おかえり 一人暮らしを始めた時、一番初めに思ったことは「気楽だな」ということだった。
扉をあけても『いってきます』も『ただいま』も言わなくていいことに安堵した。
俺が出ていく場所はいつもがらんどうで(とは言え無数の本には溢れていたけれど)、生気の薄い空洞だった。
一人分の皿に茶碗にマグカップ。生活用品は最低限で、余計なものは置かないように。
そんな風に暮らしていたのに。
「なんだよ。お前んち、なんにもないのな」
初めて俺の部屋に踏み込んできた生き物は、遠慮の欠片もなくそんなことをのたまった。
「何だよ、皿も箸も一つしかないじゃん」
「……皿は一枚だし、箸は一膳だよ」
思わずぽつんと口から零せば「誰が数え方の話をしてるんだよ……」と呆れられた。
「あー、まあいいか。俺ちょっと下のコンビニで買ってくるわ」
「え」
「えってなんだよ。つまみを食うのに必要だろ?」
男は言って、溜息をついた。彼の手には白いビニール袋が下げられていて、そこには数本の缶ビールと缶酎ハイ、そしてつまみや総菜のパックが雑多に入っていた。
「こんなことなら、さっきの店で箸、断らなきゃよかった」
ブツブツと言って、男は狭い玄関で靴の爪先をトントンと鳴らした。
「じゃあ、行ってくるわ」
「あ、うん」
俺が頷くと男はそのまま家を出ていった。その背中が扉の向こうに消えていき、やがて扉がパタンと閉まる。俺はその様をぼうっと見ながら、ただぼんやりと押し付けられたビニール袋を片手に持って、あいつまた、うちに来るつもりなんだろうか――と、そんなことを考えていた。
それから、気づけば部屋の中にはこまごまとしたものが増えていった。
男が買ってきた割り箸はいつしかちゃんとした来客用の箸になり、コップやマグカップ、歯ブラシなんかも増えていった。
お前の部屋、なんか生気がないんだよな、と彼が買ってきた鉢植えの植物は、結局断り切れないままに窓際に鎮座させられている。
「ま、お前がいない間は俺が面倒見といてやるからさ」
笑う男に、俺がいないときにも上がり込むつもりか、とか、だったらお前の家に持って帰れよとか、そんな風にも思ったが、気づけば俺は彼に合鍵を渡していた。
「じゃ、いってらっしゃい」
今度は怪我してくるんじゃねえぞ、と男が手を振る。俺はそれにただ頷いて、よくわからない気持ちを抱えながらリュックの紐を抱えなおした。
――いってらっしゃい。
――いってきます。
――おかえり。
――ただいま。
普通の人が交わすであろう挨拶は、結局一度も交わさなかった。
男は何度も俺に「いってらっしゃい」「おかえり」と声をかけてくれたけれども。俺は一度も彼に返事をしなかった。――いや、頷くくらいはしたけれど。それでも言葉を返したことは一度もなかった。
――それなのに。
「よお」
東北からの帰り、重い身体を引き摺りながら御茶ノ水駅の改札を抜けると、そこには男が立っていた。
「……芹澤」
思わず名前を呟くと、男は小さく肩をすくめて手をあげた。夕焼けに照らされた明るい色の髪がさらりと揺れる。人波に押されるままに近づくと、男の目元が僅かにゆるんだ。
どうして、と言葉が零れ落ちるよりもはやくスマホの画面を向けられる。
「鈴芽ちゃんたち、無事に宮崎に帰ったってさ」
促されるままに目を通すと、そこにはいくつかのメッセージと、可愛らしいスタンプのやりとりが並んでいた。
「『草太さんにもよろしく』、だってさ」
「ああ……、うん。……ありがとう」
「それ、いつかちゃんと、直接言ってやれよ」
言うと男――芹澤は薄く笑って、それから足を動かしはじめた。俺のアパートがある方向。何度も何度も通い慣れたその道を、芹澤もまた、慣れた足取りで進んでいく。俺はその背を慌てて追った。
夕暮れの坂道に長い影が落ちている。俺はそれを見るともなしに眺めながら芹澤の後ろを付いていった。
――どうして、と。
その背を見ながら、もう一度心の内で独り言ちる。どうしてお前は、何も聞いてこないんだ? どうしてお前は――俺のことを待っていた?
