彼女の青い目を杉元は見ることが出来ない。所在なく浮いた手をアシㇼパの方に伸ばそうとした時、アシㇼパが勢いよく顔を上げ、その青い目が潤んで杉元を睨み付ける。
「これで怪我して帰って来てたら絶対許さないところだった!!」
杉元は思わず笑って両手を広げた。
「無傷です!!」
「…ならいい!!」
アシㇼパは照れ隠しに杉元の手のひらをひとつ思いっきり叩いた。
久しぶりの再会で嬉しくて抱きつきたいなんて衝動は、まだアシㇼパには持て余すものだった。
その日の帰り道は仕事上がりの杉元に送ってもらった。
「…本部の特別任務なんて、栄転のチャンスじゃなかったのか?」
「菊田さんから聞いたの?」
「いや…署長の推薦と聞いたから、何となくそうなんじゃないかと思っただけだ」
「そっか。アシㇼパさんはさすがだな」
アシㇼパと話す時の杉元の声は優しい。雪が降るみたいに重さを感じないのに、いつの間にか心に優しく降り積もっている。
「半年も会わないと、アシㇼパさんの背が伸びたのがよくわかるな」
初雪で髪を飾るアシㇼパの前に立ち、杉元は自分の胸より少し上で手を振った。
「前に会った時はこの辺だったよ、アシㇼパさんの頭の位置」
「…もう顎でぐりぐり出来なくて残念だったな」
ほんとだねー、などと笑いながら杉元はアシㇼパの髪に積もった雪を払い、自分が被っていたキャップを被せてくれた。
「…栄転は良かったのか?」
アシㇼパはもう一度、恐る恐る聞いてみた。もし別れが近いなら、杉元には今の気持ちだけでも知っておいて欲しいと思ったからだ。初恋は叶わないものだと知っているし、どう背伸びしても杉元は自分より遥かに大人だ。アシㇼパが一足飛びに大人になることは出来ないから。だから初恋にケリをつけるなら今なのだろう。それはとてもつらくて悲しいことだけれど。
しかし杉元はこれ以上ないほど優しく笑って言うのだ。
「そんなの受けないよ。俺、アシㇼパさんのいるここが好きだもん」
アシㇼパはまさか失恋の機会を失うことになろうとは思わず、目を瞬かせた。杉元を見上げた先からは、真っ暗な空から街灯に照らされた雪がとめどなく降ってくる。
「それは…」
杉元の優しさが降り積もったアシㇼパの心には、それを溶かして飲み下そうと新たな熱が灯り始める。
「それは私のそばにいたいってことでいいんだな?」
「え?」
「どうなんだ、杉元」
目線が近くなってよりよく見えるようになったアシㇼパの青い目は、実は緑も煌めくのだとは杉元はこの時初めて知った。静かに自分を見上げるアシㇼパの目は吸い込まれそうな程綺麗だ、と、この時思った。
「もちろん、そのままの意味だよ」
するりとこぼれ出た言葉は本心だった。
「そうか」
短く言うと、アシㇼパは杉元に被せられたキャップを脱ぎ、杉元の襟首を掴んで挑むように笑った。
「じゃあ私もそのつもりで行くから覚悟しておけよ」
鼻先が触れそうなほど至近距離でそんなことを言われては、いくら杉元でも動揺する。
「キスされるとでも思ったのか?」
ははは、と笑うアシㇼパに、杉元は動悸の激しい胸を掴みながらやっと言い返す。
「揶揄わないでよ、アシㇼパさん!心臓に悪いよ!」
動悸は、驚いただけではないのだということは、この時の杉元はまだ知らなかった。