映画なんていらない「映画なんていらない」
僕には映画が必要だ。
僕は世界に必要とされてないけれど、世界には僕の必要なものがある。
***
世界には不必要なものがある。あってもいいけどなくてもいいみたいな、そんな存在。
僕の人生はきっとそれだ。たまにそういう考えに指先までが支配されて身動きが取れないとき、そういうときに僕は映画館に来る。
ひとつの人生がエンターテイメントとして消費されていく様子を眺めながら、誰もいない映画館で細々と息を吐く。こうやって消費した人生は作り物に過ぎないけれど、その事実に僕は安堵する。必要とされない人生と娯楽として消費される人生、このふたつはどちらがマシだというんだろう。
きっとこの映画館も世界にとって不必要なものだ。だって僕以外の客はいないし、僕だってここがなければ他所に行く。それでもこの寂れた映画館に僕は通う。制服を着て、学校に行くだなんて馬鹿げた嘘をついて。
高校二年生は大事な時期だと先生は言う。先生がそんなことを言うから親もそう言う。一年間かそこらで決まる人生に価値を見出せず、僕は困惑する。まぁ、あの日、たったの一瞬で僕の何かは途絶えてしまったんだけど。
ぼやりと光るスクリーンではミミズ人間が科学者に、なぜ自分のような悲しい生き物を生み出したのかを問うていた。ミミズ人間は本来だったらこの農村を豊かにするはずだったのに……えっと、なんだっけ。まぁとにかく、悲しい生き物に成り果ててしまったわけだ。
慟哭するミミズ人間。ここが彼の人生の大舞台なんだろう。それに比べて僕の人生のターニングポイントはなんともかんとも地味だった。それでも、あの瞬間を思い出すだけで死にたくなる。その瞬間と、それに付随する思考。
それでも声が出ないのは、ここが映画館で僕が誰もいない空間ですらルールを破る度胸もない凡庸な人間だからだ。赤ん坊のように、あるいは聞き分けのない老害のように声を荒げるには、十七才という年齢はあまりに不自由だった。
ミミズ人間みたく、当たり前に虚構になれたらいいのに。僕は淡い光を放つ銀幕とカタカタとなる映写機に身を委ねて悲しい現実を打ち消した。
スクリーンの人生が沈黙するまでの安寧。僕にはどうしても映画が必要だった。
***
休日はふたつのいいことがある。ひとつ、親に嘘を吐かなくていいこと。ふたつ、制服を着る必要がないこと。
ひとつめは言わずもがな、機微の薄い心にも当たり前に居座る良心が痛まなくてよいというのが良い。ふたつめは簡単で、それ故に非常に大切なことだ。
制服というのは集団に属するという記号だ。制服だらけの教室に同じ制服を着て座っていれば、それだけで僕自身がどういう人間であれ、簡単に高校生になれる。
しかし、私服のなかに制服がひとりだけ混じっていればどうなるか。属している集団が明確な人間が相応しくない場にいれば、それだけで人間は孤立し、孤独になる。まぁ、早い話がどうしようもなく浮くのだ。警官だとかには絶対に鉢合わせたくない。彼らは僕の憂鬱などを考えず、すみやかに公務を執行するだろう。
かと言って足早に映画館まで急ぐのは何かが違う。僕は無意識の範囲で一番ゆっくりとした速度で歩く。裏路地を歩くのはやましさではなく、ただあの古ぼけた映画館が裏路地の奥の奥にあるだけだ。どうしようもなく行き場のない人間で、限りなく幸運な人間が辿り着ける場所。それがきっとこの映画館だ。
もう日差しが強くてクラクラする。部活のおかげで体力には自信があるが──演劇部は実は体育会系だ──暑いものは暑い。透けるのが嫌だからと黒い服を着てきたのが仇になった。そういえば、アリって黒いけど暑くないのかな。
路地裏は日陰が多いだけマシだが、そのぶん風通しの悪い空間には不快な空気がどんよりと居座っている。蜃気楼など燻るはずはないが、どことなく風景は歪んだように見えていて──その世界の隅っこに、彼はいた。
