そして貴方といつまでも どこまでも晴れ渡る天に蒼穹の緞帳が広がり、暖かな光を満遍なく大地に降り注ぐ。草木の緑が輝く夏の突き刺すような日差しから徐々に色を灯した葉を包み込むような柔らかさを含んだ陽はもうしばらくすると遠ざかり、世界は白い恵みに包まれていくだろう。
綺麗に続くこの空もくすんだ色に染まれば厳しい冬の足音はもうすぐだった。
賢者の塔の最上階にほど近い上層で腰かけ、ゆるりと色を変えていく木々の代わり様を眼下に望む。広がるのはかつては豊かな森と山々だったが年月を経た今は大方が削られて散り散りとなっていた。代わりに広がるのは人の街と繋ぐ舗装された道、そして家畜の為に開けた大地。水が豊かなロザリアの大地は豊富な資源で豊かに実りを結び人を養う。かつて父エルウィンが望んだように、水車を起点として始まった大規模な水路についても発達した技術が今は隅々まで行きわたり生活に困らない供給と氾濫対策がなされている。
そうして斬り開かれた大地は人によってますます手を加えられてかつての姿を失って行くだろう。まだかろうじて残っているロザリス城も、いつその姿を失うか分からない。過去の立派な城は貴重な財産だとそのまま残されているが立地の素晴らしさにいつどうして建てられたか分からないものはいっそ排除してこの場所を開拓しようという声も出ていた。
フーゴの侵略で大分痛んだ城はその後かつてのロザリアの民によって手直しがされたがそれも数百年を越える年月が過ぎれば風化は激しい。物好きな職人の手に寄り補強されてはいるものの、どうやって作られたか、何をつかっているかなどの仔細はもう残されていないのであろう。となれば歴史的意味を持たない石の残骸としか成りえないのだ。
この賢者の塔も崩壊の兆しはところどころ滲ませる。優美な線を描いていた空の文明の細工は剥がれ落ちて白い瓦礫の塔となり果てている。少し前まではいつどのような目的で建てられたか分からない塔として研究者達の格好の獲物だったこの建物も朽ちて欠片が零れるようになった今では立ち入り禁止の看板が無遠慮に囲い、人の手によって壊される日もそう遠くは無いだろうと思えた。
ロザリス城も、賢者の塔も。既にその役割は終えていてただこの大地に立つ悠久の彼方の墓標だ。他の大地にあった記憶の中の物はほとんどがその姿を消している。
死んだクリスタル神殿は瓦礫となり土に還った。農村だった小さな集落は消え、あるいは街となってその姿を大きく変化させた。ロザリアに立つ記念碑も遥か昔に起こった地震で崩れて塵となり、壮大な面影を残していたドレイクヘッドのタイタンの名残すらもう斬り開かれて跡形もない。
ベンヌ湖に浮かぶ隠れ家はもう隠匿する必要のなくなった者達が去ると世間では大罪人のアジトであるわけだから痕跡を残すまいと奥底に沈められ腐り落ちただろう。いつか人の手が水の底まで伸ばされたら破片程度は拾われるかもしれない。そうしたらあの海底に沈んだアインヘリアルも再び歴史に名を刻むのだろうか。
思案するクライヴが空を見上げる。羽ばたく鳥がその雄大な景色を従えてどこまでも飛んでいくのを追う。囚われることなく飛び続ける姿に在りし日のストラスを思い描いてふっと笑った。
「どうした、ミュトス」
「いや……随分と永い時間が経ったんだなって」
欠けた床の縁に腰かけ、形見の装束を纏ったクライヴが問いかけに口を開く。
鎧と外套など、もうこの世界にはありふれたものではなくなった。魔物はエーテルが無くなったノ後に徐々にその姿を薄れさせ、いまでは少し名残のある獣しか残っていない。戦う必要の無くなった人は、身を守る硬い装甲を捨て去り、数を増やすことに専念しだした。人同士の諍いは皆無ではないものの、強大な力を有する化け物に対する物はもういらないと姿を消したのだ。
武器は人が人であれば無くなることは無い。剣も弓も、槍もまだある。だが余程の規模で無い限りその需要は無い。それに最近出て来た銃という火薬を使った小型の武器が目立ち始めた。投擲が可能となったその便利な武器は剣よりも手軽で、言い方は悪いが効率がいいものだった。世界に広まれば武器の姿もまた消え失せて新しいモノとなっていくだろう。
剣を指し、鎧を纏った騎士というものは本当の意味での物語の中に納まる夢と成り果てるのだ。
手を後ろに少し身体を預けるクライヴの膝でその身体を横たえるバルナバスがそうかと短く呟く。装具のない足に頭を乗せ、クライヴと同じ空を見ていた。
