鬼が袖引く(四):司レオ「月永くん、流石に聞いてもいいかな……? その、このところ耳に付けてる、物凄い歯型のこと」
「うっ」
座卓の向かい側からの問い掛けは、どこか少女めいた弾んだ調子だった。色素の薄い儚げな容貌をした依頼人の男――英智は、相も変わらず人畜無害な優男のように微笑んでいる。
人払いがなされた料亭の一室だった。恐らく警護の者が襖の裏側に控えているはずだが、「依頼主」であるところの英智は、大仰な護衛の物々しさを厭う。
一応のところ、用心棒でもあるはずのレオがその範疇から外れるのは、おそらくは生来のあっけらかんとした気質のおかげだろう。歳が近いこともあってか、こうして「仕事」の相談で会う時、英智は毎度、他愛のない会話をしたがった。
「まさか君とこんな浮いた話ができるなんてね」
こちらを覗き込むような仕草に耐えかねて、頭をぶんぶんと振る。
無造作に散らすような髪に隠れて、誤魔化せているものかと思っていた。
かの鬼に初めて耳を齧られた日のことは、よく覚えている。
同意の上だったことは間違いないけれど、実際にその牙が耳の周縁に触れるまで、欠片も思い至らなかったのだ。あれほどまでに、官能と呼ばれるような感覚を想起させる行為だったなんて。
痛みを感じたのは、果たして一瞬だった。ぬるりと生暖かい舌が無遠慮に蠢いて、微かな吐息が耳をくすぐった。
瞬間、自分の意思とは関係なく身体が跳ね上がった。背筋を駆け抜けた感覚は寒気に似ていて、でもどこか違う。
その感覚から逃れることを許さないようにレオの首と肩には手が添えられて、時折労わるようにゆっくりとさすられた。それすら、ぞわぞわと腹の奥を転がるような刺激に取って代わる。
押しのけることもできたはずなのに、やめろ、とただ一言制止することもできなかった。鬼の唾液には、麻痺毒みたいな効果があったりするのだろうか。
効能が切れたらまた行う必要がある行為だと聞いた時には気が遠くなったし、あの程度であれば耳でなくたって問題ない、とレオは主張した。
実際、危惧したように齧り取られることはなかったのだから、腕でも肩でも別の場所を噛んだらいいだろう、と。
それなのに。
「こちらの方が、良さそうなので」
涼やかな調子で、鬼は無情にも断言した。
そうして今に至るまで、その、理屈にすらなっていないような理屈を、有無を言わさず通されてしまっている。
レオは呪術なるものに詳しくはないし、実際のところ問題なく訪ねてくる辺り、機能としては申し分ないのだろう。
腹の底をくすぐられるような、あの感覚にたびたび耐えなければならないというだけで。
「月永くんにそんな野生的な『いい子』ができたなんて、興味深いなぁ」
そうした諸々を何も知らない英智は、好奇心を隠そうともせずに瞳を輝かせている。
「うるさいっ! そういうんじゃない!」
「ね、ね、どんな子⁇」
このところ伏せりがちと聞いて、多少心配してみればこれだ。
体の弱い英智は、直接顔を合わせることが叶わない体調のことも多い。それでも、最近は寒さも若干落ち着いたからか、こうしてレオと雑談ができるくらいには小康状態を保っているようだ。
「……テンシが思ってるような関係じゃないぞ?」
「いいよ別に。どんな形であれ、君と仲良くなったひとについて聞いてみたいだけだから」
何気ない「ひと」という単語に、どう話したものか考え込んでしまう。
「……おまえとちょっと物腰が似てる。頭良さそうだし、鼻持ちならない感じの自負があるっていうか」
「え? 僕とその子の悪口言ってる⁇」
真顔で突っ込みを入れる様子は、血生臭い仕事の依頼人とはほど遠い印象を受け、年相応に見えなくもない。
「……間諜ではないよね?」
釘を刺すようにして向けられた鋭い視線に、レオはそれが本題か、と内心で納得した。
善良な書生のような顔をしていながら、英智は政敵や邪魔者を始末することに躊躇いを見せない。無論、そのぶん敵対者や間諜が後を絶たないのだった。
そうした危険性を折り込みながら、英智は常々他者と接している。レオに対しても、例外なく。
脆弱な身体に鞭を打っては、汚い手段も辞さず、注意深く世を渡りながらも、そこまでして見据える美しい理想がある。そういう人間だった。
だからこそレオは、彼に協力しているのだ。
