アナザー・ミー、ナイト・ランデブー 風呂からあがったら、コイツがベッドに横たわる俺に覆い被さって、その首筋を噛んでいるところだった。首のところにくっきりと歯形がついて、一番深く沈み込んだところからうっすらと血が滲んでいる。
それは食事とは掛け離れていて、生きるために必要な切実さや娯楽じみた悦びとは別のところにある。退屈しのぎのように、コイツは俺の目の前で、俺ではない、大河タケルにそっくりな肉体の腕を取り、噛みついた。
俺をそれを眺めていた。もう春になるのに、風呂で温まった足先がゆっくりと冷えていく。さほど広くない家の、さほど広くもないベッドに、俺にそっくりな男の体がある。物言わぬ死体のようなそれに覆い被さって、コイツはその首だの腕だのを噛んでいた。一通りやって飽きたんだろう。コイツが俺を、こっちを見た。俺はその下で眠る、もう一人の俺を見る。
もう一人の俺が現れたのは三日前だ。三日か、四日か、二日だったかもしれないけれど、一週間は経っていない。ほんの数日前に俺が目を覚ましたら、最近ずっと入り浸っているアイツじゃなくて、俺そのものが横に寝ていた。
ビックリして、意味がわからなくて飛び起きた。いつもはベッドでのびのびと寝ているアイツじゃなくて、俺が寝ている。俺が増えている。
寝ぼけた頭でアイツの変装だろうか、だなんて考えたけれど、見れば見るほどに眠っているのは俺だった。夢だろうか、と結論づけて二度寝しようとした瞬間、玄関のドアが開く。視線の先には寸分違わぬ『牙崎漣』がいた。
「……何を、」
「コンビニ行ってきた」
「はぁ」
「食いもん足りねーんだよ。オレ様が来てやってるってのに」
コイツは視界に入れたはずの、もう一人の俺を無視して買ってきたものをテーブルに広げ出した。動転して、叫びそうになったところでコイツが水を差し出してくる。完全に出鼻を挫かれた俺は黙って水を飲んだ。落ち着いたところでなんと言っていいかわからず、愚直に「なんか、俺が増えてる」と伝えれば、「見りゃわかる」と返されたのが数日前の話だ。
あの日、俺が増えた日にプロデューサーか円城寺さんに相談したらよかったんだ。それなのに、俺が「プロデューサーに相談しないと」とスマホを取り出した手を、コイツは掴んで、言ったんだ。
「……なんだよ」
「まだ言わなくていい」
それは言い聞かせるような声色だった。無条件に、正しいのはコイツなんだと信じるに値するような、そういう響きの言葉だった。
そういう、普段のコイツらしからぬ口調に飲み込まれて、いつになったら言えばいいんだと聞きそびれた。信じたいけど根拠がない、釈然としない俺に向かって、コイツは「へーき」とだけ言った。それを信じていたら、今日になってしまった。
俺は俺だけど、俺と全く一緒の見た目をした人間をガジガジと噛んでいるコイツを見ていると、なんだかぞわぞわとする。被害者でも加害者でもないのに、許されない気持ちになる。というか、人は噛んだらよくないし、人じゃなくてもむやみやたらにそのへんのものを噛むもんじゃない。だから『噛むなよ』と言おうとしたが、コイツはもう噛むのを止めていたから投げかける言葉を変える。
「なにしてたんだ」
ただ噛んでるだけだったらどうしようもないが、何か理由があるんだろうか。全く思い浮かばないまま尋ねれば、コイツは感情の読めない声でつぶやいた。
「目印つけてた」
「目印?」
「偽物の目印」
コイツの眼光が鋭くなる。見定められている、と思った。
「……こっちが偽物のチビ」
そう言ってコイツは視線を下ろして、その金の目に俺ではない俺の体を映した。一瞬、ほんの一瞬だけ瞳を細めて、また俺を見る。スッと、そのしなやかな指先で俺を指差した。
「オマエが本物のチビ」
「あ……ああ、俺が本物だ」
俺が本物であることなんて俺が一番理解しているのに、心臓がドクドクと鳴った。足元がぐらぐらとしているみたいで気持ち悪い。なんだか立っているのが嫌になって、ベッドに腰掛けて俺の偽物を見た。
