「タルタロスの瞳」
「ああ、ドラルク。お父様だよ! そっちは大丈夫──え? なんのことだって? 急に吸血鬼ご都合主義展開とやらが現れて、そこらかしこの人たちを若返らせてしまったんだが──その様子だと、お前には影響がなかったようだね。さすが我が息子! おかげでお父様の腰は絶好調だが、シンヨコハマは大混乱だよ。おれの新しいスマホをショップに取りに行ったノースも帰ってこないし──うん? あれ? もしもし? も、もしもし? ドラルク?」
天と地を結んだ距離よりも、なお遠く。冥府よりも深く、なお深く。海神が護る青銅の門を超え、九つの昼と、九つの夜を経てたどり着くそこは、永劫の深淵。逃れえぬ牢獄。
その色はきっと、鳩の血の色によく似ているのだ。
***
~ここからのあらすじ~
突然現れたご都合主義展開という名の吸血鬼の手によって、理由も特になくふたたびアンチエイジングされてしまったシンヨコ。二度も同じ展開にするとかよほどネタに困ったらしい、と思いながらも、取っ手のとれる新品のS-falをおろしてご機嫌のドラルクは、ちょうどそのとき今晩の夕飯にとりかかろうとしていたのだが ──。
ウエーン、パパを置いていかないでー!と涙声の父親からの電話を切り、ご機嫌なドラルクは、マントを羽織るとすぐにアンチエイジングの霧がかかるシンヨコハマへと飛び出した。
こんなに愉快なことがあるだろうか?弾むドラルクの心のその内訳は、四割の悪戯心と、六割の好奇心、それからほんの微かな復讐心。新品の調理器具を惜しげも無く使って、そのまま夕飯を仕上げても良かった。せっかく買ってきた鶏もも肉が──しかしドラルクの「見たい」という気持ちは、父親からの電話により、今や「若造とジョンの胃袋の心配」を遥かに凌駕してしまうほどに膨らんでいたのだ。自分の父親の腰ですら全盛期に戻してしまうというその能力。
── それは当然!あのヒゲもその影響を受けるということなのだ!と。
ニンマリ。ドラルクは、込み上げてくる笑みを抑えることができない!一緒にシンヨコに来ているとは、なんて都合のいい話なのだろう!
あの、中途半端FFロートルホーホケキョひげのあられもない姿?考えてみたまえ。いい機会だ。またとない機会だ。
ドラルクの邪な計画は止まることを知らぬ。見たくないか?諸君 、と出会い頭にダチョウにぶつかりながらドラルクは思った。あのキュートで儚げな美少年ドラドラちゃんをあんなふうに扱った奴の過去を。
見たいよな!諸君!
スナァ。そもそもだが、なぜダチョウにオッサンの脚が生えているのか。ダーウィン憤死。
ロナルドくんには悪いが、きっとこの騒動で駆り出されているだろう。あのヒゲを茶化す時間くらいはきっとあると思った。お父様がどこでスマホの契約をしているのかはわからないが、ショップをいくつかまわれば、その付近のどこかにはいるに違いないと。ブルネットの髪、スケコマシオーラ、歯の浮く台詞。ギィーッ三点揃えばまぎれもなくケツホバリング卿!見ればわかる。なんたって、長い期間、ひどくこのわたしをいじめ倒してき張本人だからであり……。
思い出すと腹が立つので、ついでに動画を撮って保存しておこうと思った。ロナルドくんがもらった謝礼をちょろまかして、外付けHDを購入するのだ。
「うっふふふ!」
祖父譲りだという笑い声が、思わず漏れた。いいぞ、楽しくなってきた!とほくそ笑んだものだ。
ちなみに、吸血鬼ご都合主義展開が現在のタイムラインを運営をしていたので、アンチエイジングしているであろうノースディンは、比較的簡単に見つかるようになっていた。そう、だから。
確かにわたしはやつの姿を、この目で見たのだ。
***
ぱちぱちと油のはじける音が微かにする。いつもと変わらないドラルクキャッスルマークIIのキッチン。そろそろ頃合だとフライパンの蓋を開けようとして思わす手を滑らしそうになる。
このドラドラちゃんが?まさか。
ハア。柄にもないことを考えてため息を着く。この前の騒動が、まだ心のどこかに巣食っているのだ。腹の立つことに。
諸君に結論から申し上げるならば、わたしは無事に、アンチエイジングされたノースディンを拝むことが出来た。
ブルネットの髪、スケコマシオーラ、歯の浮く台詞──は言わなかったが。三つ揃ったあれがクソッタレホーホケキョ師匠だというのは、すぐにわかった。そう直感がささやいたのだ。否応なくわかってしまったのも癪だが。ケータイショップにいたヤツの見た目は十五歳ほどで、かつてのわたしと同じくらいに見えた──まさか、ここまで若返っているとは思わなかったが。直ぐにスマホのカメラを起動し、わたしは抑えられない愉悦感に浸りながら録画モードを待機して近づいた。
── おやまあこれは!随分と可愛らしい姿ですなあ、師匠!