「違う。おまえだって、調べさせたんだろ?」
レオの言葉を受けて、英智は目を丸くさせた。
「……知っていたの?」
「今、『あー、あれってそういうことか〜』って思った」
このところ、身辺を探られている、と感じることがままあったが、思わぬ形で疑問が解消されたことになる。続くようなら普通に斬り掛かろうと考えていたので、尾行者からすればまあまあ危ないところだったと言える。
「そう、つけさせてた。君と、君の逢瀬の相手のこと。……確かに、敵対勢力との関係はなさそうだった。それでも、実際何者なのかは分からなかったと聞いているよ」
英智曰く、雇った者からは「対象が跡形もなく消えた」との報告が相次いだらしい。たびたびレオも使わせてもらった、狐道とかいう通路の影響だろうか。
「まあ、身元の保証とかはできないけど、おまえが心配するような立場にはない。仕事を手伝ってもらったこともちょっとあるけど、もちろん、絶対に足はつかない! 何を隠そう人間じゃないみたいで……一応足そのものはあるけどっ、なんてな!」
要領を得ないレオの言葉に、ぱちくり、と英智が目を瞬かせる間、少しの沈黙があった。
「それってもしかしてだけど、魑魅魍魎の類……ってやつ? ……君ってほんとうに変なものに好かれやすいんだね」
「わはは、嫉妬か〜? それとも自虐⁇」
「色気づいてるねぇ……」
あんまり君のそういうとこ見たくなかったなぁ、などと勝手なことを言って英智は嘆息する。
「鬼なんだって。実際、ツノがあって牙が鋭いんだ! あとは……人に打ち捨てられた屋敷に住んでて、庭には昔の住人が山から取ってきた朱い桜が咲くって言ってた。分かる?」
「『朱桜屋敷』か、なるほどね。あそこは元は武家屋敷だったんだ。今は朽ちるにまかせている廃墟のはずだけど、夜半に鬼火を見たとか、明かりが見えるとか、そういう噂が絶えない場所だね」
まさか鬼が棲みついていたなんてね、と英智は感心するように頷く。
「どんな子なんだい……? 君、騙されやすそうだから心配だな」
「良いやつだぞ? 少なくとも、おまえより誠実だと思うし」
「……月永くんって、僕に対してだいぶ厳しいよね」
心外とばかりにまた溜息を吐かれるが、こういった態度こそ、英智がレオを気に入っている理由の一つでもあるのだろう。
「ここ最近はずっとそいつと『恐怖比べ』? みたいなことしてるんだ」
レオが彼に恐怖しないことを不服に思い、たびたび驚かせにやって来るのだ、と簡単に説明する。
「……なんだか昔話で見たようなやり取りだね」
「そうか⁇」
あまりピンと来ない様子のレオに向けて、英智は思案しながら言葉を選ぶ。
「狐や狸の化かし合いみたいな……? それから……そうだね。大工が鬼と約束をして、決して流されない橋を掛けてもらうという内容の民話を聞いたことがあるよ。橋が完成した見返りに、大工は鬼から『目玉を寄越せ』と要求される。でも、最終的には、鬼の名前を言い当てることで大工は難を逃れるんだ」
「へぇ〜」
名前。そうだ、鬼――「スオ〜」も確か名前は大事だと言っていた。簡単に明かす訳にはいかないものだ、と。
「まあ、君って心臓に毛が生えてるみたいなところあるし、きっとその『恐怖比べ』とかいう勝負にも負けはしないんだろうね」
「わははっ、酷い言われようだな! さっきの話で言うなら、鬼の橋は掛からないってこと?」
「そして目玉も取られない。君に目を失ってもらっては困るな」
英智にはレオ自身を賭けの対象としたことは、黙っておいた方がいいだろう。
「具体的には、どんなことをして怖がらせてくるの?」
聞く体勢に入ったことを体現するように、英智は優雅に頬杖をつく。
「うーん……最初の方は、夜道で後ろから声かけてきたり、血塗れで家まで来たり、首だけ見える状態で追いかけてきたりしたんだけど……」
「わぁ、鬼ってそういうことができるんだね」
どこか感心した風情で英智は相槌を打つ。
「なんか……びっくりはするけど、そいつだって分かっちゃうともう『こわい』って感じじゃなくなっちゃうんだよな」
首で追いかけてきたときはなんか神妙な顔してて逆に笑っちゃったし、とレオは当時のことを回想する。
