夏に溶ける「百々人先輩は『韜晦』って知ってますか?」
「とうかい?」
「はい。最近知った言葉なんですけど、なんかいいなって」
韜晦。秀はその言葉の意味を口にしなかった。ただ、その言葉の本質を愛したというよりは、例えば『きらきら星』で繰り返される音を気に入ったというような、そういうことをポツリと呟いた。口にした時に自らの声が、ぼんやりと間延びする様がいいと言う。
「どういう意味なの?」
百々人の問いかけに秀は目を細めて、小さな声で「教えたくないな」と息を吐く。
「この世にスマホも辞書もなければいいのに」
秀は百々人が取り出しかけたスマートフォンを手で押さえた。そうして、どうせ知られるのなら自分が教えると口を開く。
「行方を眩ますことです。あとは、地位や本心を隠すこと」
「ふーん」
そうなんだ、と一応感心はしてみせる。しかし秀がこの言葉の意味を愛しているわけではないと百々人は聞いているわけで、故に言葉の意味にそこまでの興味を持つことはなかった。ただ「とうかい」という言葉の、どことなく四角いイメージを頭の中で反芻しながら秀の言葉を待っていた。
沈黙は長くない。秀は言う。
「最初、勘違いしたんですよね」
「勘違い?」
「はい。さっき韜晦には『行方を眩ますこと』と『地位を隠すこと』の二つの意味があるって言ったじゃないですか」
秀はパッと両手を広げ、パン、と叩く。
「二つある意味を勝手にくっつけて……『地位を隠して行方を眩ませること』だと思い込んでしまって」
「あー、そういうときあるよね」
「はい。それで『駆け落ちだ』って思って、気に入ったんです。けど、」
「勘違いだった、ってこと」
「そういうことです。でも言葉の感じはなんか好きなままで……」
なんか良くないですか? と秀は言うが、百々人にはよくわからなかった。このひとつ年下の後輩のことがわからない時なんていくらでもあるくせに、百々人はそのひとつひとつを見つめ、律儀に傷付いてみせる。百々人は「わかんないな」と呟いて、曖昧な笑みでその場を濁す。秀が繋ごうとした言葉を遮るように、百々人は秀の名前を呼んだ。
「しゅーくんはさ」
百々人は一度、秀から視線を外す。
「韜晦って言葉を、駆け落ちのことだと思ったんだ」
「はい。勘違いして、」
「勘違いでも、しゅーくんはさ、」
もう一度、百々人は春に咲いた紫陽花のような瞳を秀に向ける。その目には呆れと羨望がうっすらと透けていた。
「韜晦を、二人でするものだと思ったんだ」
秀はキョトンとしたあと、は、と息を吸った。まるで見直したテスト用紙の回答が一つずつズレていることに気がついた瞬間のような、笑ってしまうような憂鬱だ。何を言いたいのか、秀にはぼんやりとわかってしまう。秀には確かに、逃げおおせる恋人たちのイメージしかなかった。
「……なんか、地位を捨てて逃げるって、駆け落ちっぽくないですか?」
「うん。そうだね……」
百々人は柔らかく笑う。まるで子供に花丸をあげるような優しい声で、言外に秀の眩しさを嬲る。
「でもね、地位を捨てて逃げる時……例えば僕がアイドルを辞めて、どこかに隠れようとした時……」
百々人の表情は穏やかだった。そんな未来は訪れないと確信しているわけじゃない。ただ、そんな日がこないことを願う、穏やかな祈りがあった。
「僕は多分、一人きりで『韜晦』する僕を想像するよ」
君とは違うと、過去の百々人なら言っていたかもしれない。その気持ちに変わりはないが、今はもうわざわざ口にするようなことでもない。また、そうであったとしても傷つかないだけの強さが今の百々人にはあった。
「……俺たちがいるんだから、百々人先輩がアイドルを辞めることなんて有り得ませんよ」
「ふふ、ありがと」
