五月の嘘二年経って変わったこと。
仕事が増えた。自炊をするようになった。チャンプを引き取った。アイツを好きになった。
***
きっかけはアイツの19才の誕生日だった。
そのころの俺とアイツの関係は今と大して変わらない気がする。何かにつけてはりあって、ケンカをして、円城寺さんに宥められて、そんな関係を一年近く続けていた。
その日は何故か突っかかってくる声もなく、静かに、だけども誕生日の準備だなんだで慌ただしく過ごしていた。
急に教えられた誕生日に文句を言う人間は誰も居なかった。みんなでおりがみを折ったりアイツが気に入るかもわからない花なんか飾ったりして、いつもは片付いている事務所がオモチャ箱をぶちまけたみたいに賑やかになっていた。円城寺さんだけじゃなくて事務所の料理好きが楽しそうに腕を奮っていた。ただ、みのりさんが持ってきた花の名前を、最後まで俺は知らなかった。知っていることは本当に少なかったけど、確かにそこは幸福な空間だった。
夕方、そのパーティの主役がどこにもいないと気がついたのは四季さんだった。だから探しに事務所を出た。あの時は確か、今にも雨が降りそうだった。
どうせチャンプのところにいるだろうと思ったが見当たらない。そこから心当たりをぐるりと巡って、それでも見つからなくて闇雲に走り回って、最後にもう一度とチャンプのところに戻ったが、アイツの姿はなかった。
本当に、どこに行ったんだろう。呟きに応じるようにチャンプが鳴く。しっぽをゆらゆらと揺らして歩き出すチャンプを気がついたら追いかけていた。
歩いて、歩いて、よく分からない入り組んだビルの隙間にアイツはいた。俯いていたから寝ているのかと思ったが、声をかけたらビクリと顔を上げた。
「おい、何してるんだ」
「……なんだっていいだろ」
「……仕事の話し合いがある。事務所に戻るぞ」
思えばこのとき、様子のおかしかったアイツに何か声をかけるべきだったのかもしれない。
でも、俺の口から出た言葉は融通の利かない、散々練習した台詞だった。
「……本当に?」
ドキリとした。本当じゃない。嘘だった。だけど、許される嘘だと思っていた。
お前のことを祝おうと、たくさんの人が待っている。驚く顔が、そして喜ぶ顔が見たくて、みんな待ちわびてるんだ。
それでも、普段と違う様子のアイツに少しだけ戸惑った。
「……こないのか」
「……行く」
それだけ言ってアイツは歩き出した。チャンプはいつの間にかいなくなっていた。
俺はただ、何も言えずにアイツの背を追って歩を進めた。いつの間にか、雨が降りだしていた。
事務所に戻るころには、アイツはすっかりいつもの調子を取り戻していて、とっくにバレていたであろうサプライズパーティをいつもの尊大な態度で受け入れていた。
機嫌は良かったと思う。散々飲み食いして、笑って、プレゼントに目を通して。どこにでもあるような、何も特別じゃない、普通の、ありふれた、幸福な誕生日パーティだったと思う。
やがて時計の針が進み、少しずつ人が減って。でも俺はなんとなしに最後まで居ようと思っていた。円城寺さんもそうだと思う。
事務所には俺たち虎牙道の三人と少しの大人だけ。誰からともなく片付けが始まった。
アイツは手伝わないだろうな、と思ってはいたが、案の定片付けムードが漂いだしたあたりでふらりと姿を消した。まぁ、今日の主役だからそれは別にいいんだけど。
そのとき、なんで俺はアイツを探しに行こうと思ったんだろう。片付けをサボるようで申し訳ない気持ちもあったけど、それよりもただアイツのことが気になっていた。
アイツは屋上にいた。弱かったけど、まだ雨が降り続いていた。さっきまでの喧噪がしとしとと雨に吸い込まれていくようで、その熱の中心にいたアイツの体温も、しとしとと降る雨が奪っていくように見えた。
「……風邪引くぞ」
「……ひかねぇ」
チビみたいに弱っちくないからな、だとか、そういう余計な一言がないのが何故か無性に胸を締め付けた。アイツは明らかに、パーティが始まる前のあのテンションに戻っていた。
なぁ、なんでそんな、らしくない。一言口に出せれば何か変わったのだろうか。あの時の俺はただ立っていることしかできなかった。
どれくらい立ち尽くしていたのだろう。寒くなんてなかったけど、きっと指先は冷え切っていた。忌々しげにアイツが吐き捨てる。
「早く戻れよ」
「……お前はどうするんだよ」
