溢れる、 この感情が理解できたら、何かが変わるのだろうか。
***
テレビ画面の右上。攻撃力、防御力、すばやさ。パラメータの横、冒険を共にする少女の真っ赤に染まったハートマーク。
「よっしゃー! 親愛度マックスになった!」
「これでようやく絆の必殺技が使えるな」
そう言って笑う恭二さんと隼人さん。早速モーションを見ようと兜さんがコントローラーを握る。それをぼんやりと見ながら思う。
こうやって、気持ちが目に見えたらいいのに。
「ん? どうしたんじゃ? タケル」
「……ん、ああ。なんでもない」
絆を結んだ少女との必殺技が、テレビ画面の中でキラキラとした星を散らしていた。
こんなふうに、わかりやすく感情が見えればいいのに。
***
俺は何も、他人の感情が覗き見たいわけじゃない。俺はただ、自分の感情が知りたかっただけだ。
嫌いになれたらきっと楽だ。好きだと思えたらきっと何かが変わる。それでも、そのどちらにも心が動かない。いや、違う。きっと、俺はどちらの感情にも振り回されている。
そうして、自分の中で徐々に存在を増していく人物を思い出してため息を吐く。
牙崎漣。
ラーメンが好き。きっとたい焼きも好き。同じユニットの人間。仲間、とは言いにくい。友達、ではない。円城寺さんが兄弟みたいだと言うが、そんな括りは御免だ。そもそもアイツは人間かどうかも怪しい。そんなありえないことを考えてしまうくらい、なんだか現実味のない存在。
そうして、アイツのことを脳内に羅列して思う。俺はアイツのことなんて何も知らない。きっとそんなんだから、アイツに関する感情も見えないんだ。
もしもゲームだったら、好きなものをあげるだけで仲良くなれるのにな。何回たい焼きをあげたら、アイツの親愛度はマックスになるんだろう。これがゲーム脳ってやつなんだろうか。親愛度上げなら、攻略法があるのに。
そこまで考えて、首を捻る。俺は、アイツと仲良くなりたいんだろうか。
疑問はスタート地点に。俺はアイツとどうなりたいんだろう。アイツのことをどう思ってるんだろう。
ああ、ゲームみたいに、感情が目に見えたらいいのに。
***
眠っている。理解している。眠っているのに意識がある。きっと、ここは夢の中だ。
五感がはっきりしている。とてもふかふかとして太陽の匂いがする、毛足の長い毛布の上にいる。気持ちよくて、ずっとここに沈んでいたい。
でも、なんかこの毛布、ゆっくりと上下してる。
このまま眠って目覚めを待っていてもよかったけれど、毛布らしからぬ動きに立ち上がってみる。なだらかな坂になっていた毛布から、体がずるり、と落ちた。
落ちた先はぷにぷにしていた。マシュマロの上、みたいな。足が少しだけ沈む。なんだか、ずいぶんと柔らかな夢だ。
にゃあん。
唐突に、背後から猫の声。結構な音量で聞こえたそれに振り向けば、自分の何倍もある大きな猫がいた。
「……コイツの上で寝てたのか?」
にゃぁん。
肯定するような猫の声。どうりで気持ちがいいわけだ。
どこまでも真っ白な世界。大きな大きな銀の猫。やることもなかったので、猫のお腹に埋もれて思い切りもふもふを楽しんだ。噛まれたとしても、夢の中だし大丈夫だろう。
しかし、最高の夢だ。ぐるぐる、悩んでいたから癒やしがほしかったのかもしれない。俺の深層心理も、よいことをするものだ。
いい夢だな。大きな猫に埋もれながら思う。夢は覚めないと困るけど、もう少しだけこうしていたい。いつ、目が覚めるんだろう。
「もうすぐだよ」
俺が抱きついてた猫が突然喋った。さっきまでにゃあにゃあ言ってたのに。まぁ、夢だからさほど驚かない。
「そうか……残念だな」
「しかたないよ。でもね、もうすぐねこかみさまがくるからね」
「猫神様?」
「ねこかみさまだよ。ねこかみさまがきたらね、ちゃんとしてね」
それまではこうしててもいいけど。そう言って大きな猫は眠ってしまった。
猫神様。多分、猫の神様だろう。神様が俺に何の用なんだろう。いや、考えるだけ無駄か。全部、俺のよくわからない夢なんだ。
じゃあ……ん。
唐突に鳴った銅鑼の音。振り返れば猫の大群。そのどれもがキレイな、銀色の毛並みをしている。
そして、大勢の猫を引き連れてこちらに歩いてきたのはこれまた猫だった。真っ赤なマントを纏っている。同じように銀色で、黄色の目をしたキレイな猫だった。
「……オマエが猫神様か?」
「いかにも」
この猫も喋るんだな。
そんなことを思ったら、見慣れた毛並みの猫が猫神様の横に出てきた。
「チャンプ!」
「いかにも」
代わりに答えたのは猫神様だった。猫神様はチャンプとしっぽを絡めながら告げる。
「ねこのおんがえし」
「……え?」
聞いたことがある単語。映画の名前だっけ。
「かなうよ」
チャンプが口を開く。そのまま大きく開いた口に飲み込まれて、視界が真っ暗になった。
***
もふもふとは程遠い感触。見慣れた天井と手に馴染む煎餅布団。夢が覚めた。そう思った。そして、それはその通りだった。
