押しに弱い兄さん「見っけたで! 桐生ちゃーん!」
予感がした時にはすぐそこから声がした。げっ、とあからさまに顔を作った桐生に、愛用のバットを左肩でトントンしながら真島が言う。
「なんやその顔はー兄さんが逢いに来てやったんに。もっと嬉しい顔しいや!」
「嬉しくない……」
「直球で言うな! 失礼やぞ!」
一層嫌そうな顔をする桐生に右手を伸ばし、真島はニヤニヤしながら肩を組む。
「ほんとは嬉しいクセに〜♡」
語尾にハートがつくような口調に感じるのは桐生の思い違いではないだろう。
「いつもいつもよく俺を見つけるな……」
「俺は鼻が利くからな、桐生ちゃんの匂いがプンプンするんや!」
「俺の匂い……か」
香水か? 香水が強すぎるのか? そんなことはないはずだが--己の匂いはほんの微かにしか嗅ぎ取れない。なぜなら、真島がいると彼の匂いの方が強いからだ。
「アンタの匂いの方が強いけどな」
「あん? 失礼やな、俺は清潔にしとる」
「ンなの分かってるよ。そうじゃなくて、香水? いや、違うな……」
「お、おい? 桐生ちゃん?」
「何だろうな、アンタからはいつも良い匂いがする……」
「きりゅ、ちゃ……」
「好きだぜ、アンタの匂い」
「ッ……!?」
犬のように鼻を利かせるのに夢中になっていた桐生は、いつの間にか自分が真島に随分と顔を近づけていることにようやく気がついた。
真島の、いつもは不健康なくらいに青白い首筋が、赤に染まっているのはどう見ても見間違いでは無い。
「兄さ……」
首筋だけでなく頬も赤くして、真島は目を見開いていた。綺麗なかたちの目だな--などと桐生は呑気なことを思った。喧嘩の時は別として、唇が触れそうなくらいの至近距離で真島を見る機会など当たり前だが無かったし、そもそもこの状態は何だ? 何がどうしてこうなっている?
目の前の兄貴分は明らかに赤面しており、その顔に自分は明らかに、欲情していた。
「アンタ……なんて顔してんだ」
「な、にが」
「スゲェ……エロい」
「あ、アホか! お前が変なこと言うからっ! 変な顔になったんや!」
「変なことは何も言ってねぇ。俺は俺が思ったことを正直に言っただけだ」
「す、好きやなんて、そういうんは軽々しく言うたらアカンぞ」
「兄さんも言うじゃねぇか、俺のことが好きだって」
「それは……桐生ちゃんとの喧嘩が好きやって意味や!」
脈アリ、とは夢にも思わなかった。毎度毎度飽きずに喧嘩を吹っ掛けてくる真島のことは面倒くさいと思うことは多々あれど、桐生はこの兄貴分が嫌いではなかったし、むしろ出所した自分を--過剰ではあるが--目にかけてくれていることが有り難く、良い人だと思っている。好意を抱いているのは自覚していた。
そして、真島の匂いが好きだと思えた自分の想いを、今日この時確信した。
「俺はアンタの匂いが好きだとは言ったが、アンタのことを好きみてぇだ」
「は……ぁッ!?」
真島の手からバットが落ちて、カラン、と金属音が響いた。持ち主は今にも蒸気を噴き出しそうなくらいに顔を真っ赤にして、慌てて桐生から離れて距離を取った。
「俺をからかうのもいい加減にしろや!」
「からかってない。本気だ」
「ばっ……」
「いま分かった。兄さんのことが好きだ」
「……き、……」
「き?」
「桐生ちゃんのばーかばーか! そんな手には乗らんでぇ! 自分が男前やからってそんなこと言えばちょっと絆されると思うたら大間違いやぞ!」
「えっ? いや、そうじゃねぇ……」
「はぁーもうええわ。今日は気が削がれたわ。帰る」
「帰るって……喧嘩は?」
「誰かさんがアホなこと言うからやる気失せたわ。ほななー」
「兄さん、おい!」
バットを拾った真島が猛ダッシュで立ち去った後に、残されたものが一つ。桐生はそれを拾うと、辺りを見回した。
◇◇◇◇◇
「信じられん、あの桐生ちゃんが……俺を? いや、そんなん嘘や、有り得へんやろ」
真島の心臓はバクバクと破裂しそうなくらいに強く脈打っている。どんなに暴れてもこんなに鼓動が高鳴ることはない。
あの桐生が自分を好き、だなんて。
卑怯だ。あんなにも真っ直ぐな目で言われたら、信じかけてしまう。
彼が自分などに惚れる訳が無いのに。
「ズルいで、桐生ちゃん……」
ひとまず落ち着こうと煙草を探すが、どこのポケットにも無い。今日はツイてない日だ。
「あーあ……」
空を見上げた真島の背後から声がした。
「兄さん、煙草、落としただろ」
「ぎゃあああああ!」
「そんなに驚くことか!?」
「どっから湧いて出たんや!?」
「湧いてって……兄さんもいつもこんな感じだ」
「勝手にどこでも桐生始めるなや!」
「どこでも? 何だそれ」
「そんなことより、何でここが分かったんや?」
「兄さんの匂いがするから」
「…………」
自分が桐生を見つけるメカニズムに近いのかもしれない。
真島は煙草を受け取ると、それをポケットにしまった。
「吸わないのか?」
「腹減った。飯食いに行こ。奢ったる」
「喧嘩は? いいのか?」
「なんやもぉ感情がグチャグチャや。こんな時は飯や、飯!」
「フッ、本当にアンタは読めねぇな」
今の心の状態なんか桐生に読まれてたまるかと、真島は思った。