「これ、なんなんだろうな。どう見ても俺だけど……」
コイツの言葉と、意味のわからなさと、日々の忙しさでなんとなく放置してしまったけれど、これってかなりの異常事態だ。歯形のくっきりと残る首筋に触れれば、トクトクと血が流れている。
「生きてるみたいだけど、ずっと寝てるな」
「チビが寝てる時はこっちが起きてる」
「はぁ!?」
初耳だった。俺はてっきり、ただ眠り続ける俺のからだがあるだけかと思っていたのに。そうなると話はだいぶ変わってくる。……これの中身は、なんなんだろう。
「話とか、したのかよ」
「した」
「っ、なんで言わな」
「こっちのチビも自分のことをチビだって思ってる。声も同じ、気配も同じ、記憶だって全部あった」
オマエと一緒。眠そうなコイツの言葉が、頭の中でガンガン反響している。
「……なら、なんで」
「チビは一人でじゅーぶんだろ。……だから、オレ様が決めてやった」
コイツの手が俺の手に触れた。いや、正確にはコイツが偽物の俺の首を掴んだ。二人分の温度が指先を伝って、めまいがする。
「こっちが偽物。オマエが本物」
その有無を言わさぬ言葉は揺らがない。まっすぐな瞳に、どうして、とは聞けなかった。理由を聞いてしまったら、そこに不具合が生じたときに偽物になるのは俺かもしれなかったから。世界の全てから見たらコイツは小さな存在だけど、牙崎漣の中で『偽物の大河タケル』になるのは怖かった。
「……明日、プロデューサーに相談しよう」
「ん」
どうでもよさそうに返事をして、コイツはもう一人の俺の体をベッドから引き摺り下ろして床に転がした。申し訳程度に座布団をその上に置いて、満足したようにするりとベッドの上に戻る。
「寝る」
「……ああ」
俺も髪を乾かして寝てしまおう。ふと見た、眠っているもう一人の自分。
もしも俺が寝ている隙に、もう一人の俺が俺を殺したら。そうしたら、『これ』が俺に成り変わるんだろうか。
少し怖くなって、これを縛り上げてから眠ったほうがいいんじゃないかとも思ったが、コイツが言う通りにこれが俺と同じ存在ならそんなことはしないだろうと思ってやめた。俺がもう一人の俺を見て何か危害を加えようと思わないのだから、俺と同じ存在も俺に何かをしてくることはないだろう。
俺もベッドに上がる。いつものようにコイツを壁際にちょっと押して、横になる。電気を消す。すぐに眠るつもりだったのに、暗闇に目が慣れる前にふと口を開いてしまう。
「……おい」
「んー……?」
「俺が、本物なんだよな?」
俺の言葉を聞いて、寝っ転がっていたコイツがガバリと身を起こした。コイツは吐息がかかるほどに距離を詰めて、真正面から俺を見る。一秒、二秒、暗闇の中で見つめ合う。
「……オマエが、本物」
そう告げて、コイツはまた寝転んだ。俺はもう何も言えなかった。寝息が聞こえてきたから、俺も眠った。
***
誰かが目覚める気配がした。横を見れば本物のチビが寝ているから、偽物のチビが起きたんだろう。寝ぼけた目を刺すように、部屋の電気が点く。
「って……なんだこれ、血か?」
偽物のチビは指先を見て不思議そうに呟いている。おおかた、傷口を掻いてしまって乾いた血がついたんだろう。見ていたら腕にある噛み痕にも気がついたみたいで、わけがわかんねぇって顔をしてる。
「オレ様がつけた」
「は?」
「偽物の目印」
「……そーかよ」
偽物のチビは呆れたように伸びをして、ベッドに寝ている本物のチビを見る。なんだか、見たことのない顔をしてる。
偽物のチビには夜にしか時間がないけれど、生きている。食いもんを買ってきてやったと言ったら、台所へと向かっていった。きっと冷蔵庫の焼肉弁当を取ってくる。今日本物のチビが選んだのも、焼肉弁当だったから。