「人が人らしく生きられる世界……お前の望んだ救いは叶ったか?」
「ああ、十分過ぎるほどに」
世界は人を喰らう時代は終わった。もう理不尽に零れていく命の奔流が荒れることは無いだろう。
「これほどまで永く眠りにつかせくれぬとは思わなかったがな」
幻想の塔での死闘。互いの譲れぬ限りをぶつけあった闘争の果て。勝ったのはクライヴか、バルナバスか。打ち果たした先でオーディンの力を喰わされたクライヴは後味の悪さに苦渋を飲むしかなく、バルナバスにとっては目的は果たしたもののその不敗の剣を砕かれた事になる。勝者など存在しない、だが生き抜いた果てにその権利を得たのはクライヴだった。そうして塵となるはずだったバルナバスは何の因果かクライヴにエーテルを注ぎこまれてこの世界に引きとめられ、今に至る。
「すまない……」
「貴様のそれは聞き飽いた」
じろりと灰青の瞳が見上げる。柔らかな光に照らされたクライヴがその視線を受け止めて微笑むと蒼穹の先に輝く海の深い色を返す。
「私がついぞ砕けなかった自我なのだ。そんな言葉に頼らず貴様の言いたい事を言え」
「……あんたに今更言葉は選ばないさ」
永い、長い時間が過ぎた。もう彼らの知る世界は片鱗すらまばらで、二人の名も歴史の狭間に消え去り唯一残っているのは幻想物語という空想小説の一遍のみ。最後に語られるとすればどこの切れ端とも取れない詩人の詩の不老の王かロストウィングのワインの創世程度であろう。それでもクライヴという名が記されることは無い。あの場に居たのは大罪人シドなのだから。
全てが過去の欠片でしかなく。今、この世界に存在する二人は運命から零れ落ちた残滓でしかなかった。
「ここまで一緒に来てくれてありがとう、バルナバス」
「それが我がミュトスの願いなら」
クライヴの背に青白い光に包まれた一対の文様が具現する。空の文明のパーツにも似た荘厳な作りのそれから羽ばたきを一つ鳴らして羽根が生えると青い煌きが満ちた。
抜け落ちてもう僅かしか残っていない羽根が散る。四枚あった羽根は隙間が多くて重ねて折り畳んでやっと一つの羽根のように膨れた。それでクライヴは自身とバルナバスを包む。その間にも零れていく光と抜けていく羽毛が止まらずぽろぽろと幻想の塔から落ちて消えていく。
地上からそれを見れたものは果たしているのだろうか。強すぎる陽の光に解けて、跡形もなく散る光をそのままにクライヴがバルナバスを抱きしめる。
背に負った力の結晶はかろうじてその姿を留めているが幾重にも細かく走る亀裂が白い線を描いて破片を落としていた。
本来であればドミナントとして力を失い石化して果ててもおかしくなかったのに片手で止まり、人ならざる生を歩むことになったのが奇跡だった。運命に抗い続けた果てのこの不可思議な現象は永遠では無かったようだ。この世界に引きとめていた力はもう、残されていない。
それはバルナバスも同じでクライヴによって堰き止められていた崩壊と魂もまた衝から逃れようとしている。
もう起きることも立ち上がることも出来ないバルナバスが静かにその瞳をクライヴに向ける。投げ出した足先から揺らめく黒い塵が零れていた。
「なあ、バルナバス。あんたが望んだ救いじゃなかったけど……それでも人は救われたと思わないか」
「勝手を抜かすな」
無垢なる存在となった人が創世の果てに新たなる世界で神の信徒として平等に仕える。それが刺す意味をそこはかとなく知るクライヴの問いかけにバルナバスが異を唱えた。
今の世界はベアラーも人も関係ない。諍いがないわけではないが、理不尽に地を這うのではなく手を取り合って明日を見る事が出来る世界だ。
「だが、貴様との時間は悪いものでは無かった……クライヴ・ロズフィールド」
「……そうだと嬉しいよ、バルナバス」
名を呼び、視線を絡める。己の膝にあるバルナバスを抱き起こし、クライヴがその目を細めて笑う。表情はずっと変わらない。むすりとした顔のバルナバスにクライヴが自分の顔を近づける。
目を閉じ、触れた唇の感覚に身を任せる。熱いのか冷たいのか。もう温度は分からない。
それでも確かに混ざり合う互いの存在に胸の奥が満ちていく。
交わらないと思った相手と永遠に一つになる。
青い羽根の帳が下りて最後の交わりを覆い隠す。
最古の幻想の残滓はゆるりと溶け、空想の中に生きる夢となったのだった。