生クリームと苺の乗った甘いの。その奇妙な習慣が始まった日の空は覚えていないけれど、そのきっかけになったであろう出来事をタケルは鮮明に覚えていた。
もっとも、それはタケルがそう思い込んでいるだけなのかもしれないが、おそらくはこれが原因であろうと大河タケルは自惚れている。
そう自惚れてしまうほど、二人の間には時間が流れていた。牙崎漣は21才になっていたし、大河タケルは次の誕生日で二十歳になる。
半年ほど前に始まった奇妙は非日常は、日常へと形を変えて未だに彼らの間に横たわっていた。
***
きっかけは秋だった。ちょうど、牙崎漣が成人した年だった。
THE虎牙道のメンバーはCafe Paradeにいた。次の仕事が一緒の巻緒と咲にミーティングでも、と誘われたのだ。
道流は大きな体を緊張させて、なんだか落ち着かないと笑っていた。タケルもそれに同意した。くだらねぇ、と呟いた漣だけが、どこに居ようとその態度を変えることはなかった。次に打ち合わせをするのなら、男道ラーメンじゃダメかなぁ。そう道流が冗談か本気かわからないことを言った。
「いらっしゃいませ!ようこそおこしくださいました」
「そういちろうがケーキ用意してるから、それ食べてパピッと頑張ろーね!」
巻緒と咲がそう言って、配膳の準備のためか裏に引っ込んでいき、数分もしないうちにプレートにのったいくつかのケーキと一緒に戻ってきた。
人数分のプレートとナイフとフォークがてきぱきと並べられていく。食器は華奢で、今にも折れてしまいそうだった。
「なんだか、記念日や祝い事でもないのにケーキを食べるのは新鮮な感じだな」
「ケーキはいつ食べたっていいんですよ!何でもない日だって、何かあった日だって、いつだってケーキ日和です!」
道流の呟きに食い気味に巻緒が応える。またしてもタケルは道流に同意したい気分だった。タケルにとってケーキというのは、なんだか食べ慣れないものだった。
それはたとえば施設で月ごとにまとめて行われる誕生会とかに食べる物だったし、大きくなってジムの仲間がなんらかの記念や誕生日に買ってきてくれるものだったから。年に数回目にするかしないか程度の関わりしか、タケルはもっていなかったのだ。
プレートの上には小さな丸いケーキがのっていた。真っ赤な色をしたものと、滑らかな黒色をしたもの、それと、柔らかな薄緑色をしたケーキがのっていた。
「いただきます」
声が重なる。か細いフォークを薄緑色のケーキに突き立てると、抵抗もなにもなく柔らかく分断される。小さくなった方を口に含めばおいしい、けれど食べ慣れない味がした。そもそもタケルにとってケーキとは『生クリームと苺ののったやつ』であって、その薄緑色とケーキはどうにも結びつかないものだった。
「これは……ピスタチオのケーキか?」
「はい!そうです!こっちはチョコで、こっちは木イチゴ……」
正体を当てたのは道流だった。嬉しそうに巻緒が同意して、残ったケーキの話をする。
「ピスタチオってケーキになるんだな……どうりで食べ慣れない味がする……」
「おつまみとかで出てきますよね。ピスタチオ」
「そっちのほうが食べ慣れてる人が多いのかな?……あー漣!ちゃんと味わって食べてる?」
「ああ?うるせーな」
咎めるというよりはふざけた咲の口調に面倒そうに返す牙崎のプレートには、もうケーキは1つしか残っていなかった。
「好きなケーキ?」
「はい!また、こういう機会があるかもしれませんから」
ミーティングが終わったあとの雑談でふいに巻緒からされた質問。
「好きなケーキはありますか?」
次はみなさんの好きなケーキを用意しますよ、と笑う巻緒と咲に、さてどうしたものかとTHE虎牙道の面々は首を捻る。
「うまけりゃ何でもいい」
「また漣はそういうー!」
「ケーキとかわかんねぇよ」
真っ先に答えたのは漣だった。漣らしい回答だった。それが本心であることはその場にいる全員が理解していたし、それがおそらくは彼の謎めいた生い立ちからくることをぼんやりと理解していた。きっと、彼はこの場にいる誰よりもケーキに馴染みがないのだ。
「……俺も、ケーキのことはよくわかんねぇけど」
助け船を出すつもりなどではなく、タケルは自然と口を開いていた。
