抱いた幻想 声が響く。言葉として、音としては分からないが確かに呼ばれているということだけは分かる。
何故。どうして。と疑問に思えど、解消できる答えは見つからない。誰かに聞いてもそんな声は聞こえないし、その場所は何もないただの物だと一蹴された。
賑わう港町は早朝から活気に溢れる。日が昇る前から漁に出ていた船が帰港するとたんまりと獲った魚を陸に放つのだ。北の海で生き抜くために身を脂を蓄えた銀色の煌きが港に置かれた箱に溢れんばかりに輝く。それらを捌くために設けられた朝市には他にも野菜や肉などたくさんの食材が並んで目を引いた。
それらを求めて人も早くから活動を始める。鮮度のいい商品を手に今日も一日が始まろうとしていた。
「先生、あんたがこんな時間に顔を見せるのは珍しいね!」
「……ああ」
朝市の客目当ての露店の一つ。大通りの隣の路地に出す馴染みの店に朝食を買いに顔を出すと店主が声をかけて来た。
焼きたてのパンに薄切りにした肉と野菜を詰めたいつものを渡されると、きちりと金額通りの貨幣を渡す。
「最近見なかったし、それでこの時間ってことはひと仕事終えたのかい」
「そんなところだ」
短く答えると受け取ったパンを食すべく、これまたいつもの場所めがけて足を進める。包み紙を折り込んで先にいれていた水筒と一緒に鞄にしまい込んだ。
「今日は風があるから気を付けなよ、先生!」
大声でそう叫んだ店主に男は手を上げて了承の意を伝えると振り返ることなくその場を後にした。
言われた通り今日は風が強く、開けた場所では衣服も髪も吹きすさぶそれに遊ばれる。街から離れた高台の、身通りの良い場所。森を抜けた先、眼下に広がる景色を一望できるそこはバルナバスのお気に入りの場所だった。
鞄に締まっていた朝食を取り出す。出来たてを包んでいた包みは少しばかり湿ってしまっていたが、収められたパンと具材の美味しさは変わらなかった。がぶりと噛みついて咀嚼すると小麦の甘い香りと味に塩気の強い肉と瑞々しい野菜が追いかけてくる。混ざればそれは朽ちいた腹を満たすには十分過ぎるごちそうだ。半分ほど食べたところで水筒の中身を煽る。知らず乾いていた身体が望んだものを得てじくりと染みわたった。
ふっと息を吐く。揺らいでいた思考が栄養を得てはっきりとしだすと眼前の景色をしかと受け止める。書き続けていた論文がやっと終わったので本当ならば寝台で数日分の睡眠を取りたいところだったが、どうしても見たいものがあって重い身体をここまで引き摺ってきた。
綺麗に晴れた晴天の下、バルナバスが見つめる先にはそびえ立つ白亜の塔あった。それがいつからそこにあるのか。どうしてこんな場所にただ一つ在るのか。誰にも分からず詳しい文献も残ってはいない。
螺旋のように弧を描く独特の模様を刻みつけながら風に乗って飛ぶ鳥も届かないほど高く積まれたその建物はかろうじて口伝で名前が残っていた。『賢者の塔』それがこの不可思議な物の名前だった。
静かに佇むその建物は入口がなく、また雨や雪に幾年在らされても朽ちることなくその場所に在り続けている。最後の記録は二百年以上も前にまで遡るが、そこにも人を寄せ付けない塔があるとしか記載がない。
目を細め、その存在をありありと見せつける塔を遠くからバルナバスが見つめる。どうしてそうまで惹かれるのか。問われれば呼ばれているからとしか答えは無かった。
バルナバスは物心ついた時には一人だった。というより子供のころの記憶がないのである。
記憶の始まりは病院のベッドで起き上がったところから。街道で倒れているところを見つけた親切な商人が街まで運んでくれたのだと聞かされた。簡素なズボンと布を巻きつけただけで酷く憔悴して倒れていたバルナバスは運ばれてから数日眠り続けていたのだという。
