on that day「あら、吏来。いらっしゃい」
「お疲れ」
勝手知ったる何とやら。ジム帰りにAporiaに寄った吏来は、案内されるより先にカウンターの隅の席に腰を下ろす。
「いつもの?」
「うん、お願い」
おしぼりを手渡しながらオーダーを確認したミカが、何かにあてられたように目を細めた。
「機嫌がよさそうね」
「わかる?」
「それはもう。詳しく教えて……と言いたいところだけど、聞くまでもなくお嬢のことなんでしょ」
首を横に振って肩をすくめるミカに、吏来は口の端を上げて答えとする。
(お嬢のこと貰う約束した――とは、流石に言えないよな)
たとえ親友と言えど、衣都を良く知る相手に詳しい話をするつもりはない。ただ、彼女とうまく行っているのが伝わればいいと、曖昧に濁す。ミカもその辺りの機微には聡いので、それ以上は何も聞かずに笑って、吏来の酒を作り始めた。
惚れ体質な自覚も、経験豊富な自覚もある。しかし当然ながら衣都との経験はなく、何もかもが手探りだ。彼女を貰う日が半月後か一ヶ月後かは、お互いの仕事次第。Aporiaとしての依頼が入るかどうか直近にならないとわからないが、今のところ何もないなら半月後の方が良いだろう。
(……なんて、ただの言い訳だけど)
色々と段階をすっ飛ばした提案をしたのは、一日も早く衣都が欲しいからだ。恋人になった実感を抱いたばかりだが、彼女を抱きたい欲求は強くあって、ふれたくて堪らないのを耐えている。「頂戴」と伝えることで、衣都の頭を吏来でいっぱいにしたい――そんな話をしたけれど、実際のところ、吏来の頭も彼女のことでいっぱいになっている。心の準備よりも意識させる意味の方が大きかったあの言葉が、自らを縛るとは想定外だ。
(何処がいいですかね)
日程はお互いの予定を擦り合わせるとして、肝心なその日を何処で迎えるか。近場へ旅行に行くか、都内のホテルにするか、それとも吏来の家にするか。
(寮は、やめておいた方がお互い……いや、みんなのため?)
ふたりの交際は皆が知るところだが、同僚に囲まれた寮で一夜を共にするのは気を遣う。いつだったか春日に「女の子連れて来られなくて大変じゃない?」と聞いたことがあったけれど、ハウスでも寮でも大変さに変わりないと、自分が連れて来られる立場になって気付いた。
(ホテルだと、チェックアウトの時間を気にしなきゃだしなあ……)
レイトチェックアウトで予約するにしても、心ゆくまで朝寝を楽しむとはいかないだろう。
(となると、うち……か……)
自宅に誰かを招くのは嫌いではない。自分のテリトリーだから吏来としては何も不自由がなく、彼女が身構えてしまわないかどうかが問題だ。
(聞いておこう)
LIMEを開いて『近場に旅行と俺の家、どっちがいい?』と、前置きも何もないメッセージを送る。読んだ衣都がどんな顔をするのだろうと考えるだけで、心臓の音が騒がしいし、顔がニヤけてしまう。
彼女は、吏来の興味を惹いて仕方がない。何度「好きになりそう」と言われても吏来を突き放そうとはせず、そういう部分に甘えてきたという自覚はある。ごく僅かでも迷惑しているなら吏来はおとなしく引き下がったし、もし嫌悪を示されたなら、深入り厳禁の命を守ってただの同僚の関係に留めた。
(でも、あんなふうに笑ってくれたの見たら……堪らないよなあ……)
吏来でなければ見落としたであろう、一瞬。普段は無表情か、もしくは感情を抑えて強張ったか表情が多い衣都が、小さく浮かべだ笑み。堪えきれない笑みが零れたような、微笑。ほんの少し口角を上げて、ほんの少し目じりを下げる程度の変化が、目に焼き付いて離れなかった。いい顔で笑うんだな――そう思った。次の瞬間にはいつもの顔に戻っていたから、尚更鮮明に覚えている。
衣都は愛らしく整った顔立ちをしているが、渋谷の人波に混ざれば埋没してしまう。けれど、あの笑顔を見た時から、吏来にとっては誰よりも魅力的な女性だ。
(好きになりそう……どころじゃなかったな)
前からずっと、本当に好きだった。冗談めかして言い続けていた「好きになるかも」は、心の奥底では「かも」ではなかったと自覚した瞬間、感情が溢れそうになって、どんな顔をしたらいいのかもわからなくなった。冗談や駆け引き抜きで好かれるためにどうしたらいいかなんて、長らく考えたこともなかった。今までやってきた言葉遊びのようなものは、衣都には全く通用しない。頭を冷やすためにも、本気に受け取って貰うためにも、誰彼構わず気を持たせる態度を取るのをやめた。