ちか、と光が反射して瞳を刺した。ガラス片か何かだろうかと思ったが、その光は熱を帯びている。退屈を裂いた光に目を向けると、そこには銀色の長い髪をだらりと垂らしてうなだれる人間がいた。
一瞬女性がうずくまっているのだと思ったのだが、よくよく見ると男の人だ。スポーツウエアのような服にダボダボのズボンをはいている。顔は見えない。銀色の髪は染めているにしてはやたらと美しく、当たり前だというように世界に溶け込みきらめいていた。地毛だろう、と勝手に納得をする。外国人だろうか。
「あの……大丈夫ですか?」
この暑さだ。加えてこの色素の薄さは夏に溶けそうで心配になった。きっとあまり暑くない国から来た人が弱ってしまい、日陰に避難して座り込んでいるんだろう。
僕が声をかけると、彼はバッと顔を上げた。神秘的な金の目が開かれた瞼の下から僕を見上げている。
顔は赤かったが、夏なら普通だと言える顔色だ。僕は思ったより元気そうな彼に対する言葉を想定していなかった。そもそも、彼に日本語は通じるのだろうか。
「えっと……大丈夫?」
もう一度言った。言葉の壁は僕の表情で乗り越えてほしい。しかし、彼は僕を見ている。視線は訝しげで好意的ではない感情がありありと伝わってきた。
「……メイアイヘルプユー?」
これで伝わらなかったら諦めよう。正直、声をかけたことを後悔していた。映画館に行くのは惰性だから正直時間はどうでもいいんだけど、心を休めるための映画に辿り着く前に疲弊したいとは思っていない。返事がなかったらソーリーとだけ言って逃げよう。もう一度うなだれたなら警察だ。僕だって消費税を納めている身分である以上、頼る権利は持ち合わせている。
「……アァ?」
「……へっ?」
出てきたのは不機嫌にも取れる声だ。しかし、多感な時期である僕は理解する。これは何故声をかけられたかわからずに、きょとんとしている声なんだろう。
「んだよ、オマエ」
言葉遣いが悪い。もしかしたら、あまり治安のよろしくない人に声をかけてしまったのかもしれない。
「……いや、暑いし、あの……具合が悪いと思って……」
もう逃げたい。でも追いかけてこられたら怖い。いや、そんなことはしない気もするのだが、会話が成立してしまった以上それをこちらの一方的な都合で打ち切るのはためらわれた。
「……最強大天才がこんな暑さでへばるかよ」
「さいきょ……あっ、そうですか……」
問題なし。帰ろう。いや、映画館に行くんだけど。
だが立ち去ろうとするのは彼の方が早かった。彼は思いきり立ち上がり──そのまま僕の方に向かって倒れ込んだ。
「へぇっ!? あ、だ、大丈夫ですか……?」
「……チッ」
返ってきたのは舌打ちがひとつ。本当に態度が悪い。腹は立たない。ただ、ただ、怖い。
「やっぱり具合悪いんじゃ……」
でも、それ以上に彼が弱っていることはわかった。僕は自分が善人だと思ったことはないが、ここまで話しかけた相手を見捨てることはできない。それは善意じゃなくて、見捨てた自分を認識したくないというたんなるエゴなんだけど。
「……暑ぃだけだ」
「ああ……今日は暑いですもんね」
「だから日陰で寝てたんだよ。したら……」
「……寝てた?」
口ごもる彼に疑問を投げかけてしまった。つまり、言葉のキャッチボールを再開してしまったということだ。
それでも流石に聞き流せなかった。ここで寝るというのは些か無防備が過ぎるし、そもそもこの気温で寝るのは自殺行為だろう。夏休みは近いだけで僕らは学業に勤しんでいるが、気温は夏休みに負けず劣らず、目の前の男に似つかわしくない凶悪さで日本を釜茹でにしている。
「えっと……寝るなら、家とかホテルとかに戻った方がいいんじゃないかな……」
「はぁ? なんでテメェにそんなこと言われなきゃならねぇんだ」