「俺のいた施設ではさ、毎月誕生会で生クリームと苺がのったケーキが出てて……苺、そんなに多くなかったから、誕生日のやつは苺がのってるところを食べれたんだ。だから、俺は生クリームと苺ののってるやつが好きだ……」
懐かしいな、と思いながら口にする。数ヶ月前までは、施設のことを隠すつもりはなかったが口に出したことはなかった。それがさらりと口にしてしまうほどに変化したのは心境の変化などではなく、単に数ヶ月前に出たゴシップ誌のせいだった。
ゴシップ誌の話は、単純な話だ。ゴシップ誌は大河タケルが身寄りのない施設の出だと取り上げた。それだけだ。
無論、それは何もやましいことではなかったので放っておいた(おそらくはプロデューサーが何らかの働きかけはしたんだろう)が、それはタケルが仲間に自らの境遇について打ち明ける機会を永遠に奪ってしまった。
タケルは苛立ちもしたが、同様に諦めていた。こういったコトは一過性の嵐のようなもので堪え忍ぶしかない。
実際、プロデューサーのサポートがあったのだろう、ボクサー時代にひっきりなしにかかってきた自称親戚からの電話、金の無心に比べたら、驚くほどタケルの身の回りは静かだった。仕事場でも、その話題に触れるのはまるでタブーかのように扱われ、タケルを取り巻く環境は何一つ変わらなかった。
「タケルは何も悪いことしてないんだから堂々としててね。何かそういう話題を振られたら必ず私に相談すること。仕事はどんどん選んでいきましょう。私は、君のプロデュース方針を変えるつもりは一切ないから、そのつもりで」
そう、プロデューサーが力強く笑ったのを覚えている。そのおかげか、苛立ちは少しずつ解けて心は落ち着いていった。
ただ、そのゴシップ誌からタケルの境遇を知った道流の顔は、凪いだ心を少しだけ揺らした。
「タケルが今まで言わなかったってことは知られたくなかったってことだろう……」
それを知ってしまったと、優しい人が眉をさげている。横では漣が、つまらなさそうにペットボトルをくるくる弄んでいた。
「気にしないでくれ、円城寺さん。知られたくなかったわけじゃないんだ。ただ、言う機会を逃していただけで……」
本心だった。タケルは自らの境遇について彼らになら打ち明けてもいいと思っていた。それほどには、彼らは信頼と時間を重ねてきたのだから。だが、きっとそれは道流にとっては優しい嘘にしか聞こえなかっただろう。
こういうとき、タケルは自らの口数の少なさに辟易する。もう少し、もう少しうまく伝えられたなら。
双方、うまい言葉が見当たらない。何を言っても嘘っぽく聞こえてしまう、意地悪な魔女の魔法にかけられてしまったみたいだった。
「言いたくないなら言わねーでいいだろ」
沈黙を破ったのは漣だった。
「忘れてやろーか?」
彼は一人だけ意地悪な魔法にかかっていなかった。まっすぐな言葉は全てが真実だった。
まっすぐな金色がタケルを見ている。
「……いや、覚えておいてほしい。知っておいて、ほしい」
そう返したのは甘えや弱さではなかったか。その答えをタケルは持っていない。
ただ、タケルは二人には知っておいてほしいと思ったのだ。
そうして今では隠すことではないと、315プロの仲間の前では普通に口にするようになった。
たんなる境遇で、昔話なのだ。
だからこそ、それを知る仲間達もそれを当然で、普通で、ありきたりな昔話として扱った。
「わかります!思い出の味ってありますよね……俺も実は、スポンジに生クリームだけのシンプルなロールケーキが好きなんです」
お月見で、必ず食べたんですよ。そう巻緒が笑う。彼のそれも一つの思い出話だ。ただ、その思い出の深いところまでを知っている人間は、彼を除いてこの場に一人しかいない。
「みちるは?」
「俺か?んー、甘さは控えめなのが好きかな。酒が入っているのも好きだが……これはタケルが成人してからだな」
「ケーキに入ってるのはセーフじゃないのか?」
「どうでしょうね?結構度数の高いお酒がいっぱい入ってるケーキもあるからなぁ……」
「前、てるがブランデーケーキでべろべろに酔ってたよ」
そんな雑談をして、その日は解散した。多分、この日が直接のきっかけだ。