自分がただの同僚ではなくひとりの「男」なのだと意識させて、駆け引きではなく真っ直ぐに向き合って。それでも、本気の恋心を混ぜて告げても告白成功の見込みはなく、落ち込んだ日もある。
押したり引いたり、受け止めたり甘えたり。そうやって距離を詰めて、好きだという感情がどんどん溢れ出て、どうしようもなくなった時に漸く恋心が本物なのだと理解して貰えて。今でも時々、夢ではないのかと思う。現実なのかと、嘘ではないのかと、疑いたくなる。
つらつらと考えていると、衣都からLIMEが届いた。
(『ご迷惑でなければ、吏来さんのおうちがいいです』ね……うん。わかりました)
どんなデートをしようか――プランを練り始めた吏来の前に、グラスが置かれる。
「脂下がった顔しちゃって」
ミカの揶揄いを含んだ声に、吏来は頬を掻く。
「衣都が可愛いから仕方ないんですよ」
「だってお嬢ですもの」
可愛くて当然だとミカが胸を張るが、恋人の自分を差し置いてと心に引っかかるものがある。嫉妬というほど重くなく、独占欲ほど強くもない、ふんわりとした違和感をやり過ごすみたいに、グラスを口に運んだ。ウィスキーを少しだけ口に含んで、舌の上で転がして、味わってからゆっくり飲み込んで。喉を流れ落ちる感触と、飲み込んだ後の余韻を愉しんで目を細める。
(衣都とのこともウィスキーみたいに、ゆっくり、少しずつって思ってたけど……無理だったな)
いや、恋人になったその瞬間にキスしなかったのだから、自分にしてはゆっくりだと思い直す。あの日、受け入れて貰えたキスを思い出すと顔が緩んでしまうから、再びグラスを口に運んで誤魔化した。
「俺はもっと、あの子のいろんな顔が見てみたくてさ。……できれば、笑った顔が見たい」
吏来の話を聞くミカは、愉快そうに目で笑う。
「お嬢を笑わせるのは簡単なようで難しいものね……。楽しいとか嬉しいとか思ってくれてるのは伝わるけど」
「うん。そういうところも全部ひっくるめて好きなんだけど」
無理強いするつもりは毛頭ない。衣都が衣都らしくあることが大前提。その上で、どう気を許して貰うか長期戦だと理解している。
「……こんなに翻弄されるなんて、想定外かも」
「吏来にはいい薬でしょ」
「はい」
「……でも、お嬢はお嬢で吏来に翻弄されてるって言いそうね」
「それは……うん。そうかも知れない」
あの反応を見るに「半月後に衣都のこと頂戴」と請う恋人は、今まで居なかったのだろう。押し黙った吏来に「お嬢を困らせるのも程々にしなさいよ」と言い残し、ミカは他の客の元へと足を運んだ。
ダブルウイスキーを飲み切るまでの二、三十分。ひとり静かに、衣都の好きそうな場所や店をリストアップして行く。
(向こうのリクエストも聞くとして……)
吏来が挙げた候補は、どれもありきたりなデートかも知れない。でも、気負わずに過ごした一日の最後が忘れられない特別な時間で――その特別がいつか日常になったなら、初めての夜のことをデートの度に思い出せるのではと考えてしまった。
(抱かれる前に散々意識させておいて、抱かれた後にも思い出して欲しいとか……ほんと、どうしようもないな)
少し愛が重たいタイプに自分が変化したのも想定外で、どことなく浮ついた気持ちを抱く。五つの歳の差が、ふたりの交際にどんな影響を及ぼすかわからない。吏来から見たら若くて可愛い衣都が、何処かの若い誰かに掻っ攫われないように――そんな隙を与えることないように、ありったけの愛を注いで雁字搦めに囲んでおきたいと、ますます重いことを考えてしまう。
(……重い男だって、お嬢には気付かれないようにしないと)
大切に想うが故の熱を落ち着かせるべく、酒を口に含む。願わくば、何も依頼を持ち込まれることなくその日を迎えられるといい――そう願いながら、来るべき日に思いを馳せた。
「ごちそうさま。また来るよ」
「ええ。今度はお嬢といらっしゃい」
会計と共に短い別れの挨拶をミカと交わし、席を立つ。
「吏来」
「ん?」
背を向けたと同時に呼び止められて振り返ると、親友は心底楽しそうな顔で笑ってこちらを見ていた。
「いい報告を楽しみに待ってるわ」
「うん」
親友である吏来と、妹みたいに可愛がっている衣都。どちらも大切に想っているのが伝わる声の優しさに、吏来も笑った。