聞かれてもなにも分からず言葉が交わせたことは幸いだった。そして唯一答えられた質問は自分の名―――バルナバス。それだけはすらりと口から転がり出てきたのである。だが他の記憶は無く、自分がどうして倒れていたのか。どこから来たのかはまったく分からず数日病院で過ごしていても思い出すことは無かった。
身体が回復するとバルナバスはこの街の図書館で働き口を見つけた。文字の読み書きができるということは貴重だったらしく、素性のわからないバルナバスでも雇ってくれたのである。バルナバスもまた書物を見て知識を得ることは楽しくその仕事に従事しながらいくつも本を読み漁り、自分のルーツを探した。
何かきっかけになればと思って様々なジャンルの書物を手当たり次第に読んでみたが空白の記憶はそのままだった。
そうして半年ほど経った頃、バルナバスはふとときおり声を聞くようになる。朝目覚めたとき、あるいいは食事をしているとき。夕暮れの赤い色を見て一日の終わりを感じる時。唐突に耳に、何か囁かれて振り返るがそこには誰もいなかった。
そもそも呼ばれたというのも確かなのか最初は疑わしかった。耳朶に響く音は言葉として意味を成さず、ちりりと感じる微細なざわめきにも似ていた。だが、それでも何かを訴えている様な気がしてバルナバスは呼ばれる度に周囲を見渡した。
近くにいた者にも尋ねてみるがその聞こえるものは自分にしか届いていないらしく理解を得られることは無かった。
そこから時は過ぎていき、呼ばれる感覚が微弱ながら波があることに気がつくとバルナバスは街の周囲を歩いてみることにした。これまで図書館と街の中しか見て回らなかったので軽い軽食を手に散策する時間は新鮮で、借りて来た地図を手に巡るのはなんとも気分が高揚した。
広く見渡せる場所があると教えてもらった森の先に足を進める。街道から僅かに離れた木々の隙間をぬって辿りつくとそこは港町を一望できる崖の上だった。
絶景。これを称する言葉はそれ以外なく、しばらくバルナバスはその景色に見とれる。良く晴れた空と、眼下に広がる街と木々の色のせめぎ合いが洪水のように叩きこまれるとはっと感嘆の吐息をもらした。
そしてそこで気がつく。この港町の北、隆起した大地にそびえ立つ塔があることを。
あれは何だろうか、見渡す為に持ってきていた双眼鏡を手に見てみると遠目では白い灯台を思わせた建物は複雑な模様を絡ませた立派なものであった。こんなに目を引くものがあるというのに、話を一切聞かなかったことにバルナバスが不思議に思うと脳裏とちりりと何かが蠢く。
視界が揺らいでいつもの呼びかけが聞こえた。
「 」
音もない。言葉もない。それでも確かに分かる。自分はあの塔に呼ばれているのだと。
違和感が消えるとバルナバスはその塔めがけて走りだした。幾許か距離のある道を抜け、方向を間違えずに森を抜ける。帰りには夜になろうとも構わなかった。この失った記憶の中に何が隠されて、それを解き明かす為の鍵をようやく見つけたと思ったのだから。
靴が土まみれになり、衣服は途中でひっかけて何か所かほつれた。それでも足は止まることなく。バルナバスはその塔が立つ麓まで辿りついた。天に在った太陽は傾いて大地に別れを告げながら沈もうとしている。名残の赤い光は白かった塔を燃えるような炎の色に染め上げていた。
そっとその壁にバルナバスが触れる。石とも陶器とも思える不思議な手触りのそれは細やかな亀裂を覗かせるが色をそのままに整然と立つ。まるで時がそこだけと止まったかのようにやけに綺麗だと思えた。
ちりっと頭に何か音が届く。呼ばれているのだと思って入口を探すが塔の中へと入る道は探すことができなかった。日が沈んで暗くなってしまったが故にその日は帰り。再び次の休日に街から今度は直接塔へと足を運んだ。
だがやはり探せで入口は見つからず、また侵入するための穴もなかった。
諦めろと言うのか……やっと見つけたと言うのに。壁を叩き、握り締める拳が白く皮膚を染める。だが不規則に届く声はバルナバスを誘えど、道を開けることは無かった。
