恋の駆け引きは甘くてずるいソドンのトレーニングルームには、鉄の擦れる音や低く響く呼吸が満ちていた。
床にはいくつものトレーニング器具が並び、湿った空気が二人の肌に心地よく纏わりつく。
「もうちょっと⋯⋯よしっ!」
エグザべはダンベルを持ち上げ、最後の一回を終えると、大きく息を吐いた。
鍛えた腕には薄く汗がにじみ、シャリアが差し出したタオルを受け取ると、額の汗を拭う。
「お疲れ様です、中佐!」
「ふふ、お疲れ様。あなたも、随分力がつきましたね」
シャリアはベンチに腰を下ろしながら、エグザべの成長を目にするように微笑んだ。
エグザべも隣に座り、水滴のついたボトルを手に取ると、一気に喉を鳴らして飲み干す。
「くぅーっ!運動した後の水分補給って、最高ですね!」
「ええ。適切な水分補給は、トレーニングの成果をより良いものにしますからね」
「やっぱり中佐は知識が豊富ですね。僕ももっと勉強しなくちゃ」
「そうですね。努力する姿勢はとても素晴らしいですよ」
シャリアは微笑みながらエグザべのボトルを指差した。
「ですが、飲むのが早すぎます。少しずつ飲まないと、かえって負担になりますよ」
「あっ、そうなんですね。気をつけます!」
そう言いながら、エグザべは改めてゆっくりとボトルを傾けた。
シャリアはそんな彼の様子をじっと見つめる。
「⋯⋯ん? どうかしましたか?」
「いいえ。ただ、本当に鍛えましたね」
シャリアは穏やかな口調で言いながら、エグザべの腕にそっと触れた。
鍛え上げられた筋肉の上を滑る指先。
「ふむ、確かに前より筋肉が付きましたね」
「でしょう!? 頑張りました!」
「ふふ、よく頑張りましたね」
シャリアが優しく頭を撫でると、エグザべはくすぐったそうに肩をすくめた。
けれど、その表情には誇らしげな笑みが浮かんでいる。
──そのはずだった。
だが、次の瞬間。
シャリアの手が、腕から手首へと移り、血管をなぞるようにそっと撫でる。
指先が静かに肌を辿るたび、エグザべの心臓が妙に高鳴った。
「中佐⋯それ以上は⋯⋯あの⋯⋯」
掠れるような声が漏れると、シャリアはハッとしたように手を引いた。
「あっ、ああ、触りすぎですよね、すみません」
「いえ⋯⋯良いんですが⋯⋯僕のほうがおかしくなってしまいそうです」
ぽつりと漏れた言葉に、エグザべはしまったという顔をする。
──しまった、なんてことを言ったんだ。
頭にじわじわと熱が昇ってくるのが分かる。
心臓がさっきまでのトレーニング以上に強く脈打って、息苦しいほどだ。
こんなの、鍛えた筋肉とは関係のない鼓動だと分かっているのに。
シャリアはそんな彼を見つめ、微笑んだまま再び指を伸ばす。
「おかしくなるって、どんなふうに?」
低く囁くような声。
ゆっくりと這う指が、もう一度エグザべの血管の上を滑る。
息が詰まるほどにゆっくりと、優しく、けれど確実に意識を絡め取るような触れ方で。
「⋯⋯っ、ずるいですよ、中佐」
「ずるい?」
「そんな風に⋯⋯そんな風に言われたら、余計に⋯⋯っ」
言葉の続きを飲み込んで、エグザべはぎゅっとシャリアの手を握りしめた。
熱が伝わるほどに強く。
余裕がないのは自分の方だと、痛いほど分かる。
心の奥底で、抗おうとする意識が必死に足掻いていた。
いつも穏やかで、余裕のあるシャリアに、こうも簡単に翻弄されてしまう自分が悔しい。
──なんで、こんなに余裕がないんだ?
これじゃまるで、子供みたいじゃないか。
けれど、抗えない。
彼の指先が触れただけで、息が詰まりそうになる。
この手を握りしめているはずなのに、完全に主導権を握られているのは自分の方だ。
それが悔しくて、胸の奥が甘く軋む。
シャリアは静かに微笑むと、今度はエグザべの頬を優しく包んだ。
指先がそっと唇の端をかすめたとき、エグザべは目を伏せてシャリアの手にすり寄るように顔を傾けた。
「⋯⋯僕だって、子供じゃないです」
「ええ、知っていますよ」
そう言いながらも、シャリアの目にはどこか余裕がある。
その余裕を崩したくて、エグザべはぎゅっと手を引き、シャリアの指先にそっと唇を落とした。
「⋯⋯これでも、まだ子供みたいに見えますか?」
一瞬の静寂。
それを破ったのは、シャリアの息を呑む音だった。
──勝った、と思った。
けれど、シャリアはゆっくりと口角を上げると、静かに囁いた。
「⋯⋯あなたは、やっぱり可愛いですね」
言葉と同時に、シャリアの指がわずかに震える。
その微細な揺らぎを、エグザべは見逃さなかった。
確かに、ほんの少しは動揺したはずだ。
だけど──。
「翻弄されているのは、私ではなく⋯⋯あなたの方かもしれませんね」
そう囁かれた瞬間、エグザべはまるで足元を掬われたような感覚に陥った。
──ああ、やっぱり、この人には敵わない。
思考が絡め取られる。
抗えないと分かっているのに、それでも彼に夢中になってしまう。
この余裕を、いつか絶対に崩してみせる。
けれど、その戦いの決着は、まだ先の話になりそうだった。
-END-