「歌が好き! って言ったら、不気味な旋律の曲を弾いてくれたこともあった! 尺八ってやつで。確かにひゅ〜どろどろ〜って感じだったけど、ちょっと覚束なくて、練習してくれたのかなって思ったらなんか微笑ましくてさ〜。あと、合わせて即興で歌ったら『なんでそんな間抜けな歌詞になるのですか!』って怒られた」
「どんな歌詞?」
「笛が鳴ったら鬼が来るぞ、一緒に人斬りが来たぞ! みたいな……」
吹き方を教えてほしい、と何気なくねだってからは、たびたび演奏の仕方を教えてもらう日を設けてもらっている。
「それから、怪談も時々やってるな。とっておきの怖い話を聞かせてくれるんだけど、オチが面白かったりすると作り話っぽくて、面白いな〜で終わりがち!」
「ふぅん。鬼が話す怪談って興味深いな」
英智の言葉を受けて、レオは記憶を遡る。
「えーと、たしか、七人で行動する幽霊を見ると死んじゃって、その七人の一員になる。人が加わると一人が成仏できて、順番に入れ替わって自分の番が来るまで流離い歩くことになる、とか」
「それは『七人ミサキ』という伝承かな? 書物にも残っていたはず」
「そうなの? あとは〜、なんか、凶兆が出た婚姻で、裏切って駆け落ちした男の元に何十日も訪れて、最後にやっと呪い殺せた女の人の幽霊の話とか」
「ああ、それは多分『雨月物語』だね。鬼も読本とか読むんだなぁ」
英智の話を聞く限り、いずれも元となる話があったようだ。もう少し実体験めいたものの方が恐怖を誘える気がするけれど、鬼の側からすると、その辺の怖さの匙加減は分かりにくいのかもしれない。
「でも、この真冬に怪談かぁ。違う意味でぞくぞくするんじゃない?」
「ああ! そこはまあ、ちょっと連む場所を決めてさ。山の中腹ら辺に、良い感じの廃寺があるんだ。結構ちゃんとしてて、隙間風もない」
「へぇ。でも、そういうところって、『先客』がいることがあるよね?」
「うん! 山賊っぽいゴロツキが住み着いてたから、おれとそいつとで協力して、『どいて』もらった!」
含む言葉を理解して、英智は曖昧に微笑む。あまりレオに目立つ行動を取ってほしくはないが、鬼と一緒に廃寺の野盗退治とあればそう問題はないと結論づけた、そんな塩梅だろうか。
「だから、怪談するときとかは大抵そこでやってる。まあ、それでも夜は冷えるんだけど、『百物語じゃないんですよ』とか言いながら、回を追うごとに火鉢を増やしてて面白いんだよな」
「思ったよりぬくぬくやってるなぁ」
半ば呆れたように英智は呟く。彼に指摘されるまでもなく、レオに対する鬼の振る舞いは、日に日に世話を焼くような在り方に変化してきていることに気付いている。
「で、最近は、毎夜墓場に出没するって噂の幽霊を見に行ったり、丑三つ時に大路を行進する百鬼夜行を見物させてもらったりとか……」
「なんだか本当に、聞く限りでは普通に楽しそうだね……」
妖怪社会見学……? と呟くような突っ込みが聞こえた。
「聞いてるとだいぶ真面目な子だね? 鬼ってみんなそうなの?」
「他の鬼には会ったことないから知らん!」
断言するレオに、英智は首を傾げる。
「百鬼夜行を見たんじゃないのかい?」
「……ああ! あれはなんか、鬼ほど独立してない……単体ではそれほどこわいって感じじゃないやつらが、本能的に徒党を組んでやってる、みたいなこと言ってたな」
「本当に興味深いな。そういう存在が暮らす場所っていうのが、所謂、死後の世界っていうものなのかな……?」
そんな疑問は、半ば独り言じみた調子で英智の口からこぼれ落ちた。常々、死に近い場所にある彼が何を思っているのか、レオには推し量ることしかできない。
「……いや、妖は霊魂とも神仏とも違うって言ってた。だから鬼だって死ぬし、自分達が死んだ後のことは知らないって。もしかしたら、妖怪の幽霊とかもいるのかもな」
こちらを窺い見るような視線を解いて、英智は肩から力を抜いたようだった。
「なぁんだ。じゃあ別に、死んだ後で妖怪になれる訳じゃないんだね」
「ああ、でも、確か……鬼とか天狗には、元は人間って奴もいるらしいぞ」
ふうん、と英智の片眉が上がる。
「天狗はたしか、天狗道に堕ちるとどうとか」
「ああ、六道、とかいうやつだっけ。たしか、地獄みたいなものだよね。鬼になる条件は?」
「鬼は……」
一瞬だけ、口籠る。