「でも、」
秀が百々人の手を取った。願うような、縋るような指先は未だに子供のような体温をしている。
「百々人先輩が行方を眩ますのなら、C.FIRSTごと持っていっていいですよ」
秀の言う『C.FIRST』がなんなのか、双方の認識を合わせることなく会話は続く。
「百々人先輩がいないなら、それはもうC.FIRSTではないので」
「なにそれ。それなら、しゅーくんやえーしんくんがいないC.FIRSTだって、C.FIRSTじゃないでしょ」
持ち去ることなんてできない。そう盛大にため息をついたあと、百々人は「でも、」と口を開いた。
「でも……もしもC.FIRSTを持ち去るのなら……それはなんだか、駆け落ちみたいだね」
百々人は秀の手を握り返す。指先を絡めて、その冷たさを移していく。
「目に見えない幽霊とか、列車になりそこねた縄跳びとか、香りしか見つからない金木犀とか。……そういう、気負わない存在と手を繋いでいるみたい」
「気負わない? バカ言わないでください」
わかってない、と秀は口を尖らせてその手を離した。双方の認識には齟齬があると二人が理解していたが、彼らは歩み寄る言葉を持たなかった。
「俺たちを道連れにする覚悟がないなら、逃さない……そう言ってるんですよ」
幽霊どころか、生き霊ですよ。
そう言って秀は目を細める。人になれた猫のように笑う。
「だから連れていくなら、殺して、幽霊にして、連れて行って」
「……重たいなぁ」
辞める気はないよ、とあやすように百々人は微笑んだ。
「しゅーくんこそ、さ」
「はい」
「辞める時は……『韜晦』をするときは、イメージの通りに駆け落ちしてね。僕と、えーしんくんと」
連れて行ってね、と百々人は言った。秀の手を取ることもなく、ただギュッと拳を握りながら、その爪を手のひらに突き立てていた。
秀がそれに気が付いていたかはわからない。それでも、秀は百々人が望んだ約束をくれることはない。
「俺はアイドルを辞めませんよ」
一言、連れていくと言ってくれたらいいのに。もしもの話なんだから。
そういう仮定の話でも、どこまでも真摯で、実直で、自分を曲げない男だ。呆れが半分、身を焼くような羨望が半分。そのどちらにも気が付かれないように息を潜める百々人の横で、秀はぼんやりと、考えたことをそのまま口に出した。
「鋭心先輩もきてくれるかな」
「こないよ」
百々人の口調はあっさりとしていた。呆れるように、愛おしそうに百々人は鋭心についてを口にする。
「えーしんくんはね、早く帰るぞってステージを指さすんだ。僕としゅーくんはえーしんくんに連れ戻されて、また楽しくアイドルをやるの」
「いいですね、それ。……でも、二人でなら鋭心先輩も浚えるかも」
「どうだろうね。手強そうだけど……」
噂をすれば、ピコンと二人のスマホが鳴った。メッセージの差出人は鋭心で、少し遅れると言ったがもう少しで合流できるとのことだ。
百々人は鋭心に返信しつつ、諦めたように笑う。
「まぁ、僕ら三人でなら、どこでもなんでも楽しいよ」
「そうですね。……ああ、なんか、変なの」
秀も笑う。呆れこそないが、百々人も巻き込むような自虐的な笑みだった。
「……俺たち、いつもこういうハッピーエンドに辿り着いてませんか?」
「それはそうだよ。……だって、まだ、……バッドエンドの話なんて出来やしない」
秀も百々人も、お互いの瞳ではなく踏み込めない領分を見つめている。歩みを止めればひたひたとついてくる闇を知っている。それを振り切るための強い言葉と、その光を信じている。
「僕ら、臆病だから」
とうかい。そう呟いて百々人はスマホを閉じた。
駆け落ちなど出来ないほどに、許さないと責め立てるように、夏の太陽が輝いていた。