この人、人の好意を受け取らないタイプの人間だ。しかし顔に出たのは不機嫌ではなく、そういう人間に応対しているという恐怖からだろうか。いや、恐怖まではいかないのだが、正直僕は彼にビビっている。
「……あと、オレ様の住所は地球だ。路地裏も公園もオレ様のもんだし」
「えっと……」
つまり。
「……ホームレス?」
「ほーむれすぅ?」
いよいよヤバい事態になってきた。これは本当に警察の案件かもしれない。
「……家がないなら、警察とかに言って」
「だから、地球がオレ様の住所だって言ってんだろ」
拉致があかない。彼は体勢こそ立て直したが、未だに荒い息を吐いている。
「んん……とりあえず、何か飲んだ方がいいですよ。それで、涼しい場所に行って……」
思えば、なんでこんなことを言ったんだろう。ただそのときだけ、僕はとても良いアイデアを思いついたように感じてしまったんだ。
「……飲み物もあるし、クーラーも効いてます」
「なにが」
「僕と一緒に行きませんか? 少し行ったところに映画館があるんです」
こないなら置いていってしまえ。僕は歩き出す。
彼は不思議そうな顔をして、僕のあとをふらふらとついてきた。
***
「えっと……暑いですね」
「ん」
「……あの、名前は?」
「アァ?」
「あっ、あの……」
「チッ……牙崎漣」
「れんさん……あ、僕は菅原五月」
「ふーん……」
「…………えっと、五月って書いてさつきって読むんだ。五月生まれだから、五月」
「別に、オマエでいいだろ」
「えっ? ……まぁ、二人しかいないから目的は達成されるけど……うん……」
僕らが道中にした会話はこれだけ。まぁ長くもない道中だから、悪くない、はず。
映画館は相変わらずの寂れっぷりだった。ツタの絡んだ洋風な扉を押して中に入れば、儲ける気のなさそうな受付に、やる気のなさそうな男が座ってスマホを弄っている。
正直なんで潰れないのかが不思議だが、おおかた金持ちが道楽でやっているんだろう。それか、これくらい古びていると文化財扱いで国から補助などが出ているのかも知れない。
「料金払ってくるね」
「あそこで金払って中に入んのか」
彼はそう言って、僕を置いて受付に移動する。取り残された僕は何故か、彼に日本語が通じるのかを心配してしまった。さっきまで日本語で会話していたくせに、この暗い色をした絨毯と照明にぼやりと浮いた彼は異国の人のように見えたから。
「大人? 子供?」
「大人に決まってるだろ。……ん」
映画館というシステム、あるいは受付の存在意義を理解したらしい彼がポケットから紙幣を取り出す。日本語は読めるのだろう。数字の意味は理解できるのだろう。彼はさっさと自分の分のお金を払って中へと入ってしまった。慌てて後を追う。「学生、一枚」
チカチカした蛍光灯の下で彼は待っていた。待っていた、というよりは何をしていいのかがわからなかったんだろう。いや、ひとつの目的を達成してしまったと言えるのかも知れない。彼は壁にもたれて座り込み、あろうことかそのまま寝ようとしてしまった。クーラーの効いた、この廊下で。
「あっ、あの、」
「んあ?」
「あの……ここ、廊下なんで」
「寝にきたんだろ……あ、飲み物もあるって言ってたな。飲み物は……そういや、ここなんなんだよ」
日本語は通じるが映画館は知らないのだろうか。知っていることを知らない。かと思えば知っていることもそこそこある。よくわからない人だ。
「えっと、ここは映画を見る場所で……」
「エーガァ?」
「……ムービー」
「むーびぃ」
日本語だから通じない、というわけではなさそうだ。映画を知らないなら、映画館の存在意義もわからないに決まってる。僕が入り浸っているこの場所は、彼にとっては初めて来る場所なのだ。寂れすぎて映画館というイメージと結びついていないわけでもないようだし。
