70% 会議室から帰ってきた津川アガノが、研究室の自動ドアを開ければ、自分がいつも座る椅子に、誰かがいるのがチラリと確認できる。
アガノは息を殺して小さく笑うと、研究員用の長い上着を翻して、その後ろ姿にそっと近づく。察しのいいその相手は、アガノが帰って来たことに気がついて、回転椅子をくるりと回し、少し困ったような顔で近付いてきたアガノを見上げた。
「お久しぶりです」
そう言ったのは指令員の岩見沢ソラチだ。
「久しぶり、かな」
アガノが笑みを浮かべれば、ソラチは少しムッとしたように眉を寄せる。
「じゃ、ありません。ここのところずっと根をつめてるでしょう?ここに籠りきりで、画面越しか音声でしか会ってませんよ」
「いやぁ、そうだっけ?」
ソラチは、身を乗り出し、自分の両膝に両肘をついて、手を組む。
「しかも、ちょくちょくここに泊まっていると室長に伺いましたが?休憩も碌に取ってないんじゃないですか?」
「アンノウンが出現してから解析も機体調整もキリがなくてさ……ここ宿直室もあるし、家に帰るの面倒くさくなってしまって」
問いただされるアガノは、頭を掻いて困ったように笑う。
「キリがないのは僕たちもです」
ソラチは、その顔を見て、呆れたように小さくため息をつく。そして、ポケットを探り、右手を差し出しながら言う。
「でも、ほどほどにしないと、大事な時に身体をこわしますよ」
アガノは、手を差し出してそれを受け取る。そこには金色の包み紙に覆われた、薄くて、繊細そうな四角いチョコレートがひとつ乗っている。
「あんまり甘くないチョコです。好きでしょう?」
そう言うと、ソラチは微かに笑みを浮かべる。
アガノはちょっと瞳を丸くしてから、微笑み返す。
「……ありがとう」
「僕も休憩です。コーヒー、飲みませんか?」
そう言いながら、ソラチはアガノに手招きをする。
アガノが不思議そうな顔をしながらも、ソラチに近付けば、グイッとネクタイを引っ張られる。アガノが思わず前のめりになれば、ソラチはキュッとアガノのネクタイを締め上げる。
「緩んでいますよ」
「へ?え?」
ソラチの猫の様な瞳と、左の目元に存在するほくろが至近距離で視界に入って、アガノは思わずそれらに囚われてしまう。ソラチの瞳がうっすら細められて、笑っているのだとわかると、アガノは自分の心臓がジワジワと揺れるのを自覚する。
「はい、オッケー。休憩室行きましょう」
そう言ってネクタイから手を離し、軽くアガノの胸元を押してから立ち上がったソラチは、几帳面にさっきまで座っていた椅子を元に戻す。
「……ソラチには、叶わないな」
アガノはそう小さく呟いて、締められたネクタイの結び目に触れ、ソラチに肩を並べてさっき入ってきた方向へ向かいなおす。
アガノは、ソラチに貰ったチョコの包み紙を開けて、さっそく口に放り込んだ。
「ん〜、おいしい。やっぱこれだなぁ……もう一個ある?」
そう言ってアガノはソラチのポケットを探ろうとする。
「!な、ちょっと!」
ソラチは少し頬を染めて、焦ったようにアガノの手をはたく。
「ある、あるので、後であげますから!」
「ははっ、やった! お礼にコーヒー奢るよ」
アガノはソラチにニッコリと笑いかける。
ソラチは、その人好きのする笑顔に、仕方ないな、というような小さなため息をつく。
そうして、なんだかそんなやり取りのおかげで、少しだけ胸のつかえが取れた2人は、連れ立って研究室を後にしたのだった。
これから始まる可能性が高い、と上層部によって結論づけられたアンノウンの攻撃に備え、彼らは日本の安全を守るための対策に気が抜けない日々を送っている。
まだ年端も行かない思春期の子どもをその機体に乗せるという責任はとても重い。2人はその覚悟を決めた高輪の背中を知っている。
100%にはできない安全性を限りなく100%に近付けるための工夫と、技術の研鑽をするしかない。彼らはその一端を担っているのだから。
未だ全貌の見えない脅威の存在に直接対峙し、そこはかとない不安と焦りをかかえる彼らにとっては、チョコレートとコーヒーで過ごす僅かな休息だとしても、それはかけがえのない時間となるのだった。