そうして、最初に出会った時に鬼が口にした言葉が脳裏をよぎった。
「鬼は……人の道を外れること」
どこか上の空で呟いたレオに、英智は何も言わなかった。階下から微かに響く、他の客の笑い声が沈黙を埋める。
「……あとはまあ、単純に生命の危機に陥れば恐ろしく感じるようになるんじゃないかって話になって、真剣勝負した時もあったな。腕くらいなら切れても最悪くっつくから本気で来いとか言われて」
「うわ、それどうなったの……?」
英智は思わず、といった体で身を乗り出す。
「いや〜やっぱり普通に強くてさ。これはおれの方もどっかの部位覚悟した方がいいかな〜って突撃しようとしたら、あいつ怒っちゃって」
「普段からこんな風に自らを顧みない滅茶苦茶な闘い方をしているのですか⁈」と、鬼は勝負を放り投げて激怒したのだった。
「わははっ、ほんと、変な鬼」
呼応するように笑みを溢した英智は、瞬間、不意に咳き込んだ。
反射的にレオは片膝を立てるが、前髪の隙間から覗く鋭い視線に身体の動きを止める。
「やめてくれ、大丈夫だよ」
そうして英智は、駆け寄ろうとするレオを強く制した。
「君の話が面白くって、少し話し過ぎてしまっただけ。……さあ、仕事の話に戻ろうか」
対等であることを誇示するように彼は背筋を伸ばす。その様子は健気ですらあるが、以前より痩けた頬や料理に手をつけない様子から、かなり無理をして通常の振る舞いをしていることが感じ取れた。
「……なぁ、テンシ」
自身の胸を押さえて肩を上下させる英智を視界に収めながら、レオは静かに呼びかける。
「おれにこわいものなんて、今更ないような気がしてた。でも、こんな毎日がいつか急に終わっちゃうって思うと……」
背筋がそら寒く、胸が粟立つ。真っ暗な穴を覗き込んでいるように不安で、忌避感から目を背けてしまいたくなる、この感覚は――。
「月永くん……」
あの生真面目な鬼には、さぞかし怖いもの知らずだと認識されていることだろう。しかしそれは、そのようにならざるを得なかったというだけだ。
口減らしで物心つく前に家族と引き離され、たまたま剣術の才を見出されてからは、こんな風に、明日をも知れない生業に身を投じることになってしまったのだから。
「おれはおまえの在り方に口を出したりしない。でも……あんまり無理すんなよ?」
ふぅ、と英智は大きく息を吐いて、レオを正面から見据える。
「……僕が志半ばで事切れたとき、君の身柄を保証できない……悔しいけどね。君のことを厄介払いしようとする派閥もある。その時はどうか、頑張って逃げ延びてね」
「勝手なやつめ」
「うん、ごめん」
英智が失脚すれば、レオも無事では済まない。ある意味では一連托生だった。
どの道、碌な死に方はできないだろう。そうレオは確信している。だからこそきっと、望んでしまうのだ。かの鬼に骨も残さず食べられるような、そんな美しい終わり方を。
♪
「あ、スオ〜」
英智と別れて店から出ると、不意に路端からどろりと湧き上がるような気配を感じた。
そうして、視認するまでもなく、かの鬼が暗がりに現れたことが分かった。
例の呪いは、レオに対しても影響を及ぼしているように感じる。来る、という先触れが、何となく感じ取れるようになっていた。
「あの人があなたの『依頼主』ですか。なかなか業が深そうな御仁ですね」
英智が去っていった辻の向こう側を見据えて、鬼は目を細めた。
「見てたの」
「遠目でですが。あなたを使う人間がどんな人なのかと思って」
剣呑な表情で不揃いな角の先を向ける様子は、どこか拗ねたような調子が感じ取れて面白い。
「今日はどうする? またどっか連れてってくれるの?」
「……用事の後でお疲れでは?」
「ご飯食べただけだし! それに、おまえの話してたら、ちょうど会いたいって思ってたところだから」
鬼火がふわりと揺らめいて、彼の弛んだ口元を照らす。
「では、今日は廃寺で尺八の日にしましょう。楽器を持ってきているので」
「おっ、いいな! 行こう!」
そうして定めた行き先へ向けて、二人で一歩を踏み出した。
晩の冷え込みは、まだ暫くは続くだろう。それでも、吹き抜ける風は新しい季節を予感させる。
春が近づいていた。それが何を意味するのか、分からないまま。
【続】
英智さんの言う昔話は「大工と鬼六」