「あっちに飲み物と食べ物が売ってるよ。こっちの部屋に椅子があるから、そこで休んだらいいんじゃないかな……あ、この中では静かにね」
「なんかめんどくせー場所だな……」
彼は売店で飲み物を買うとそれを一気飲みして、ホットドッグをあっという間に3つたいらげてしまった。そのまま、たったひとつしかないスクリーンへと続く扉を思い切り開けて暗闇へと溶けていった。慌てて後を追う。
スクリーンでは映画が終盤さしかかったところだった。二回くらい見たから知っている。この映画館は古そうな映画とよく分からない映画が繰り返し上映されていて、受付でチケットを買えば一日中居座って良いのだ。だから僕はしょっちゅうここで硬い椅子に背を預けてる。
どの椅子に座ってもいいと教える前に、れんは一番うしろの椅子にどっかりと腰掛けて目を閉じていた。今度は具合もよさそうだ。路地裏でそうしたように、眠るつもりだろう。
ぼやりとしたスクリーンの光は月光のようで、それはひとつの記憶を呼び起こす。そっとれんの横に座って記憶の糸を手繰り寄せ、思考に沈み込む。
僕、きっとこの人にあったことがある。確かめるように見つめた横顔はもう眠っていて、ヒロインが静かに主人公を諭すだけの静寂が仄かに明るく彼を包んでいる。その人工的な淡い静寂は、夏の陽光よりもよっぽと彼に似合っていた。
***
思い出した。思い出したってことは忘れていたってことだ。朧気なイメージを束ねて記憶を紡いでいく。
あの日は空気が冷たくて、月の綺麗な夜だった。もう何年も前のような気がするけど、要素を挙げてみるとそれは半年前の話だ。だってあの公園は高校に入ってからの通学路にあるし、その日の僕はにくまんを持っていた。どうしてそんなにどうでもいいことは覚えているのかわからないけれど、買い食いが許されたのは高校に入ってからだから──やっぱりあの日は高校一年生の冬なんだ。
にくまんを持っていたこと以外が朧気だけど、学校帰りなのに月が出ていたからには何か用事があったんだろう。塾には通っていないし、部活でそんなに遅くなることはない。友人とよりよい演技をするための議論に熱中していたのかもしれないし、数学の先生がムカつくという感情を共有していたのかもしれないし、どうでもいい話に箸を転がして大笑いしていたのかもしれない。つまり、わからないけれど、月の綺麗な夜に僕はにくまんを片手に通学路にある公園を通りがかったんだ。
なんの変哲も無い公園だ。ブランコがあって、ジャングルジムがあって、ベンチがあって、封鎖された砂場がある。夜にはカップルがいたっておかしくないけれど、幸か不幸かカップルを見たことはない。不良もいない、ホームレスもいない、からっぽの時間が約束されたような公園だ。
からっぽの公園を通過するとき、僕は彼を見た。月明かりの結晶のような人間味のない光は『それ』と形容してもよかったかもしれない。
ジャングルジムの上に『それ』はいた。てっぺんでぼんやりと、ただ座っていた。
僕が立ち止まると、一度だけそれはこちらを見た。つまらなそうにこちらを見て、つまらなそうに視線を外した。ぼんやりを虚空を見つめる瞳が月を見ているのだと気がつくまでに僕はまばたき七回分の時間を要した。目線の行方もそうだけど、まずこの虚構のような存在を現実だと認識するのに時間がかかったからだ。
それは月を見ていた。その瞳には月が映ってきらめいていた。薄氷を湛えた月よりも黄金色に輝く、はちみつ色の光。透明なガラス玉に月を閉じ込めたような瞳はもう僕を見ることはなかったけれど、僕はそれから目が離せない。
ようやく目を離せた僕はにくまんを一口囓る。僕が鮮黄色の瞳に囚われていた時間はわからないが、にくまんは完全に冷え切っていた。僕は味のしないにくまんを早々に飲み込んで、改めてジャングルジムの上の存在に目を向ける。古そうなブランケットを羽織って、それは相変わらず月を見ている。
