どろりとまとわりつくような暑さが苦々しくて目が覚める。扇風機での送風なんてまったく気休めにもなりはしない。ベタつく肌に二度寝する気にもなれなくてネロは体を起こした。
立てた片膝に頬を預けて、覚醒と微睡を行ったり来たりしながら、ふと、昼日中の光景が頭をよぎった。
ちいさな口にそっと迎えられる氷のかけら。どこか目の眩むような既視感。
だけど――いいな、と思った。あんなふうに、食べられたい。そうやって、あんな綺麗なだけのかけらよりよっぽど自分の方が、あの人の血肉になれるのになぁ、なんて。
そんな馬鹿な夢を見た。
「おいこら、ネロ。勉強しにきたんだろう」
「いや〜机、気持ちよくて」
冷房で冷やされた図書室の机は、炎天下で火照った頬に気持ちよくて、まだ朝には早い時間から目が覚めたのもあって、うっかりそのまま微睡んでしまったようだった。
今来たばかりらしいファウストも、少し汗ばんでいていつもはきちりと留めてある襟元のボタンもひとつ開けられている。普段より前髪も横に流されている気がするし、何より髪が耳にかけられて普段よりも表情がしっかり見えるのはなんだかいいな、と思った。
それを横目に見ながら、ぐずるように机から体を起こさないネロにちいさくため息をついたファウストの、起きなさい、と頬にぺちりと当てられた指先だけが冷たくてしっとりとしている。
「……せんせい、また氷食べてたの」
「……暑かったからね」
「癖になっちまうよ。体にも悪いんだからだめ」
ペリ、と机から頬を引き剥がしてよいしょ、と立ち上がると、こっち、とファウストの手を引いた。
行き先は一階の隅の方にある調理室、図書室に行くようになるまでのネロの逃亡先だ。
ポケットから取り出した鍵を差し込んで扉を開けば図書室に負けず劣らずの冷気に部屋は冷やされていた。部屋が狭い分こちらの方が涼しくなるのも早い。
「きみその鍵、」
「あっ、これ別にちょろまかしてきたわけじゃねぇよ?購買のパンつくるのもここでやってっから予備貰ってるだけだって」
嘘ではないのになぜこうも言い訳がましく聞こえてしまうのだろう。
少しばかりじとりとした目をしたファウストもネロをからかっただけなのか、「疑ってないよ」とちいさく笑った。
それがどことなくくすぐったくて、誤魔化すように調理室の大きな冷蔵庫を開けた。半端な時間に起きてしまって、それからやっぱりどうにも暑いからと言って氷ばかり口にするファウストに何かを食べさせたくて、家で少し仕込んできたものを冷やしていたのだ。
「綺麗だな」
「皿は学校のな。普通もっと洒落っ気のないものが置いてあるもんだと思うんだけど」
冷製のスープをファウストの前に置く。コンソメベースに、ちいさく刻んだ野菜をたっぷりいれたもの。苦手なものでなければいいのだけれど。
流石に食器までは家から持ってくるのもどうかと思ったから学校のものを拝借したが、どうにもいちいち洒落ていて触るのが少し恐れ多い。こういうものが置いてあるのが、つくづく不良校とは違うなと思い知る。
「食べても?」
「もちろん。どーぞ、召し上がれ」
いただきます、と手を合わせてからガラス皿に銀のスプーンがゆっくり差し込まれて、そっと持ち上げられる。ちいさな口に迎え入れられて、それから味わっているのがわかるような、細められた目。
そういうゆったりとした、ちいさなファウストの変化を見るのがネロは好きだ。そうしてもらえるほどの価値が自分にあるように感じられて。
「おいしい。野菜がいっぱい入ってるのもいいな」
「だろ?まぁいくら野菜入ってるからとはいえ冷たいもんばっかってのもよくはねぇんだけど。まずはこういうのからな」
「これならいくらでも食べられそう。パスタとかの麺にも合いそうだな」
「お、食欲湧いてきた?素麺ならあるけど?」
「……っ、ふふ、まさか学校で素麺食べることになるなんて」
わざわざそれも持ってきたの?と、何がツボに入ったのか笑い続けるファウストに、でも食べたい、と言われてしまえばもちろんいそいそと茹でるに決まっている。
ネロの分も合わせてさっと茹でて、冷水で締めて、いつの間にか先程出したガラス皿の分はぺろりと食べていてくれたから、そちらを軽くゆすいで素麺を盛り付けた。スープの方は今度は小ぶりの深めの器に麺つゆ代わりに注ぐ。
「あ、でも先生デザートもあるからあんまり腹一杯にはしないで」
「デザート?」
「うん、大家のばあちゃんにもらったやつ」
「へぇ、楽しみだ」
「結構食ったなぁ、先生」
「きみのごはんを腹八分目、はもったいなくてつい食べ過ぎてしまう」
「嬉しいこと言ってくれんねぇ」
そんなに大した数もないのに洗うのを手伝う、と言ってくれたファウストを休んでな、と椅子に押しとどめて使った鍋や皿を手早く洗う。一番初めにファウストに出した浅めのスープ皿は軽く拭いておく。
「食えっかな?」
冷蔵庫から出した桃をちらつかせると、これもまた食べる、とのいいお返事。つい昨日まで夏バテだと言って味も素っ気もない氷ばかり食べていたとは思えない。
「ちょっと待ってな」
するすると皮をむいて、切り分ける。
じぃと見つめてくる目が照れくさくてひと切れつまんでファウストの口元へ持っていった。
ぱちくりと瞬いた目に行儀が悪い、と叱られるかなと思ったけれど、そのままぱくりと迎えられる。微かに指先に触れた冷たい唇の柔らかさに、少しどきりとしてパッと手を引いて残りも剥いて皿に盛った。
「あまい」
「それはよかった」
果汁の滴る自分の指をぺろりと舐めてみれば確かにあまい。
「……っ、それ、止めなさい」
「ん?」
「指、早く洗わないと痒くなってしまう、から」
「そんなやわな肌してねぇよ?」
「いいから」
「はいはい」
それから、桃もぺろりと平らげて、皿を片付けてから図書室へと向かったけれど。
涼しい室内で、腹一杯の午後なんてそんな昼寝にぴったりの環境に抗えるわけもなく。
次に目にした空の橙色に、ふたり顔を見合わせて笑ってしまったのだった。