***
タケルはその日の空の色を覚えていないが、奇妙な習慣が始まった日は冬が始まりかけた快晴の日だった。雲一つない空は澄んでいて、吐く息はまだ白くなりきれずに透明にとけていく。
その日はちょうど麗と四季と漣で撮影があった。そのロケの帰り道だった。
「ロケで行ったケーキ屋さんに寄りたいっす!」
そう四季が言ったので3人は――漣は半ば引き摺られる形で――先ほど取材したケーキ屋を訪れていた。
「たまには家族にケーキでも買おうと思って」
そう言ってあーでもない、こーでもないとケーキを選んでいる四季につられる形で、麗もディスプレイを眺め始めた。
「何かの記念日ではないが、たまにはいいものかもしれないな」
同調するように呟いて麗も4つほどケーキを買った。
「そうっすよ!なんにもなくったって、ケーキがあったら嬉しいっす!」
「そりゃ食いモンがあれば嬉しいだろ」
「違うっすよ漣っち!ケーキは特別なんっす!」
「考えてみると不思議だな。なんでケーキだけがこんな特別なものなのか」
「誕生日とかの思い出がこう、蘇る感じだからっすかね?」
「私はどちらかというと発表会を思い出すな。発表会が終わると、両親が近所のケーキ屋で楽器をモチーフにしたケーキを買ってくれた」
漣っちは?と聞かれて、漣には返せる言葉はなかった。誕生日の思い出は、315プロにきてからのものしかない。祝い事にケーキが並んだ記憶もない。そもそも祝い事は大抵父親の叱咤とセットになっていて、それは新たな目標設定の場であった。頂点を目指す途中では、その節目の祝いでは、きっとダメだったのだ。
では誕生日はというと、そんなものあってないようなものだった。315プロに来てから毎年誕生日を祝われるようになって、なぜ毎年ケーキを食べるのか不思議だったくらいだ。それくらい、ケーキと今まで歩んできた人生が交わらない。
「……ケーキなんて食った記憶ねーな」
「牙崎さんは海外の生まれだったか。海外だとあまり食べないのだろうか?」
「じゃあ今からいっぱい食べるっすよ!」
だから漣っちもケーキ買うっす!そうやってずい、とディスプレイの前に立たされる。
色とりどりのケーキは漣に少しの威圧感を与えた。このどれもが誰かの幸せのためにあるのか。
「なんでも無い日でも、ケーキがあると一気に特別になるんすよね~」
幸せな記憶とケーキって、だいたいセットなのかもしれないっすね。1人、納得したように四季が頷く。
幸せ。その言葉は漣にとってはぼやけたものだ。自分自身の手元、居場所にしかないもので、それでいて最も遠い場所にあるようなものだった。彼はこの年になっても、幸せとはなんだという問いに答える術を持っていなかった。
日常に不満はない。アイドル活動は悪くない。でも、幸せというのはそういうものでいいのか。それが漣にはわからなかった。自分自身は確かに幸福なのに、他人の語る幸せの形を見ているとなんだか自分が間違えているような錯覚に陥るのだ。
「どれになさいますか?」
柔らかな笑顔で店員が笑う。ケーキを買いに来る人間も、売る人間も、みな笑顔なのだろう。
「…………生クリームと苺ののったやつ」
それは自分のものではない人間の、幸せのキーワードだった。漣はこれしか知らなかった。いつか話に聞いた幸せの形しか知らなかった。
「苺のショートケーキを……おいくつですか?」
「ひとつ」
そうして小さな箱に収められた幸せ一つすら、彼の手に余るものだった。
麗と四季、2人と別れた漣の足はタケルのアパートへと向かっていた。
これが奇妙な風習の始まりだった。
漣が乱暴にドアをノックすれば、うんざりとした顔でタケルがドアを開ける。
この頃には漣は定期的に――たとえば雨を凌ぎにだとか、暑さや寒さに耐えかねてだとかで――タケルの家を訪れていたので、漣がタケルの家のドアを叩くことはそれほど珍しいことではなかった。
出てきたタケルに漣は無言で箱を押し付けた。タケルはその箱がなんだかわからなかったようだ。
「……あがるか?」
「ん」
部屋の中は暖かかった。漣は上着を脱いでその辺に丸めた。それを見たタケルはため息をついたが、その上着をハンガーに掛けてやることはしなかった。