それ──いや、彼は生きていた。当たり前のことに気がつけたのは、彼の口元から真っ白な息が吐き出されていたからだ。それがなかったら、未だに『彼』は『それ』のままだっただろう。
きらきら、きらきらとしている。雪よりも深い銀色が淡い金色に照らされてきらきら、きらきらと瞬いている。街灯の灯りを無視して月明かりだけを抱いて光りながら、誰の言葉も待たずに存在している。ぼんやりとした灯りで、絶対的な温度を持ってそこにいる。金の瞳と銀色の髪。なんだか、とても贅沢な生き物だと思う。触れてみたかった。鋭そうで、柔らかそうで、割れそうで、冷たそう。ぐちゃぐちゃなイメージだけど、きっと心地いいんだろう。
しばらく見惚れていた。あのころ僕の人生はうまくいっていたから、ただ綺麗だとしか思わなかったんだ。日常に落っこちていた金色の宝石みたいで、二度と会えないんだろうなって直感があった。いや、それは望みだ。こんなお宝、何度も手にしてしまったら手垢で汚れてしまう。手に入るはずもない輝きを前に、そんなことを考えていた気もする。でもそれはきっといまだから思うことだろう。あのときの考えなんて本当は何一つ覚えていなくて、ただ鮮烈な美しさを覚えているだけだ。その印象以外の記憶は全部、こうやって振り返った僕が勝手にくっつけた感情だ。
それっきりだった。電話が鳴るでもなく、灯りが落ちるでもなく、ただそういうからだの反応みたいに足が動いて僕は帰路につく。
お風呂に入っても忘れなかった。夕飯を食べても忘れなかった。寝て、起きたって忘れなかった。僕は彼を──それをいつ忘れたのかが思い出せない。
***
ふと気がつけば映画も佳境だ。僕だけしか見ていない映画。いや、僕すら見ていない映画だ。誰からも必要とされない、世界に不必要な映画。
スクリーンが映し出す街灯は月明かりに似ている。ドキドキした。僕は横で眠っている存在を知っている。スクリーンの淡く人工的な光を受け止めてきらきらと光る髪は記憶よりもハッキリしていて存在を意識してしまう。
れんは相変わらず眠っている。おっきな口を開けて、でも意外とかわいい寝息で眠っている。
この生き物が好きなように振る舞えてよかった。喉の渇きを癒やして、空腹を満たして、寝たいだけ眠って。映画館が閉館しなければいいのにって心の底から思った。この映画館は僕みたいなつまらない人間が逃避してくる場所なんかじゃなくて、こういう綺麗なものを収めているのがとても似合う。映写機のリズムに身を任せてくぅかぁと眠るれんは、手繰り寄せた記憶そのままに美しかった。
言いたいな。僕とあなたは会ったことがあるんだよ、って。
覚えてないでしょって笑いたかった。そうしたられんは覚えてないって言ってくれる。そうしたら僕はやっぱりって笑うんだ。
そんなことを考えていたら映画が終わった。でもそんなものは無意味だ。れんはきっと眠りたいだけ眠るし、僕は映画に集中できない。懸念事項と言えば誰かがこの空間に入ってくることくらいだけれど、いままでの経験からそんなことはないだろうと確信に近い予感があった。
休憩が終わってまた映画が流れ出す。れんが横にいるのに、流れているのはミミズ人間。なんだかそれすらおかしかった。れんはミミズ人間を見たらなんて言うんだろう。きっとあの日みたいにつまらなそうな視線を向けて、すぐに興味が失せてまた月を見てしまう。ここに月はないのに、そんなことを考える。
ミミズ人間がカメムシモグラを切り裂くオープニングが流れ出した。初っぱなからB級映画に相応しい量だけは多い血糊が画面いっぱいに溢れ出す。
僕は相変わらずれんを見ている。真っ赤な光をぼやりと反射した髪はうっすらと茜色に染まっていて冬の日の短い夕暮れを彷彿とさせた。思わず、手が伸びる。
「っ……! ……んだよ。テメェか」