拳を小さく握りしめる。視線の先には何の変哲もない、コンクリートの坂道がだらだらと続いていた。
俺は今日、東京に帰ってくることを誰にも知らせていなかった。
(それなのに……)
こいつは当たり前の顔をして、改札前に立っていた。
いつものように。
何気ない日常の延長線、まるで以前から待ち合わせの約束をしていたような、そんな態度で待っていた。
そうして今は、何も言わずに俺の前を歩いている。
(鈴芽さんに聞いたのか?)
今回の旅、家業のこと。
けれどもそこまで考えて、俺はすぐに首を振った。彼女はそんな、勝手に人の秘密を話してしまうような不誠実な人じゃない。とても優しく、気遣いができる素敵な人だ。
(そうしてそれは――)
目の前の男も一緒だった――と。思って俺は息を吐き出した。
見た目に反して真面目な男。
優しく、お節介で、そのくせ人の大切なところにはけっして無理に踏み込むことはしなかった。
だからきっと、いまも芹澤は何も知らないままなのだろう。
そうしてそれを『よし』と飲み込んで、『俺』を迎えてくれたのだろう。
ありがたい、と心の中で強く思う。ありがとう、ありがとう、と感謝の言葉が溢れかえった。けれども口からは何の音も出てこなくて、俺はひたすら芹澤の背中を追っている。
そうしているうちに見慣れた建物が見えてきた。
「酒、買っていっていい?」
芹澤が言うので、無言で頷く。夕食ももう、ここでいいよな、と言われてそれにも首を縦に振った。
「なんでもいい?」
「うん」
「よし」
ちらりと笑う芹澤に何故だか胸がきゅうっと詰まる。あれこれとカゴに詰め込んでいく彼の手元を覗きこむと、その半分以上が俺の好きなものだった。
会計を済ませて、階段を上がっていく。その俺の後ろを芹澤がついてきた。トントントン、と。軽やかな音がして、そうして扉の前に立つ。――けれど。
「――草太?」
そこから動かなくなった俺に気付いて、芹澤が顔を覗き込んできた。
「どうした?」
気遣うような声音が優しく鼓膜を揺らす。
「大丈夫か?」
薄いレンズの向こう側にある、少し色素の薄い瞳が窺うように俺のことを見つめてきた。そこに滲んだ感情が、じわりと胸に染み込んでくる。
「……芹澤」
呼べば彼は首を傾げた。――何? どうした?
「もしかして家の鍵がみつからないのか?」
問われて、俺は苦笑する。俺にとって鍵は絶対的に大切なものだ。なくすなんてことありえない。――けれども、それでも。
「うん……、今、ちょっと見つからないみたいだ」
俺はポケットの中で握り締めていたものを手放して、芹澤に向き合う。
「悪いけど、お前ので開けてくれないか?」
「ん、いいけど」
言って、芹澤はポケットから俺の部屋の合鍵をすんなりと取り出した。
目の前でカチャリと扉が開かれる。
途端、懐かしい香りが鼻腔をくすぐった。椅子の時には――いや、これまでの生活の中ではすっかり擦れて気付けなくなっていた、古い書物の香りや日に焼けた畳と洗剤の香り。そうしてそこに僅かに芹澤が愛飲している煙草のにおいも混じっていて、俺は知らず口元をゆるめた。
扉をくぐって、靴を脱ぐ。
その時、芹澤がふと思い出したように口を開いた。そうだ、言い忘れてた。
「――おかえり、草太」
存外柔らかな声が鼓膜を揺らす。振り返れば芹澤が淡く笑っていた。
俺は大きく息を飲む。そうしてそれから震える胸の動きをそのまま音にのせ返事をした。――うん。
「ただいま。――芹澤」
踏み出した一歩に、芹澤が笑う。そこに滲んだ『喜び』や『安堵』の感情にやっぱり小さく胸が軋んだ。
「次からはちゃんと連絡するよ」
思わず抱きしめた身体からは生きているものの香りがする。
「直接は無理かもしれないけど」
家を出るとき、家に帰るとき。これからはちゃんと連絡するから。
「だからこれからも――」
ずっと『いってらっしゃい』と『おかえり』を俺に言ってくれないか。
そう告げれば芹澤はまた笑った。喉の奥で低く笑う、懐かしい彼の笑い方だ。そうして次に、背中が優しく叩かれる。
「それはいいけど」
――三年もかかってようやくそれかよ。
優しくおどけた芹澤の声に俺は頷き、そうして万感の思いを込めて「ありがとう」と呟いた。