触れたい背中・城瀬さんと背中(ゆづいと) 仕込みを終えてから片づけを済ませ、残りの発注業務まで終わらせようと事務所へ続くドアを開けた平日の夜。
「弥代……さん」
ラップトップを開いたままの弥代さんの後ろ姿。いつもなら振り返り、お疲れさまですと声をかける彼女の背中が、少し丸くなっていた。
息を潜めて近づいてみる。文書ファイルを開いたままの画面。頬杖をつき、うつらうつらと舟を漕いでいる。
(次の企画、そういえば苦戦してるって言ってたからな)
本来ならば無理にでも起こして、寮まで送り届けるのが筋というものだろう。けれど、逢さんへの提出締め切りは確か明後日。現時点でそれを実行してしまったら最後、明日の弥代さんは問答無用で事務所に立てこもり、徹夜にだってなりかねない。
(今のうちに仮眠を取ってもらって、俺がいるうちに起こそう)
ベストとは言い難いけれど、今の状況での最適解はきっと、それしかない。どのみち麗が来るまでには、まだまだ猶予がある時分だ。
結論を出してすぐに、自席から時折使う薄手のブランケットを取り出す。それから再び弥代さんに近づいて、肩にブランケットを掛けようとした……けれど。
(なんて、無防備なんだろう)
思わず手を止めて。不躾と自覚しながらも、弥代さんの後姿を凝視する。
静かな呼吸音。上下する肩。短いパーマボブからうなじが晒されて、丸まった首元から背中にかけて僅かに背骨が浮き上がる。
こうしてみると、ごく普通の女性ではないか。
当初逢さんが、弥代さんを警戒するそぶりを見せていたことを思い出す。その後認識は改めたようだけれど、それにしたって。
仮に彼女が悪意を持っていたとして、やましさを持つ人間が、こうも容易く背後を取られるような行動を取るものだろうか。懸命に目の前の仕事に打ち込みながらも視野を広げ、ごく自然に先回りした行動を取る弥代さんは、今ではアポリアに欠かせない、大切な仲間の一人だ。
仲間である彼女が密やかに見せる、無防備な背中。背後に立てばきっと、すっぽりと隠れてしまう彼女の姿。
「……駄目ですよ」
口をついた言葉に、やがてひどく狼狽える。
ああ。これこそがきっと、俺の本心なのだ。
心の奥底で弥代さんに語りかける。そんな風に、容易く眠る姿をさらけ出してはいけない。見てしまったら最後、心ごと奪われてしまうから。今の俺のように。
気がついた本心を覆い隠すように、改めてブランケットを掛ける。
ほっそりとしたうなじも、丸まった背中に浮きあがる背骨も。何もかも見えなくなった。