街に戻ってからバルナバスはその塔を調べる。図書館に記述はほとんどなく、地図に塔の場所が記載されるのみ。地下の古い記録にかろうじて書かれていた名前は『賢者の塔』であった。
誰か住んでいるのか。どういう役割であの場所に立っているのか。まったくわからないその塔にバルナバスは執着し、そして調べていくうちに古代の文化に触れるようになって行った。ありとあらゆる知識を貪欲に求める姿に街の人からはいつしか先生と呼ばれ、自身も調べた片鱗を伝えなにか手掛かりを得るべく己の考えをまた書物として世界に流した。
そうして年月は立ち、バルナバスもまた青年から壮年となり、季節は幾度も巡ったが未だに塔への道は分からず。そこに在る理由すら分からないままだった。
朝食を終え、バルナバスは今日も塔を見る。吹きすさぶ風が頬を撫でて体温を奪うと足元から寒さが這いあがってきた。
今日も変わらず塔はそのままで、ちりっと頭の隅に届く何かを感じる。
「 」
ざわりとした。呼ばれた感覚が強く、そして内臓を掴まれるように揺さぶられる。感じたことのない強い呼びかけに流そうとしたものをもう一度見た。
すると今まで沈黙を守っていた塔の下、大地との境目に揺らぎがあるのを見つけた。
「っ!」
何年もかけて見て来た光景が崩れたのを知覚するとあの日のようにバルナバスは走りだす。手から零れたパンの包み紙が大地に落ちる前に風に攫われて宙を舞った。
塔の麓まで辿りつくと驚きにバルナバスは固まる。今まで塔への道として使っていた岩の隙間に忽然と空洞が現れていた。大地には崩れた岩の名残が散らかり、小さな粒が舞う。
「……」
ろくな用意をしていない。だがここで引き返すなど出来る筈が無かった。
空洞に足を踏み入れると冷えた空気がぴしゃりとバルナバスを覆う。肌がひりつくような気温の低下にここが閉ざされていた空間だと言う認識を強めた。そして続く先に足を進める。光のない先へ壁に手をつきながらゆっくりと、だが確かに足を進めていくと遠くに僅かな明かりが見えた。
ぞくりと心がざわつく。この先は塔へと繫がっているのだろうか。期待に沸く気持ちを抑えながらゆっくりとその足を進めていくと明かりは地面に生えた透明な水晶から発せられていたらしい。小さな粒が次第に大きくなり、洞窟にいくつもはりついていた。一つ一つは本当に小さな光だったがやがて水晶の数が増えると視界に困らないほど明るくなった。
紫の光に包まれた道を進んで行くと上へと昇る階段が現れ、見上げるとそこには白い壁がそびえているのが分かった。
塔の入口だと、バルナバスが息を飲む。壁に描かれる模様はいつもあの場所から見ていたもので、間違えようがなかった。
興奮に足が、手が震える。それでも開けたその先を今行かなければならないと叱咤して階段を上った。
幾重にも生える水晶に導かれてバルナバスが足を進める。水晶の合間に木の根のような、あるいは蔦の様なものが塔と洞窟をおおっている事に気がついた。長年の末に植物も取り込まれているのだろうか。
そう思案するがその管にも似たものは仄かに動き、小さく脈動していることを知る。心臓の鼓動のようにひとつ、またひとつと小さな動きを繰り返していた。
これは木の根では無く、この塔へあるいはあの洞窟へ何かしらの動力を送る代物なのかもしれない。街にも最近出来た蒸気による力の伝達が伝えられていた。炉により生み出された力だが大きなものを動かすのだと伝え聞いたことがある。
夢見ていた塔の内部はその管と水晶が侵略し。外から見た白い幻想的な空間とは程遠かった。それでもやっと入れた喜びにバルナバスは足を進める。装飾の細やかさから内部も入り組んでいるかと思ったが、覆う紫の水晶が道を一つにしていてまるでこちらだと示すように続いていた。
迷わないようにと思っていたがこれなら帰る時も問題は無いだろう。命脈する管を踏みながらバルナバスは奥へとその足を進めていく。
