ある処にて 真島吾朗は神室町を彷徨っていた。その目的は床屋探しである。
蒼天堀から神室町に越してきてからは行きつけの床屋があった。無口で無愛想な店主が営むその店は言わずとも真島の求める髪と髭に整えてくれる、大層居心地の良いところであったのだが、その店主が亡くなったことにより閉店となってしまったのだ。
それからというもの、西田に良い感じの店を探して来いと命じていたのだが、彼は雑誌を持ち出して真っ先にカリスマ美容師が居る流行りの美容室を勧めてきたので真島はその雑誌で西田の頭をはたいてやった。
価格が高いし、カリスマ云々に興味の欠片もないと伝えれば、今度は価格もお手頃な千円カットの店ばかりを勧めてきたのでこれまた雑誌ではたいてやった。
もう嫌だ、自分で探してくださいよ! と泣きそうな顔で抗議する西田を放置して事務所を出てから今、真島は床屋を探すために街を自分の足で歩いているというわけだ。
それにしても、と真島は辺りをキョロキョロと見回しながら思う。
昔はここにアレがあった、あの店があった、というところも今では閉店したり、別の店になっていたり、区画整理された新しい道もあったりと、街並みはすっかり変わっていることに気が付く。
神室町の隅々まで知っているはずの真島でも、色々な発見があるもので、何となく楽しい気持ちになった。
「日に日に変わるもんやなあ」
素直に感心しながらブラブラと歩いていると、ビルとビルの間に伸びた細い路地裏を見つけた。
「バブルの頃はこんな細っそい道ばっかやったのになあ……」
少し懐かしい想いと共に、そちらへ足を向けた。
突き当りに見慣れた青・赤・白のサインポールを見つけて、「おっ」と思わず声が出た。
こんな場所で商売になるとは思えないが、ドアには『営業中』の札が掛けられている。
「丁度ええな」
真島はドアを開けた。カランカラン、と古めかしく聞き覚えのある音が鳴る。
店主だろうか――短く刈り込んだ白髪頭の男が背を向けて何か作業をしているようだ。
シャッ、シャッ、と聞こえてくる音はハサミを磨いているそれだと真島はすぐに分かった。
「髪切ってもろてええかー?」
「……空いてるとこ座って」
こちらをチラとも見ない店主は愛想が良いタイプではないようだが、そんなことを気にする真島でもない。空いているも何も、二つしかない椅子はどちらも空いていた。
真島は店の奥側の椅子にドカッと座った。
「どっこらしょ。もう一週間も切ってへんのや、鬱陶しくて敵わんわ。後ろは刈り上げて……」
鏡に写った店主の顔を見て、注文を最後まで言い終わらないうちに真島は言葉を失った。
その名前を喉から絞り出すのもやっとで、あまりの動揺に声が震えているのが自分でも分かって、あまりにも情けない。だが、それほどの事を目の前に突きつけられていた。
「……さ、佐川……か?」
名前を口にした途端、さまざまな映像が脳裏を過る。動揺を隠せない真島とは対照的に、店主の顔は眉ひとつ動くことはない。
「……? 俺は佐川なんて名前じゃないよ」
しゃがれている声も間違いない。
この顔は、声は。それらは真島の細胞に刻み込まれているのだ。
「いや、でも……」
緊張している真島とまるでそんな素振りも全く無い店主。そのやり取りの最中で、店主はケープを被せ、真島の左眼から眼帯をスルリと剥ぎ取った。
その手つきはあまりにも手慣れており、動揺していたとはいえ真島がとっさに反応することすら出来なかった。
こういうことが出来るのは、やはり『彼』しかいない。
「あ……」
「これ、邪魔だろ?」
「…………」
それからは互いに無言の時間が続いた。店主が手際良くハサミを裁いて髪を切っていく心地良い音だけが、ラジオも音楽も流れていない店内に響く。
髭を手入れしている時、肌に触れる店主の手に、やはり真島は覚えがあった。
「はい、終わったよ」
眼帯をつけてから、店主はケープを外した。
細かな注文は何もしていないのに、完璧な仕上がりだった。
「おっちゃん、いくらや?」
「あ? ツケとくよ。また来るだろ?」
さも当然のようにそう言うところも、いかにも彼らしい。
「……おおきに。ワシは真島組の真島っちゅーもんや」
「知っているよ。この辺じゃ有名人だろ」
「……ほうか。おっちゃん、名前なんて言うんや?」
「店の名前、表に書いてあんだろ」
店名を尋ねたわけではないのだが、店主は、用が済んだらサッサと帰れ、の雰囲気をあからさまに出してきて、会話を背中で拒否しているのでこれ以上話しかけることは出来なかった。
聞きたいことは山ほどあるが、仕方なく店を出た真島は、ふと上を見上げた。
「バーバー……あお?」
古びた軒先に『Barbar 蒼』と描かれているように見えるが、もうほぼ消えているので蒼、という文字かどうかは分からない。何となくだが、真島はそれを『蒼』と読み取った。
蒼天堀の頃はグレイヘアだったがそれよりも更に白くなった髪と無精髭。
顔に深く刻まれた皺も増えていたが、間違いなく佐川司だ。
レジの横に置いてあった煙草に見覚えもあった。
店内はシャンプーやシェービングクリーム等の床屋特有の匂いに混じって、佐川の匂いもした。間違えるわけが無い。真島の身体に、骨の髄にまで染み込んだ匂いだ。
真島はそれらに対して嫌悪感は無く、むしろ懐かしい、と思えた。
◇◇◇◇◇
それからも真島は月に二回、この床屋に通っている。
相変わらず、店主と会話はない。
「よぉ、頼むわ」
「ほな、また来るわ」
この二言を真島が言うのみで、店主はずっと無言のままだ。
だが、言葉を交わさずとも、真島の顔に触れる佐川の手が、蒼天堀のトイレで首を絞め上げられたあの時と比べたら別人のように優しくて、真島はとても感慨深い気持ちになるのであった。