タケルは箱をあけて驚いた。中には少し形の崩れたショートケーキが一つだけ入っていた。
どういう意図なんだろう、タケルは思う。これは俺の為のものなのだろうか。それは考えにくかった。かといって、わざわざケーキを自慢しにここまできたということはないだろう。だけど、自分の為だけにショートケーキを買ってくる漣は想像することが難しく、まだこのケーキを目の前で食べる漣を想像する方がタケルには容易かった。
「これ、なんだ?」
「あ?ケーキだろうがどっからどーみても。オマエ、ケーキの見た目も忘れちまったのか?」
質問が悪かった。だが、それにしては暴言を吐かれた気がする。
「違う。なんで1つだけなんだ」
そう聞けば押し黙ってしまう。
「オマエのか?」
「なんでオレ様がオレ様のケーキをオマエに渡すんだよ。チビに恵んでやろうっていう……なんつーか、気まぐれだ」
だから、感謝して食うんだな。そう宣う男はローテーブルに出してあったタケルの水を我が物顔で飲んでいた。
ケーキは甘くておいしかった。
ただ、なんにもない日にケーキを食べるのは慣れなくて、タケルにはすこし違和感があった。
それはたとえば315に入って初めて誕生日を祝われた日に少し似ていた。幸せに対する、違和感だった。
そして、蜂蜜色の瞳がずっとこちらを見ているのも、なんだか落ち着かない気分にさせられた。
普段はテレビがついていればそちらを見ているのに、今日の漣はタケルのほうをじっと見ている。白いクリームと柔らかなスポンジが嚥下される様を、満足そうに、つまらなそうに見つめていた。
半分ほど食べた辺りで、耐えきれなくなったかのようにタケルが口を開いた。
「次は自分の分も買ってこいよ」
言ったあとで、まるで次をねだってしまったみたいだと思い直して付け足す。
「次があるなら」
そう言いながら、タケルはきっと次なんてないと思っていた。
「なんで」
「なんでって……1人で食べてるのって落ち着かない」
オマエも食えよ、と言えば、漣の体が静かに動いて距離を詰めてきた。あ、と口を開けてくる。
そういう意味ではなかったのだが、フォークでケーキを掬って口に入れてやる。苺がたっぷりと入ったケーキはどこを掬っても苺が入っていた。
「なぁ」
幸せか?終ぞ、漣は口に出すことができなかった。
これが奇妙な習慣の始まりだった。
***
この日を境に、漣はタケルにショートケーキを買ってくるようになった。言われた通り、タケルの分と自分の分。
本人は気がついていないが、ケーキを買うときには法則があった。
1・牙崎漣と大河タケルの仕事先が違うとき
2・仕事の帰り道にケーキ屋があるとき
3・円城寺道流がいないとき
この条件が揃うと、漣はケーキを買って帰った。もちろん、気まぐれな彼のことなので、買う日もあれば買わない日もあったけど。
この頃にはソロでの仕事や他の315プロのアイドルとの仕事が増えてきていて、漣がケーキを買って帰る日はそれなりに多かった。
タケルには理由がわからなかった。それは仕方のないことだった。漣にだって、自分の行動に理由がよくわかっていなかったから。
***
「おや、タケルくん。何か悩み事かい?」
「神谷さん……と、東雲さん。いや、悩みってほどじゃないんだけど」
事務所でぼーっとしていたら神谷と東雲の2人に声をかけられた。悩みがあるか、だなんて。顔に出ていたのだろうか。そう問い掛ければ、いつもやってるゲームをしてなかったから、と言われて少し納得した。確かにゲームをする気分ではなかった。
それは奇妙な習慣が3回か4回ほど続いた日のことだった。確かにタケルは悩んでいた。
「最近……よくケーキをもらうんだ。もらいっぱなしだから何か返したいんだけど……全然浮かばなくて」
「ケーキですか」
嬉しそうな東雲さんの声。そう言えばCafe Paradeで食べたケーキはとてもおいしかった。あのケーキを作っていた人。
「そのケーキはもらって、一緒に食べたりするのかい?」
「ああ、いつも一緒に食べてる」
「じゃあ、タケルくんは一緒に食べるときに、とびきりの紅茶を用意するのはどうかな?」
「……紅茶?」