少しだけ、ほんの少しだけ伸ばした手が振り払われた。さっきまであんなにぐっすり眠っていたのに。いきなりのことに思考が止まるが、れんの気を損ねたことだけは理解できた。
「ご、ごめん。ただ……あの……」
不躾、だった。何も言えずに僕は狼狽える。髪が茜色だったからだなんて言えるはずもなかった。
「……別に。ただ、髪は触んな」
「う、うん……」
さっきとは違う理由で心臓がばくばくと鳴った。たった数時間一緒にいただけの人間に嫌われることくらいで、きっと僕は容易く死んでしまえる。それだけじゃない。全然足りない。僕の命の軽さに、彼との時間が釣り合っていない。
「……ねえ、あの」
「アァ?」
あの月明かりを思い出した興奮と心臓に落ちた氷のような恐怖がないまぜになっている。心臓の音が早い。この音が彼に聞こえたらいいのに。そうして、彼が心を動かしてくれたらどれだけ救われるだろう。
「……僕、一度だけあなたに会ったことがあります」
意を決して口にした。僕の人生のなかでもっとも誇らしい、世紀の発見を口にした。さっきまでの願望はもう見えなくて、ただ、ぼやけそうになる視界を保つために口を結んだ。
それなのに。それなのに。
「で?」
「えっ……?」
「だからなんなんだよ」
すーっと手先が冷えていく。れんは自分の感情ではなく、ただその事実に意味があるのかと聞いてきた。
なんでもないよ。なんでもない。僕があなたを見かけた、それだけ。意味なんてないんだ。あなたがそれを聞いて、何かを言ってくれない限り。
「……別に、それだけ」
「ふーん」
それで終わってしまった。れんはもう一度寝ちゃったし、僕はそれでもれんから視線を逸らせなかった。三回くらいれんの目が見たくて髪の毛を触ってやろうかと思ったけど、臆病な僕は何も出来なかった。僕はどうしようもなく凡庸で、彼はどう足掻いても異質だった。
のんびり、れんを見ていた。僕はれんに、僕の失敗を聞いて欲しかった。きっとれんは「だからなんなんだよ」って言うけど、そうやって、僕の失敗を意味の無いものにしてほしかった。
目覚めてほしい。こっちを見てほしい。僕の話を聞いてほしい。
願いは通じた。僕の思いは関係なかったんだけど。れんは普通に起きて、普通に立ち上がって、普通に出て行った。慌ててあとを追う。
「れん!」
劇場の外に出て、やっと声が出せた。れんはこっちを向いて『なんだよ』と言いたげな目でこちらを見る。
「……あのさ、話、聞いてほしい」
唐突だ。僕が演じたどの台本にもこんなに脈絡のないシーンはない。こんな脚本家の独りよがりじゃ観客は置き去りだ。それでも、このとき僕は確かに自分の人生という舞台にいた。
「……メシ食ってるあいだなら」
そう言って漣はまた売店に向かう。言いたいことを整理している間に、漣は抱えきれないほどの食べ物を持って戻ってきた。抱えきれないぶんの食料が入っているビニールがかさかさと揺れている。
「聞いて、僕は失敗をしたんだ」
れんは聞いているのかいないのか、ホットドックを頬張った。僕は構わずに続ける。
「演劇部やってるんだ。演技する部活。人の前で舞台に立って、物語を演じるんだ」
「えんげき……」
「台本があって、その通りに喋るんだ。僕はそれで失敗した。セリフがひとつ、でてこなかったんだ」
僕は失敗した。ステージの上で、たくさんの観客の前で。
飛んだセリフはたったひとつだ。どうでもいい一言。「あ、あじさい咲いてる」って、これだけ。
あってもなくてもいいセリフだった。ただ舞台袖に引っ込んだ友達が着替えるあいだの場繋ぎ。気がついた友達がすぐにフォローしてくれて、何事もなく劇は続いた。そのときは僕も言うべきセリフに戻って、舞台はつつがなく進行する。観客の誰もが間違いに気がつかず、演じている全ての人間がそのミスを忘れて目まぐるしく舞台上の世界はまわる。
そうして僕たちのステージはこのコンクールで金賞を取った。取ってしまった。
