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物覚えが悪いとか単純だとか色々言われて実際その通りだなって思ってはいるし、何年か経ったからって別に頭は良くなってないんだろうけど、俺はアニキの部屋のドアでだけはノックをする前に一呼吸するようになっていた。
「アニキ、起きてるのか? 入っていい?」
ノックを二回して声もかけたけれど、部屋の中から返事はしない。
ドアの隙間から細い光が漏れてたから燭台はついているみたいだった。そういう時は火の消し忘れが怖いから入っていい、と言われていたのでもう一度アニキ、と呼びながらドアノブを回した。アニキの部屋の鍵は大抵かかっていない。
案の定アニキは床に座り込み、ベッドに背を預けて眠っていた。絨毯の上には何枚もの地図やメモが散らばっていて、次の作戦や人員の配置について考えていた途中で眠ってしまったんだろう。
少し開いている窓からの風のせいか、ドアの近くにまで飛んできているメモを拾いながら近づいた。
「あれ……ブネ?」
「俺だよ、アニキ」
目の前まで近付くと流石に起きたみたいで、眠そうに目を擦っている。
「モラクス……? ごめんごめん…ホントよく間違えちゃうな」
「はは。さっきまでおっさんと飯食いに行ってたんだ。たぶん酒臭いのもあるよな」
ここ数年ですっかり背が伸びたから、今ではいつでもアニキのつむじが見える。出会った頃は見上げるばかりだったのに、アニキは全然背が伸びなくてそのうちすっかり逆転してしまった。床に散らばる書類を拾うために伸びる腕も、ソロモンのほうがよっぽど細い。
最近、モラクスは身長も体格もじきにブネくらいになるだろうとよく周りに言われるようになった。それを聞いたブネはまだまだだろと口では言うがなんだか嬉しそうにしている。それでなのか何なのか、今日は珍しく二人で飯でも食うかと誘われた。
入った酒場は軍団員もよく使う王都の店で、店主の女将さんは行くたびに俺とおっさんを親子扱いしてくる。そんなに似てないと思うのに。
そこで、俺はおっさんの話を二つ聞いた。一つは、自分には残してきたヴィータの息子がいるということ。
もう一つは、ソロモンをいつかは普通のヴィータの暮らしに戻してやりたいと思っていたこと。
思っていた、と言ったので今はどうなのかと尋ねるとどうだかなとはぐらかされた。おっさんは前よりは酒を飲まなくなって、怒鳴ると相変わらずうるさいけど寡黙な時間も増えた気がする。今日はアニキのことを考えていたんだろうなとは思った。
だからふと、自分もアニキの顔が見たくなって部屋に寄ってしまった。
「っていうかまたこんなに地図持ち込んでさぁ、またバルバトスあたりに怒られないか?」
アニキはワーホリ?とかいう癖があるらしく、最近は夜に部屋へ仕事を持ち帰るところを見つけられるとちょくちょく周りのメギドに怒られていた。
自分は相変わらず難しい話をしていると最後には眠くなるので、眠る間を惜しんで難しい話を考えるというアニキの行動は真似は出来ないし尊敬してしまうけど。
ただ、夜はしっかり寝なさいと子供みたいに言い聞かせられているのを見て「夜更かしも好きなんだ」と言っていたメギドラル遠征の夜を思い出したりした。
「はは……怒られるかも。悪いけど、みんなには黙っててくれよ」
揺らめく燭台の火の向こうにあの頃と変わらない笑顔を見た気がして、俺も頬が緩む。「ソロモン王は顔立ちこそ少し大人びたけどあまり変わらない」とよく人に言われていた。
でもさっきのブネの話を聞いた時、アニキにはずっとこのままでいて欲しいと思ってしまう自分に、俺は自分の胸がどくどくと嫌な音を立てたのを自覚した。
ブネがソロモンをいずれ元の暮らしに戻したいと思っていたこと。それを語る横顔がヴィータの父親というものに似ていること。
そこにはソロモンにとって今より穏やかな暮らしをさせてやりたいという気持ちがあることは俺にも分かった。
世界が本当に平和になったらソロモン王も自由な一人のヴィータになる。追放メギドだって純正メギドだって、自分の望む世界に近づくためにも今は戦っている。
でも、普通のヴィータの暮らし、というのに俺はあまりピンときてなかった。俺が育った村は逆恨みで井戸に毒を入れられ住む人が居なくなり滅びてしまったし、アニキの居たグロル村も幻獣に襲われアニキ以外のヴィータは死んでしまった。今はあの時とは別の人々が住んでいるけれど、アニキにとってのグロル村はもうそこではないことは自分にも察せた。
戻すったって、戻る場所なんて無いんだ。
メギドと違ってヴィータは戦争を日常的にはしないけど、あんな簡単に滅びてしまう場所に行ってほしいかと言われればそんな事は出来ない、させないと思う。