こっちが偽物ってオレ様は決めたけど、偽物でもチビはチビだった。チビが増えた日だって、チビはどっちのチビも本物だった。
自分と全く同じ人間を見て、こっちのチビは酷く動転していた。いや、違う。本物のチビだって動転してた。だから半分くらいは、オレ様にも責任があるのかもしれない。
チビがうろたえていて、なんだか無性に腹が立ったんだ。だけど、なんとかしてやりたいって、そう思った。
その青い瞳を手で覆って唇を触れ合わせた。間違えた、と思う前に、コイツはオレ様を抱きしめて、自分からもう一度キスをしてきた。
だから、その瞬間からコイツはオレ様のなかで偽物になった。選ばなければならない日がきたのなら、偽物はコイツでなければならない。
「明日、チビが下僕に相談するって」
「そうか……そりゃそうだよな」
「……もし、」
偽物でもチビはチビだ。声も、記憶も、魂の形も。
案外どうにでもなる。可能性を並べようとしたオレ様の言葉を塞ぐように、偽物のチビの手がオレ様の口を覆う。偽物のチビはゆっくりと笑った。
「大丈夫だ」
それきり、偽物のチビは何も言わなかった。ただ、黙々と焼肉弁当を食う。
「ごちそうさま」
その声に視線を向ける。一度目があって、顔がスッと近づく。唇が触れあった。
「俺は、偽物か」
「……そーだな」
本物はこんなことしない。言わなくても、痛いほどに伝わっているとわかった。
「夜はすることがないな」
偽物のチビはぼんやりとテレビを見ている。大好きなゲームでもすればいいのに。
オレ様はだんだん眠くなる。眠くて、イライラする。オレ様が寝て、本物のチビが寝て、この偽物だけが起きている時間が憐れでたまらない。でも、コイツは寝たら自分の居場所を奪われてしまう。
「オマエは寝たらどうだ?」
「……気分じゃねーんだよ」
目の奥がぐるぐるする。ぎゅー、と引き絞られるような感覚に頭痛がした。眠いけれど寝たくない。子供みたいな癇癪で暴れたくなる。
眉間に寄った皺をほぐすように偽物の指先が触れてきた。偽物が、自重気味に笑う。
「……本物の俺は、こんなこと、しないもんな」
額に唇が触れてきた。眠たくて、体温がどんどん夜に溶けていって、口付けを受けた箇所だけが熱い。
「オマエがこれを偽物だって言うなら、それでいいんだって、思う」
冷たくて、熱くて、くるしくて、目が開けていられない。眠りに落ちる瞬間、抱きしめられるような浮遊感があった。
***
目が覚めたら安物のカーテンから朝日が透けていた。
偽物の俺について、プロデューサーに相談をしないと。そう思って起き上がったら、足元にコイツが転がっていた。他に生き物の気配はなくて、見回す何処にも俺はいなくて、キラキラとした金平糖だけがコイツを彩るように散らばっている。
「……もう一人の俺は?」
おい、とコイツを揺すれば、普段では考えられないほどあっさりとコイツは目を覚まして、周りをキョロキョロと見渡す。誰もいないとわかったんだろう、目を閉じて、息を深く吐いた。パチリと目を開けて、床をじっと見る。
「……そーいうことか」
「おい、いったいどういう、」
「大丈夫だって、言ってた」
コイツの白い指先が金平糖を摘み上げる。漏れる朝日に透かすように、その淡い色をコイツはゆったりと見つめている。
「だから、大丈夫だ」
それきりコイツは黙ってしまった。ただ、何かを訴えるように俺を見ている。なにが大丈夫なのかはわからないが、コイツと、もう一人の俺が言うのならそうなのだろうか。
わからないことだらけだ。俺はなにもわからなくて、多分コイツはある程度をわかっていて、世界はなにも知らない。日常が滞る理由なんて、どこにもないんだ。
「……その金平糖はなんだ?」
オマエが散らかしたのかと聞けば、「知らねー」と素っ気ない言葉が返ってくる。コイツは無造作に金平糖を口に放り込んで、顔を顰めた。
「……甘ぇ」
心底不機嫌そうにコイツが言う。それきり、もう一人の俺の話をすることはなかった。