やがて到達したのは小さな部屋で、そこは水晶と管の侵略は少なかった。床には無機質なつるりとした面が顔を見せ、壁が露わになる。何かの実験をした施設だったのか途中で見かけた割れた水槽のようなものがここにも並んでいた。
途中のは全て割れ、中身は何が入っていたのか分からない。だがこの部屋のものはまだ無事であったようだった。
手前の水槽は二つほど割れていたがその奥には淡い光を灯したものが並ぶ。緑、黄色、紫…そして青。それらの中には形容しがたい黒い煤のようなものが収められていた。
めぼしい記録は無く、また複雑な四角の突起が並ぶテーブルは書きものをするには不向きなものだ。ここでなにを研究していたのだろうか。
ちりりと、またバルナバスの脳裏に何かがちらつく。いつもの微細な呼びかけとは異なる。はっきりとした意思を感じた。
「私を呼ぶのは……誰だ」
発した言葉に答えは無い。だが蠢く感覚は残り、訴えるようにバルナバスの頭をかき乱す。確かな痛覚となって襲い来るそれによろめくとバルナバスはテーブルの上に手をついた。
すると僅かなへこみに触れた掌がかっと光り、聞き慣れない音が連鎖した。
『―――照合、照合。対象を観測』
「な、なんだ?」
テーブルが発光し、ちくりとバルナバスの掌に小さな痛みが走る。
『採取した細胞より検索、データベースにヒット。被験体Bと確定』
温度のない声が天井から落とされると次にテーブルの上の黒い壁に光が集まった。
『規定により保存された映像を再生します』
声が終わると集まった光が一人の男性を形作る。青白い光が織り成すのはバルナバスと似た壮年の随分と疲れた様子の男で頬に傷があるのがやけに目についた。
『これを残すことに意味があるかは分からない。でもいつか見てくれるかもしれないと思って、この伝言を置いておくよ』
聞こえてきた声は柔らかく、とても優しい音色だった。
『見ているのは誰だろうな、あんだたといいな……』
それが自分と示しているとは限らないのに、その声色に心臓が激しく鼓動を続ける。
『魔法が消えて、人が人として生きていける世界になった。無事に俺達の目指した世界が産声を上げた。それを見届けることができたのは皆のおかげだ。だが見届けるまでに随分と長い時間がかかった』
遠くを見るように男は天を向く。
『本当に、本当に長い時間がかかった。だがもう、俺が見ていなくても大丈夫だ。人は自分達の足と手で歩いて行ける』
目を閉じて、男はそう告げるとふっと息を吐く。そして次に開くとこちらを向いた。その顔はとても寂しそうで今にも泣きそうなほど儚かった。
『俺は不要となった。大罪人シドを継ぐ者はもう必要ない。これからは消えなければいけないモノだ。だから俺は最後にこの塔にやってきた』
ごくりと唾を飲み込んでバルナバスは男の姿を眼に映し、声を聞く。
『終わることのない命を得てしまったが故に世界を放浪してもいいんだが、それでも人は恐れるだろう。そして独りで生きるにはもう、俺は十分過ぎるほど生きてしまった。だから最後に一つ我儘を許して欲しい』
目の前の男の背に羽根が生える。青白い光を煌かせて羽ばたく姿はまるで絵画に描かれる神のようだった。
『俺の中に眠る皆の欠片をここで育てる。そして万が一にでも目が覚めたら俺ともう一度だけこの世界を、手に入れようと足掻き続けた未来を見てほしい』
両手を広げて男がそう告げる。目の前にはいくつかの光が球となって浮かぶ。
『これは俺の我儘だ、あんたに言わせれば自我……だったな。それでももう一度俺はあんたに会いたかったんだ……バルナバス』
呼ばれてバルナバスが呆然と男を見つめる。ああ、呼んでいたのは貴方だったのかと。
「………ミュトス」
口から自然と男の名前が紡がれる。刻まれて塗りつぶされていたものが綻んで蘇る。一度決壊すればそれは止まることは無かった。