「それはいいと思いますよ。飲み物が特別だとケーキもおいしくいただけるでしょうし」
「ああ、素敵な時間がもっと素敵になるよ」
言われて気がついたが、いつもケーキを食べるときの飲み物なんて気にしたことがなかった。
そうしてみる。そう伝えて礼を言えば、紅茶を選ぶときには力になるよ、と神谷が笑った。
紅茶のことはわからないから、紅茶は神谷さんから買わせてもらった。
(わけてあげると言われたので、丁重に断った)
家には急須もないので、帰り道にガラスのまんまるいティーポットを買った。
猫の手がついたマグカップを二つ買った。白猫と三毛猫。
こうして奇妙なお茶会の準備が整っていった。
***
茶葉を何グラム、と言われてもピンとこないので、紅茶を入れるときはもっぱらティーバッグで入れるようになった。茶葉で入れた最初の紅茶はあんまりに濃すぎて水道水で薄めて飲んだし、二度目の紅茶は薄すぎた。はかりかティースプーンを買うべきかというタケルの問いに、丁寧に煎れれば、ティーバッグでも十分においしい紅茶が飲めると神谷が教えてくれた。なんとなしに何かを諦めたような気分になってしまい、タケルは少しだけ不満だったけど、ティーバッグは確かに失敗もなくておいしい紅茶が飲めるので納得することにした。ゴミも片付けやすいし。おかげで買ったまんまるのティーポットは、はじめの数回っきりの活躍以来、出番がなかった。
コップは白猫が漣で、三毛猫がタケル。選んだのはタケルだった。どちらのコップにするかと問い掛けたとき、漣がどちらでもいいと答えたからだ。
投げかけた問いがそのまま帰ってきて、タケルは少しだけ戸惑ってしまった。タケルはだいたい、こういうものを選ぶときに最後に残ったものを手に取っていたから。そして、それが苦だったことはあまりないからだ。だから少しだけ迷ったあとに三毛猫のカップをとった。三毛猫がほしかったわけじゃない、白猫は目の前の銀髪の男のイメージに近かったからだ。
漣はと言えば、マグカップにこだわりはなかったから何も言わずに渡された方のマグカップを受け取った。そもそも漣にとって、どちらがいい、という問いは慣れないものだった。与えられる何かを、誰かとわけあった記憶がなかった。
神谷に言われたとおり、カップを温めてからお湯を注ぎ、ゆっくりとティーバッグを浮かべ、(相応しい皿がないので平皿で)蓋をして1分蒸らす。
蒸らしている間に漣がケーキを箱から取り出してタケルの並べておいた皿に並べる。奇妙なお茶会にはこういったルーチンが自然と生まれていった。
何度も配膳を繰り返すうちに漣はケーキというものは丁寧に取り出さないと簡単に崩れてしまうものだということを知ったし、タケルは少しだけ紅茶の種類に詳しくなった。
だけどケーキを食べているときの沈黙は初めて漣が小さな箱を手に訪れた日と変わらず、いつも彼らは流しっぱなしのテレビの音を聞きながら黙々とケーキを食べた。
***
何故漣はケーキを買ってくるのだろう。タケルは常々疑問に思っている。
きっと、それは優しさだ。それは理解している。ただ、この奇妙は習慣が半年近く続いていることが不思議だった。
冒頭で述べたように、タケルはきっと原因はCafe Paradeであの日にした会話だろうと自惚れている。それは間違いではない。
漣にとってあの会話は、初めて見つけたタケルの幸せの形だったからだ。
何も漣は常日頃からタケルの幸せを敬虔に祈っているわけではない。ただ、あのゴシップ誌の一面は少なからず、漣にも衝撃を与えていたのだった。
漣に母はいない。父親と呼べる存在はいたが、それは彼に取って師と同意語で、親子のふれあいのようなものがあったわけでもない。この二つは自覚することができない漣の傷だった。本人すら気がついていないその傷は、漣が世間に、世間が言う『両親』という偶像に触れるたびに自覚なくじくじくと腐っていった。その無自覚な傷が、父も母もいないタケルの境遇とどこかで重なったのかもしれない。彼はきっと、ただタケルに優しくしたかった。