「あってもなくてもよかったセリフなんだ。でも、そのセリフが欠けただけで僕の舞台は不完全なものになってしまった。誰も気がつかない、誰も気にしない失敗なんだよ。それでも僕は、僕たちだけは知っている。舞台には台本があるんだ。あの舞台は完璧じゃなかったんだよ」
誰も責めてくれなかった。僕たちを包んでいたのは金賞を受賞したという興奮だけだ。僕はコンクールの表彰状を片手に笑っていたけれど、あのときから孤独の中にいた。誰もが忘れた欠落を、たった一人で抱えて息をしていた。
「あのときになにかがぷつって切れちゃった。台本にあってもいらないものがある。世界にはさ、必要がないものってあるんだよ」
れんは何個目かのホットドッグを飲み込んで、ストローから緑色の透けた飲み物を飲んでいる。
「………それだけ。たまに学校サボってここにいる。映画はミスがないから。いらないセリフもきっとない、完璧な世界だから」
僕はここにいる理由をこう定義づけた。きっともっと内蔵にはドロドロでぐちゃぐちゃした感情が渦巻いているはずだけど、それは言葉にした瞬間に僕を裏切るものだってわかっていたから。
れんはずっとこっちを見ている。月じゃなくて、僕を見てる。
「……おしまい」
「ふーん」
漣はゴミ箱に歩き出した。食べ終わったようだ。こういうところはちゃんとしてるんだなって思ったら戻ってきた。また、じっとこちらを見る。なんだか猫みたいだ。
「……それだけなんだけどさ」
「そうかよ」
今度こそ会話が終わったことを理解したらしい。オレ様は寝る。そう言い残してれんは劇場内に戻ろうとする。会話は僕が終わらせたはずのなのに、その手を反射的に掴んでしまった。
「……んだよ」
「くだらないでしょ、僕の話」
だから、どうでもいいって口にしてよ。僕の人生が狂った瞬間なんて、歯牙にもかけないって顔をして。
「別に」
れんはどう思ってたんだろう。何の気なしに口にして、さっさと劇場内に入ってしまった。
僕はれんを追えなかった。逃げるように家に帰って、お風呂に入ってご飯を食べて眠った。僕はれんのことを忘れることができなかった。
***
あの日かられんを見ていない。公園で見かけたときみたいに、彼は夢幻のように僕の前から姿を消した。いや、僕が彼に二回も遭遇したのがイレギュラーだったんだろう。
れんは僕を救わない。当たり前のことだけど、なんだか寂しかった。そして、とても惨めだった。二回あっただけの何も知らない他人に救われたがる自分が滑稽で惨めだった。
あの日から一ヶ月経った。映画館に行く頻度が減った。僕はこうやって日常に戻って、受験して、就職して死んでしまうんだろう。死ぬまで、もうれんには会えない予感がしていた。
それなのに、その予感はあっさりと裏切られた。部活の後輩が持ってきた雑誌に当たり前みたいにれんはいた。なんでも、新人アイドルらしい。なんだよそれ。
彼のいる舞台が満ち足りた完全なものでありますように。彼が大失敗をして不完全な世界を背負って胸に風穴を空けられますように。どっちも本心だ。願うくらいいいだろう。れんは失敗したって僕みたく落ちぶれてくれない。寝るときだって大口を開けて眠るんだ。
雑誌を見た翌日、僕は映画館に行った。よっぽど気に入られたのか、いまだにミミズ人間が上映している。
オープニングの血飛沫。赤く染まる画面。思い出す、淡い茜色を映す銀の髪。
やっぱり僕には映画が必要なんだと思う。それでも、いまは目を閉じる。きらきらとした美しいものに心を刺されて、同じくらい慰められる。
僕を見るはちみつ色の瞳。ひらりと舞う銀色の髪。あの日見た、ぼろぼろのブランケットにくるまって月を見ていた青年。
僕の横で眠るれん。僕もそっと目を瞑る。血を映す茜色。空を映す稲穂の色。暗闇に沈む銀。僕には映画が必要だけど、いまは、いまだけは。