ありありと思い出すのはオーディンとして生きた日々と救いを求めた日々。そして敗北して連れ帰られた神の器ことクライヴ・ロズフィールドと人として生きた時間。
エーテルの枯渇で共に歩み続けることができなかったバルナバスはクライヴに看取られてその二度目といってもいい生を終えたはずだった。
『すまない、だがもしあんたがこれを見ているなら。もう一度この世界にきてくれてありがとう』
憂いを湛えた双眸を造りだす青い光が輝く。
『人は救われただろう』
祈る様に、そして誇らしくそう告げるとミュトスを形作っていた光が霧散する。役目を終えたとばかりに飛んだ小さな粒子は煌きながら床に落ちて行った。
手を翳すと掴むことすら許さないと触れた先で雪のように消える。最後まであの男の我がままのように。
「………ミュトス」
名を呟くバルナバスがぎりりと唇を噛む。今なら分かる。自分が再びミュトスによって作り出されたものだということも。記憶が無いのは造られたからだということも。そしてこの割れた水槽が何を意味するかも。
分かるが故に腹立たしかった。何処までも勝手で肥え太った自我の持ち主が消えた先をバルナバス睨みつける。
「貴様の勝手は許さんと、何度も告げたはずだ」
沸き上がる黒い気配がバルナバスの手に収束される。失われた奇跡がその手に再び剣を与えると青と赤の光が練られて巨大な姿を再び世界に刻みつける。禍々しいその様に蠢く管と水晶が震えるように震動した。
「斬鉄閃!」
凪いだ斬檄が映像を灯していた壁に穿たれる。いくつも重なった管と水晶がはじけ飛んで斜めに飛んだ剣撃の形に壁が割れた。甲高い悲鳴が響き、千切れ飛んだ管が痙攣しながらのたうちまわるとごぽりと中から青いモノをまき散らした。動力だと思っていたものを床に散らす様を横目に抉じ開けた先にバルナバスが足を踏み入れる。
「ん……ぐっ……ふっ……………」
中には小さく声を漏らすモノが収められていた。
分厚い触手のように蠢く壁の中央、垂れ下がる管が絡みつくのは背から羽根を生やした全裸の男――――先ほど映像が出ていたクライヴだった。手は掲げるように左右に吊られ下半身は床から伸びる管に覆われて臍の下からは何も見えない。口に含んだ管が脈動しながら何かを吸い上げて中を伝い、全身に絡んだ管と共に壁に、そしてこの塔へと巡らされているのを見なくとも知った。
「んんっ……ん……」
自分が目覚めてから。あるいはもっと前からこの塔を動かす動力としてそして再びバルナバスを生み出す為にその力を使い続けていたのか。肌はやつれて白さが浮いていた。
こんなことの為にとバルナバスが再びその剣をふるうと繫がった管が一斉に千切れ飛ぶ。
「か……はっ………」
地面に投げ出されたクライヴが支える者も無く這いつくばる。肉体に繫がる管だけを斬り飛ばしたバルナバスがまだ繫がる口と尻の管を手に取ると勢いよく抜き去った。
「あぐっ! ぁああっ………」
はっ、はっ、と解放に喘ぐクライヴの声は小さく。それでも記憶の中にある柔い音色は一緒だった。
最後の名残のようにバルナバスの手から剣は消え去り還っていく。投げ出された身体を抱き上げるとその瞳を覆っていた黒い触手を取り払って棄てる。ごとりと力を失ったそれが転がると小さな痙攣をしながらクライヴの目が開かれた。
「………ばる、なば……す?」
「……他に誰がいる。貴様を迎えにくるものが」
青い瞳がバルナバスの顔を見る。灰青の冬を思わせる瞳にむすりと不機嫌そうな顔。濡れたような短髪の髪はところどころ遊んでいるようにはね、頬には深い髭が刻まれる。
記憶の中のそのままのバルナバスの姿にクライヴの瞳から雫が溢れた。
「バルナバス……」
ろくに動かない手をそれでも動かして目の前の男抱きしめる。望んだ温もりに触れて溢れる涙は止まる処を知らなかった。
ロゴスが求めた幻想が確かに生み出されこの腕の中に在った。