その憐憫とも慈愛ともつかない、友愛と呼ぶには愚直すぎる感情を伝える手段を漣は持っていなかった。その感情は日常で忘れ去られ、ふとしたときに思い起こされては漣の胸中をかき乱した。きっとその優しさを普段の乱雑な会話で伝えることができたなら、彼はケーキを買わなかった。伝えることのできない持て余した感情に、もっとも柔らかく甘い形を与えたものが彼にとっての苺のショートケーキだった。彼は彼なりの精一杯で、タケルを甘やかしてやりたかった。
その気持ちは柔らかく甘い形を与えられ、正しく受け渡され確かにタケルの手元に収まった。だが、タケルはそれを彼からの愛情だと受け取るのは、なんとはなしに気恥ずかしかった。ありがとうの言葉を紅茶に沈めて、お揃いのマグカップで飲み合った。猫のしっぽが持ち手になった色違いのそれを、口にはしないがお互いがとても大切にしていた。
漣は変わらずに苺のショートケーキを買ってくる。季節は初夏。牙崎は21才になっていた。
冬がくればタケルも二十歳になる。2人とも、大人になるのだ。
それでもこの奇妙はお茶会は続く。きっと、知らない人がみたら口を出さずにはいられないような奇妙なお茶会。ケーキは毎回苺のショートケーキだし、もうじきに暑くなるのに紅茶はホットのままだった。それは2人が変化を望んでいなかったからではなくて、他の手段を知らないせいだった。タケルはアイスティーのいれかたを知らないし、漣は苺のショートケーキ以外のケーキの名前を知らない。
タケルはきっと夏になったら神谷にアイスティーのいれかたを聞くだろう。でも、もしかしたらクーラーを効かせた部屋で今まで通り暖かい紅茶を飲むのかもしれない。ひょっとしたら紅茶に飽きて別の飲み物を買ってくるかもしれない。コンビニで買える飲み物全部を冷蔵庫にしまって漣を待つのかもしれない。彼はきっと変わることができる。幸せを更新していける。
それでも漣はずっと苺のショートケーキを買ってくるのだ。
ケーキを食べるときの沈黙は決して破られることはない。なんだか、そういった儀式かのように黙々と2人でケーキを食べる。
それは優しさと愛情のやりとりだった。普段の会話では届かない感謝だとか、好意とか、そういった暖かな気持ちがケーキと紅茶に形を変えて小さなローテーブルに収まり、銀色の食器で小さく切り分けられ、それぞれの喉を通り胃に落ちていった。
漣は苺のショートケーキ以外のケーキを買わない。幸せの形がうまく結びつかない。だから、タケルの話した幸せな記憶を借りるようにして、なんとか幸せと、この柔らかな食べ物を重ね合わせていく。苺のショートケーキばかりをたくさん食べた。いつか四季が言った通りになった。ケーキを一緒に食べる相手はいつも同じだった。それは存外、悪くはなかった。
タケルもこの半年で、多分今までに食べたケーキの量を超える苺のショートケーキを食べた。それは思い出を上書きしてしまうことなく、その思い出に寄り添うように新たな思い出としてタケルの中に残った。時折、本当にたまに、離ればなれになった弟妹と、漣と、道流と、5人でケーキを食べる想像をした。
タケルは二十歳の誕生日が過ぎたら、この思い出と一緒に少しだけ過去のことを話すつもりだった。漣は臆病ではなかったけれど、他人の柔らかい部分に踏み込むのはいつまでだって苦手だった。
きっと、この習慣はいつかなくなる。漣のきまぐれでいつだって終わってしまうこのお茶会は、双方いつか終わるものだと漠然と思っている。否、知っている。それでも、きっとそれまでは当然のように続くのだ。それがいつ終わるのかはわからない。タケルが変わるのが先か、漣が変わるのが先か。
彼らが変わるのはいつだろう。
きっと、タケルが二十歳になったって、苺のショートケーキを用意した彼らが飲むのは酒ではなく暖かい紅茶なのだろう。
漣はどんなケーキ屋にだって行ける。どんなケーキだって買ってこれる。だけど、彼は変わらずに苺のショートケーキを買ってくる。
つやつやとした光沢のオペラ、いろいろな果物の乗ったタルト、大人しか食べられないブランデーケーキ、何層にも重なったミルフィーユ。いくつもあるうちの幸せの形を彼は無理に知ろうとしない。選択を間違うのが怖いわけじゃない。ただ彼はタケルの思い出を辿るように、今日もようやく手に入れた幸せのキーワードを口にする。
「生クリームと苺ののったやつ、ふたつ」