「あ?知らねーよ……ラーメン屋のとこかどっか、適当に泊まる……」
「嘘だ」
反射的に言葉が口をついて出た。多分、円城寺さんのところになんてコイツは行かない。
きっと、また誰も知らないような裏路地で、一人で夜を明かすんだろう。そう考えたら、息が詰まりそうになった。
「俺の家に来い」
「……は?」
「雨の日とか、寒い日とか、なんだっていい、お前が、今みたいに苦しいとき」
言うつもりのなかった言葉が流れ出た。一度声に出してしまえば、それは名案のように思えた。
だって、放っておけない。こんな、こんな顔したコイツを一人にしてはいけない。
歩み寄って距離を詰めて腕を取る。アイツは反射的に振り解こうとしてきたけど、グッと力を込めたら観念したようにおとなしくついてきた。
事務所で残ってるみんなに挨拶もなく、言葉を交わすことなく家路につく。
終始、お互いに無言だった。不思議と居心地は悪くなかったが、アイツはどう思っていたんだろう。何を思って、おとなしく俺に腕を引かれていたんだろう。
家に帰り、風呂の準備をする。風呂が沸くまでの間に引き出しにいれておいた合い鍵を取り出した。
「ほら。やるから」
「は?なんでこんなもんがあるんだよ……」
「うるさいな。こっちも色々あるんだよ……」
家族が見つかったら渡そうと思っていた合い鍵だとは言えなかった。
アイツは興味なさそうにそれを見たあと、乱雑にそれをポケットにしまいこんだ。
「なくすなよ……あ、風呂がわいたから、入れ」
「命令すんな。チビ」
そう言って風呂に向かうアイツをみて、寝間着はどうしようかと首を捻る。まぁ、細身のアイツだから自分の寝間着で充分だろう。
そうやって準備をしている間、こうやって、何かがあったら俺の家にきてくれたらいい。心からそう思った。
あんな、捨てられた子供のような表情は二度としないでほしいと、そう強く願った。そんな表情なんて見たことはないのに、何故か離ればなれになっている弟妹を思い出していた。
多分このときから。ひょっとしたらもっと前から俺はアイツが好きなんだと思う。
***
そして今日は、その日から丸一年。つまり、俺の経験するアイツの二度目の誕生日だ。
いつものように事務所でお祝いをすると思っていたのだが、仕事の都合がつかないからパーティは開かなくていいと本人が直々に申し出たらしい。貢ぎ物はその辺に置いておけという伝言付きで。
確か今日は麗さんと四季さんが一緒の仕事のはずだった。四季さんがいるのだから、仕事の打ち上げで盛大に祝われていることだろう。
そういえばアイツは今日で二十歳になる。酒でも呑まされて帰ってくるかもしれない。
その様を思うと少しだけ愉快で楽しくなるが、一拍後にまたむなしい気持ちになる。今日、あの合い鍵は使われることがあるのだろうか。
いちおう短いメッセージは入れた。祝ってやるから家に来いと。
ケーキも買った。食べ物だってアイツ相手ならいくらあったっていいと思って買った。飲み物はソフトドリンクのみ。アイツは酒が飲めるようになるわけだけど、俺は酒が買える年ではない。言いたくはないが身長はそれなりだし顔も大人びてはいない。調達しようとしても年齢確認にひっかかるのがオチだろう。
そんなに豪勢なものじゃないが、準備はできている。だが、肝心の本人がこないかもしれない。
そもそも仕事はいつごろ終わるのだろうか。四季さんに連絡をしてみようか、いや、そもそもアイツが来る保証も、義理もない。そうと思ったところで玄関のドアを乱雑に叩く音がした。
「近所迷惑だろう。合い鍵を使え」
「……うるせー……」
合い鍵が使われることはなかったが、アイツはやってきた。だが、喜びよりも驚きが勝った。
ドアを開けたところには真っ赤な顔をしたアイツがいた。明らかに酔っている。想像の何倍も酔っている。
「お前、大丈夫かよ」
支えるようにして室内に促すと、クッションにたどり着く前に床に着地する。これは相当だな、とため息をついた。
「おい、平気か」
「水」
「水な、とってくるから待ってろ」
「浴びる」
「はぁ!?」
水を汲もうと立ち上がれば、背後で酔っ払いの動く気配がする。
アイツはふらふらと風呂場に向かっていた。酔ってるときに風呂って入ってよかったんだっけ。
なんて考えてるうちに水音が聞こえてくる。大丈夫かと思い浴室に近づけば、あるべきはずの服がない。