けどこれは、ブネが濁したようにアニキの本当の望みとは違うかもしれない。
「モラクスも一緒に寝るか?」
尋ねられて俺ははっと我に返った。
いつの間にか書類はアニキの手によって全て纏められていた。黒く塗られた爪先が鈍い光を返す。
「でも俺、今日まだ風呂入ってねぇや」
「はは、俺も……朝一緒に水浴びするか」
自分がここを訪ねるときは大抵一緒に寝たい時だ。少なくとも数年前の最初はそうだった。今はどんなに不安なことがあっても一人で眠れるし、そのくせ寝相は悪いままだからアニキがちゃんと眠れてないかもしれない。
でもアニキは俺がそんな事を考えているうちに、棚からもう一枚の毛布を持ってきた。そして俺が柄にもなく考え事をしていることに気付いたのか、羽織っていた織物を椅子にかけると先にベッドに上がっていった。
「ほら。あ、燭台の火を消してくれるか?」
「ああ、うん」
火を消しに行き、ついでに窓を隙間なく締めると、すっかり暗くなった部屋で月の光だけを頼りに俺はフラフラとベッドに入り込んでしまった。
前のようにアニキの毛布に入り込むこともできたけど、黙って持ってきてもらった毛布をかぶった。横になると当然のようにアニキの視線は俺のほうを見ていて、暗い中でもこれだけ近いと表情まで見える。穏やかな視線がこちらに向けられていて、どきりとした。
「その、さっきのっていつの予定の作戦?」
「うーん、五日後くらいかな……辺境寄りに古い砦があるんだけど、そこの近くに幻獣らしき目撃証言があるって王都から知らせがあって……」
慌てて話題を振って、考えながら喋っているため目が伏せがちになっているアニキの横顔を俺はまたじっと眺めた。
本当は今も体温を感じながらべったりくっついて眠るのが大好きなのに、背が伸びて、身体が大きくなって前みたいに同じひとつの毛布には入れなくなった。
二人とも入れるくらいもっと大きな毛布があればいいのかな。でもそれは、普通のヴィータのアニキにとっては大きすぎて重すぎて、やっぱり駄目かもしれない。
「モラクス……? 何かあったなら俺になんでも言ってくれていいんだぞ」
「へ? ああ、うん。いやなんでもないって。酔ったおっさんに説教されすぎて疲れてボーっとしちゃってんのかも」
「ブネに? ふふ……まぁ少し話が長くなってきたよな。フォカロルほどじゃないけどさ」
「流石におっさんもフォカロルと比べられたら嫌な顔しそ〜」
「するだろうなぁ。まぁ、色々言っても結局俺たちのためだから……」
ブネがアニキを少しだけ我が子のような顔で見ているように、アニキは俺のことを仲間で友達で弟みたいに思っているんだろう。でも俺はいつからかそう感じるたびに、どうしようもなく息苦しいと思うことが増えてきた。自分がアニキの思うそのどれかなだけで嬉しいはずなのに、本当はその全部でも俺は満足できそうにないから。
(アニキ、今は本当に笑えてるのか? 俺と一緒にいる時は……でなきゃ、俺が嫌なんだ)
俺は時々、出会った頃みたいに馬鹿で正直なフリをしてでもそう聞いてしまいたくなるのを必死に堪えていた。今も作った笑顔を貼り付けて奥歯を噛む。
もしもアニキがソロモン王じゃなくなって、どこに行きたいかも全部話してくれたとしても、内容によっては俺はそれを素直に受け入れられない気がする。
そしたら、俺はアニキにとって酷い奴になっちゃうんじゃないか?
アニキの本心を知りたいけれど、どうしても知りたくない。だって俺はどうせ、アニキにどう言われようが離れたくないって思うに決まってる。
俺にホントに優しくて大事な人に、俺はホントに優しくなれないんだ。
「ごめん、結構喋っちゃったな。もう眠いだろ」
「大丈夫だよ。…あでも、できたら寝る前のあれやってほしい」
「うん? ああ……なんだか、久しぶりだな」
アニキは流石に少し照れくさいそうにはにかんでから、けれどすぐに身を寄せてそっと俺の額に唇で触れた。子供にする、おやすみのキス。
こんなことを始めたきっかけは、眠そうにぐずる子供を宥める親たちとキャラバンの荷馬車で一緒になったことだった。
まっとうな親子の生活を知らなかった俺は、ヴィータがそうする意味をその時隣にいたアニキに率直に尋ねた。
そしてアニキは自分もああいうのは誰かにしてもらったことはないかも、と言いながらもこっそり毛布に隠れて俺にしてくれた。
今は前みたいにねだるたびに、ぐっと胸の奥がつまってしまうくらい苦しくなる。
「おやすみ、モラクス」
「……おやすみ、アニキ」
意味なんて最初はどうでもよかった気がする。今も、アニキが触れてくれること以上の意味なんて、あって、いいのかな。
分からないけれど、これが俺にとって、どんなに特別なことだったか。それを今になって思い知ってるんだ。