そんなことを言ったかと思う。やつとの会話は毎度面白みのない繰り返しなので、いつものごとく、鬱陶しい嫌味が返ってくるとおもった。だからそれ煽り倒す準備がわたしにはあったのだ。なのに。いつまで経ってもそれが飛んでくる気配がない。
それよりも早くわたしの目に飛び込んできたものは、まるで陶器の人形のような──あまりにも無機質な表情。そして 深くて昏い、濁った鳩の血の色だった。
深淵というものを覗き込んだならば、きっとあのような色をしているのだと思う。神の手も届かぬような、光も射さない地の底のような瞳。それはわたしの言葉を詰まらせるのに十分だった。
それは、初めて見る、ノースディンの表情。あれこれと言ってやろうと考えていたはずなのに、それもどこかへと飛んでいってしまって。
あれがヒゲヒゲ?本当にそうなのか?
誰かによく似た少年は、仄暗い瞳でこちらを見つめたままだ。── いつもの威勢は?鼻持ちならない態度は?
普段なら黙らせたいほどの相手に、何か言えとこんなにもう日が来るなど。われわれの間にはいつも、沈黙というものがほとんどなかった。キザったらしい言葉は?早く無駄に華やかなバラを背負えよ。わたしへの皮肉はどうしたんだ?
なにか言えよ。いや、何か言わなければ。なぜかわたしには焦りがあった。
── やがて、無機質で感情のない笑みがふわりと浮かび、髭の生えない上品そうな口元が、「ごきげんよう」と言葉を紡いだ。そのくせ、完璧な、無駄に美しい発音で──「父に、御用でしょうか」と。
わたしの背筋にゾッと冷たいものが走った。
だって、あのスケコマシのことだから。魅了で愛嬌を振りまき、高慢ちきだが大人からチヤホヤされるような、さぞかしいけ好かない子供だとそう信じていた。そう思って ──。
感情のない、機械のような、空虚な響き。
こんなものは、見たことがない。
過保護な父親、忙しいが優しい母親、はた迷惑だが楽しい祖父。自分の周りにはいつも明るい喜怒哀楽が溢れていた。叔母様も、そして当然このヒゲもそうだった──だから、ノースディンの瞳を支配するその色が一体なんなのか、わたしにはわからなかった。こんなこと、どうでもいいはずなのに。
ドッドッドッと早鐘を打つわたしの心臓。
「さっむい嘘泣きが通じるとでも?」。「ピスピスかわいこぶって逃げるか?」「もうそろそろ厳しいお年頃だなァ」。
思い出すのも苛立たしい煽りが耳の奥に拡がり、かつてのわたしと同じ背丈の、やつの姿に重なった。その姿は15歳のわたしへと変わり ──。
「せ、」
ややあってようやく声を絞り出した時、聞きなれた羽ばたきが耳を掠めた。
「ジョン、ロナルドくんもうすぐ帰るって」
手元のLinneには「帰るわ」というシンプルなメッセージ。ヌー!とジョンが小さな両手をあげて嬉しそうな声をあげた。もうすぐご飯だからね。あ、つまみ食いはダメだぞ!── ジョンはスコーンに伸ばしていた手を素直に引っこめた。
── 耳を掠めた無数の蝙蝠。瞬く間にそれは懐かしい父親の姿になった。
「ノース」
颯爽と現れた父が、今よりも、幾分若い声で少年に囁く。続けてパンっと軽く手を叩く音が聞こえたかと思うと──。
「……ドラウス」
一瞬にして、憎たらしい赤色を取り戻した瞳を見て、わたしは思わずその場から走り去った。
なぜなのかはわからない。父親の手前、恥ずかしかったのかもしれないし、ようやく解放されたという安心からだったのかもしれない。あの二人だけが知っているその記憶に、手を触れてはいけないと思ったからかもしれない。盗み見た父親の表情は、普段自分の親友と話している時よりも、ずっと柔らかかった。何があったのか、聞くつもりはない。どだい、聞いてもこたえてはくれまい。
昏く、底のない鳩の血の色。
その名は、「絶望」だと知った。
中途半端FFおじさんホーホケキョウグイス鳴いてろケツホバリングヒゲヒゲ。
あの少年は、いったいその瞳で、何を見ていたのだろう。
まあ、そんなことはどうだっていいがね!
そんなことで、わたしに対する過去の仕打ちが精算される訳では無いし、とドラルクは思う。あんなヒゲに少しでも記憶容量を割いたことが、自分でも本当に信じられない。あーあ。何も面白くなかったわ、と内心で毒づいてみる。せっかくいいネタを仕入れられると思ったのに、結局いつも通りダチョウにぶつかって死んだだけだった!と。
やめやめ。とっとと忘れよう。げえっと舌を出すと、ヌー?と傍らでジョンが見上げてくる。なんでもないよ、とドラルクは笑った。
さて、そろそろアホルドくんが帰ってくる頃だ。早いところクロテッドクリームを仕上げてしまおう。
「…………」
ドラルクは無言でスマホを操作すると、Bluetoothスピーカーを起動させた。
***
「ジョン〜! ただいま!」
それから少しして、ロナルドが事務所に帰ってきた。ロナルドは靴を脱ぎ、香ばしいスコーンの香りを嗅ぐ。
「なにこれ。スゲーいい匂いする」
「アホ! 食う前に手を洗え五歳児!」
「食えとばかりに置いてるお前が悪いんだよ!」
いつもと変わらない会話の応報。
「っていうか、なんでお前笑点のテーマ流してんの?」
「いいからさっさと行け。じきに夕飯だぞ」
「うるせーな、いま行こうとしたんだよ」
はア〜〜〜〜〜これだからお子ちゃまどもは!
付き合ってられんわ、と呟きながら、ドラルクはキッチンに戻っていった。
[完]ヌン