ドアを開けると服を着たままのアイツが浴室に座り込んで水を浴びていた。
「お前何やってんだよ……服くらい脱いで……」
文句半分心配半分、とりあえず水を止めようと近づいたら思い切り腕を引かれた。
アイツに密着する形で倒れ込む。ずぶ濡れのアイツに触れたことなんて気にならないくらいの量の水をかぶる。
「お前な、いい加減に……」
「バカバカしい」
「え?」
文句の一つでも言ってやろうと思ったが、明らかに様子がおかしい。
「バカらしいんだよ。四季が、祝うんだよ。オレ様の誕生日を」
「……いいことじゃないか」
「アイツだけじゃねぇ、おかっぱも、他のやつらも、みんな」
オマエもだ。そう言って人を睨み付けたかと思えばまた俯いてしまう。繰り返し、繰り返し、バカバカしいと口にする。
「なぁ、何がそんなに気にくわない?酒を飲まされたことか?」
こいつとの誕生日はまだ一度しか経験してないが、あんなに楽しそうだったじゃないか。そう思う反面、あの日見せたコイツの態度が頭から離れない。
しばらく、ただうわごとのように文句を言い続けていたコイツが、顔をあげた。申し訳なさそうな、泣きそうな顔だった。
「……う」
「う?」
「違う」
「何が」
「…………今日、誕生日なんかじゃ、ない」
子供が、隠していた失敗を打ち明けるような声色だと思った。不思議を驚きはなくて、ただ、この子供のような顔をしたコイツをどうやったら宥められるのかを必死に考えていた。
「……誕生日、知らねーんだ」
「……うん」
「適当言ったんだ。チビだけ祝われてんの、ムカついたから」
「そうなのか」
「本当は誕生日なんて知らねー。適当だあんなもん、ただ、明日誕生日だって言ったらどうなるかと思って」
「そっか」
「バカみてぇ。ラーメン屋あんなに焦って、用意して、事務所のやつらみんなそうだ。四季も、バカみたいに喜ぶんだ。なんでだよ。なんで」
時折、くっと息が詰まるような嗚咽が漏れる。泣いてるような、憤ってるような。きっと、どちらもコイツの本心なんだろう。
「バカだろ、あいつら全員。オマエだってそうだ。ケーキとか、買ってんじゃねぇよ。バカ。なんでだよ。ただ生まれたってだけじゃねーか。誕生日なんて、なくたっていいだろ」
ざぁざぁ、と。あの日の雨よりも強くて冷たい水がシャワーから注いでいる。ふれあった箇所だけが熱い。
しばらくの間、壊れたレコードみたいに同じ台詞を繰り返していた。俺は否定も肯定もせずに、ただ頷いて聞いていた。
冷たく濡れた衣服がどんどん体温を奪っていく。言葉数が減ってきて、いよいよ静寂が水音に支配される。
「……適当だっていいだろ。俺は、オマエの誕生日が祝えて嬉しい」
素直な気持ちだった。あの日、自分の気持ちに気がつけたのは、このささやかな嘘がきっかけなら。
「もう、今日が誕生日ってことでいいだろ。毎年さ、祝って。そしたら本当になる」
だから、そんな迷子のような顔で泣かないでほしい。きっとそう言ったら泣いてないと返されるだろうけど、俺にはコイツが泣いてるように見えた。
今度は俺から手を引いて抱きしめる。好きな人を抱くときは、もっとドキドキするのかと思った。
しばらく、こうしていたかった。
こうしていたかった、のだが。あのあとすぐに体は引き剥がされた。
酒のせいかはわからないほど顔を真っ赤にしたアイツは「服が濡れてうぜぇ」と服を脱ぎはじめ、そのまま風呂に入り始めた。俺はと言えばずぶ濡れのまま浴室から追い出されてしまい、びっしょりと濡れた服を脱ぎ、体を適当に拭いて、着替えて、ケーキと食べ物にラップをかけて、布団をひいたりしてアイツのことを待っていた。
風呂からあがったアイツは食べ物に一瞥をくれると「明日食う!!」と高らかに宣言して布団に潜り込んだ。酔いは醒めたのだろうか。自由か。
自分も布団に潜り込む。電気を消すときに、内緒話を打ち明けるようにアイツが呟いた。
「適当ったけど、適当でもないんだ。オレ様の好きな季節だから、きっとオレ様が生まれたのはこのくらいの季節なんだと思う」
それなら、それでいい。オマエの嘘は俺だけが知っていればいい。いつか、嘘と思わなくなる日までずっと持っててやるから。
だから、こんな些細な嘘の重さに潰されないでほしい。明日、事務所に集まったプレゼントをどうか笑顔で受け取ってほしい。様々な願いが浮かんで消えて、やがて蕩けて寝息になった。