「ただいま」
玄関のドアを開けて靴を脱ぎ終えても返事が聞こえてこない。こういう時のひろむ君は大抵音楽かゲームか、とにかく何かに集中していて、俺が肩を叩くまで自分の世界に引きこもっているのだ。
「……が、君……の……違う、君で……」
ひろむ君はどうやら俺の帰りを待っていたようで、珍しくリビングでMacBookの画面と夕焼けを光源にして制作に没頭していた。
「ただいま。目に悪いからやめろって言ったのに」
「んー……おかえり……あ、違うな」
こちらを向くこともなく返される挨拶もひろむ君らしい。俺は部屋の電気を点けて上着をハンガーに掛け、彼の向かい側に座った。しばらくキーボードを叩く音を聴いていると、いつもと少し違う打鍵音が耳に引っかかる。いつもより少し高い、硬い音だ。
「ひろむ君、手貸して」
彼の顔と画面の間に手を差し出して、手招きするように催促する。ひろむ君は一瞬固まったが、意図が掴めないといった顔で右手を俺の手に乗せた。
「……やっぱりね。ちゃんと爪切って、手入れしないと駄目だろ。ギター弾くんだからさ」
俺は立ち上がって戸棚を漁りひろむ君の隣に座ると、未だキーボードの上を駆け回る彼の右手を捕まえて自分の方へ引き寄せた。
「ほら中断。どうせ休憩してないんでしょ」
ひろむ君は不服そうだったが、俺の顔と自分の右手を数回見比べた後で諦めたようにため息を吐いた。こういう時の俺が譲らない事をよく分かっているのだろう。
ぱち、ぱち、と小気味いい音を立てて爪を切っていく。時々居所なさげにもぞもぞと動く指が愛おしい。
「……真さん、わいのあっちゃだけんた」
「な、なんて言った?どういう意味……」
「ふふ……すかふぇらいね」
「なんだよ……」
俺をからかって満足した様子のひろむ君は、ニヤニヤしながらコーヒーを啜った。