宵闇のストレンジャー◇◇◇
戦勝に沸き、華やかな夜が近づく摩天楼の国。
これだけの人がいる国では狭い路地で人とすれ違うことなど、あまりにも普遍的なことであり、誰もそれを疑うことなどしないだろう。
ドン、とすれ違いにドラウスに誰かがぶつかったとしても、それは特段おかしいことなどではない。
しかし、「どこ見て歩いてるんだよ!」と吐き捨てられたノースディンの目の色が変わるのは、早かった。
「待ってくれ、ノース!」
すぐにドラウスの制止の声が飛んだが、ノースディンの耳には入らない。
「なんだ……?!」
走り去ろうとした相手が、突然動かなくなった自分の体に困惑した表情を見せた。
「礼儀を知らない愚か者が。腹の足しにもならん」
空気を震わすような声が路地に響く。
「盗ったものを出せ」
ノースディンは時代の潮流について、ドラウスよりも幾許か理解があった。彼にとって路地裏の闊歩は格好の標的になることであり、不自然すぎる衝突は”ちいさな犯罪”の常習だった。
「何も盗ってない!」
見かけにして10歳くらいの少年がガタガタと震え出したのは、決して恐怖だけが理由ではない。いまや路地裏の気温は、ロンドンの冬に近づくほど下がろうとしている。
「威勢のいい坊やだ」
嫌味をたっぷり含んだ言い方だった。外見上は人の形であっても、彼らは古の吸血鬼。この少年が対峙している存在は、まぎれもなく夜を統べるものだった。「われわれから物を盗むなど、ましてやあろうことか彼の懐から頂戴しようとするなど、愚かにも程がある」。ノースディンの声色は、いっそう冷たいものとなった。
「残念だが、夜はお前に味方はしない」
「ひッ」
「ノース!」
見かねてドラウスが声を上げ、太腿まで凍りついたところで、少年はようやく黒い財布を差し出してきた。上質な皮のそれは、まさしくドラウスの財布であった。
フンと鼻を鳴らし、少年から財布を奪うと、ノースディンはドラウスに財布を差し出す。
「用心しろ、まったく」
しかしドラウスは、このややお人好しの白銀の狼は、素直にその財布を受け取ることができなかった。
「これはわたしの財布じゃないよ、ノース」
ノースディンの顔に驚きの色が広がったのは当然のことだ。
「ドラウスおまえ、何を言って」
「だからノース、彼を離してやってくれ」
「ドラウス!」
財布は間違いなくドラウスのものだった。しかしドラウスは財布の受け取りを拒否し、あろうことか少年を庇おうとしている。語気をやや荒げてノースディンは親友を嗜めたが、ノースディンは彼の親友にめっぽう甘い。
「頼む。お願いだ」
寂しそうにドラウスが笑うのなら、溜飲を下げざるを得なかった。
ノースディンが眉間にしわを刻むと、少年の下半身を縫いとめていた氷は、パンっという音をたて、バラの花びらが落ちるようにほろほろと砕けていった。
「……」
「引き止めてすまなかった。わたしのじゃなかったようだから──これはきみに返そう」
まだ眉間に皺を寄せているノースディンの隣で、ドラウスはつとめて穏やかにそう言ったが、突然自分を襲った、人でない何かの強い力に恐怖した少年がようやく与えられた隙を逃すわけがない。
「あっ」
ドラウスが声をかける前に、少年はフラフラと立ち上がり、そのまま財布を受け取ることもなく走り去っていった。
「行ってしまった……」
行き場のなくした財布をしまいながら、ドラウスは走り去る少年を見送った。
当然、一息おいてノースディンのお説教が始まる。
「あほウス!なぜ逃した」
親友の厳しい声に、ドラウスはぴょんとはねた耳のような癖毛を、しおしおぺたり、と伏せた。
「わかっているよ、ノース」心なしか一本だけ飛び出したアホ毛もしなしなとしているように見えた。「けど、まだ子供なんだよ」
「貧相な子どもが一人、いったい何だというんだ?」
ノースディンはドラウスの言葉を一笑に付した。
「あんなのはスリの常習犯だ。いまさら哀れみを与えたところで、彼らにとって我々は所詮いいカモでしかない。こちらの好意など土足で踏みにじってくる」
「わかっているさ」
しょんぼりとしたまま、ドラウスがつぶやく。
ドラウスは財布を盗られたわけではなかった。それを知っていて、あえて財布を盗らせたのだ。
ドラウスとて世間知らずなわけではない。何百年も生きている分、前から歩いてきた少年の置かれている環境は、容易に想像できた。しかしそれが小さな罪だとしても、置かれた場所は、彼の罪ではない。ドラウスはそう思っていた。
少年のおびえた顔を見てドラウスの脳裏に浮かんだのは、彼のいくぶんか大きくなった息子の顔だった。
「ドラウス。わかっていないんだ、おまえは」
ノースディンは怒っているわけではなかった。ただ心配で仕方がない。
「あの子供ひとりを助けたところで、世界は簡単には変わらない。この先、あのような境遇の子供はどんどん増えていく。わかるか? 東の風はまだ吹いているんだ」
より人と関わることの多いノースディンは、人間の醜さをよく知っていた。だからこそ、ノースディンは人間の何がいったいどんな結果を引き起こすのか、その見当が付けられた。その醜さにドラウスが巻き込まれてしまうこと。それこそノースディンが最も許せないことであり、どんな手を使ってでも忌避すべきことだった。
「でもノース。だからって子供に手を差し伸べてはいけない理由はないんだろう?」
「わたしは、おまえのその優しさがお前自身を殺しやしないか不安なんだ。バカウス」