奇妙な、しかし幸せな夢を見た。ぺらぺらとした布団の感触に、今年の冬は毛足の長い毛布を買おうと心に決める。
ねこかみさま。ねこのおんがえし。あれはチャンプの恩返しなのだろうか。俺はチャンプに恩返ししてほしいのだろうか。そんなことはない。だから、アレが深層心理だとしたら、それは悲しい。
かなうよ。
叶う、ということか。一体何が叶うのだろう。
一瞬、ずっと探している存在が脳内を通りすぎる。なんだ、俺はついに神頼みでも始めたのか。呆れながら考えを頭から追い出す。神様なんかに頼らなくても、俺はあいつらを見つけてみせる。
大丈夫、大丈夫。息を深く吐いて、また吸って。自分の夢に振り回されるなんて、まっぴらだ。
ただでさえ、自分でもわからない感情に振り回されているってのに。
起き上がると、背後からカラン、という音が聞こえた。心当たりのない音に振り返ると、自分に部屋にはなかったはずのものがある。
無骨で、透明な瓶。その中に、紫色の金平糖が一つだけ入っていた。
不思議な夢を見た。ここまではいい。だけど、それは不思議なことが起こっていい理由にも、その原因にもならないはずだ。
枕元にあった瓶。最初は誰かのイタズラかと思った。誰か、なんて。心当たりは一人しかいないけど。
でも、その瓶はまるで普通ではなかった。大した重さもなさそうな瓶は、なぜだか持ち上げることができなかったのだ。
重たい、という感覚はない。それでも、ピクリとも動かない。叩くと、ガラスの音がする。ぴり、と瓶の中の金平糖が揺れた。
「……猫の恩返し?」
それが、これだと言うのか。こんなの、アイツのイタズラだ。
不用心だった。きっと、鍵をかけ忘れたんだ。どうせアイツは勝手にあがりこんで、適当に寝て、珍しく俺より早く目が覚めて帰っていったんだろう。金平糖は宿代のつもりか。瓶が持ち上がらなかった事実からは目を背けて、そう結論付ける。
恩返し。猫はアイツのことだったのだろうか。これが恩返しだとでも言うのだろうか。小さな金平糖を手にとって、まじまじと眺める。透明な、悪意のない毒のような紫色。
なんで、俺はそれを何も考えずに口にしたんだろう。
「……なんだコレ」
それは明らかに、血の味がした。
***
今日はレッスンだ。気持ちを切り替えてなくてはならない。例え朝、窓もドアも鍵がかかっていた部屋に謎の瓶が置かれていたとしてもだ。
気持ちはすぐに切り替わった。切り替えなくては、ついていけなかった。
今回の振り付けは円城寺さんを中心として俺とアイツがシンメトリーになるように踊る。いつもは俺がセンターだから、なんだか不思議な感じがした。
認めたくないけれど、アイツの身体能力は高い。常識はずれの域だ。だから、集中しないとあっという間に置いていかれる。加えて、アイツは自分勝手にアレンジを加えてくるから、自分の振り付けだけじゃなくて、アイツの一挙手一投足にまで気を払う必要がある。
オマエのほうが余裕があるんだから、こっちに気を使え。だなんて、死んでも言えない。俺はムキになってついていく。アイツが俺を嘲笑うように、勝手にステップを変える。
「……っ、オマエ、勝手なことばっかりするなよ!」
「ハッ! ついてこれねぇ言い訳してんじゃねーよ!」
俺のまっとうな意見はコイツの決めつけのような発言に遮られる。腹をたててる暇もない。ステップ、ターン、ステップ。
あ、ここなら。
勝負時に感じるような、直感。そう言えば、ボクサー時代もこんなふうに相手の動きがスローで見えることがあったっけ。
アイツが見せた一瞬の隙に、こちらもアレンジを加えたステップで、一歩前に出てみせる。
「……ついてこれない言い訳、するか?」
「……上等だ!」
噛み付くようなアイツの声。腹の底がぽっ、と燃えるような感覚。怒りとは明確に違う、何か。
「ほどほどになー」
円城寺さんの声も耳に入らない。いや、耳に入ってはいるけれど反応ができない。ここで意識を逸らして、アイツを見失うわけにはいかない。
こんなの、意味がない。お互いに思いつきのステップ。ライブで再現なんて不可能だ。
それでも、張り合ってしまう。なんだか、アイツに対する正体不明の感情が掴めそうな感覚。手を伸ばせば届くのだろうか。それでも、今は目の前のアイツしか見えない。
ダン、と。ステップが揃う。アイツの頬が赤く染まって、息が高揚している。きっと、俺も同じような感じなんだろう。
気分がいい。きっと、アイツも。お互いに限界を引きずり出されたあと、胸に満ちる感情。
ああ、まただ。こいつの正体がわからない。もしもこれが見えたら、きっとこの関係にも答えが出るのに。
***
散々動いて腹が減った。いつも通り男道ラーメンに行って、いつも通り競うようにラーメンを食べた。
いつもと変わらない日常。だけど、いつもと違うこともあった。アイツが俺の家に来た。
てっきり、円城寺さんの家に泊まるか、また俺たちの知らないところで眠るのかと思っていた。だけど、アイツはまっすぐに、我が物顔で俺の家にきた。今日は、星の見えない夜じゃない。キラキラとした夜空の日にアイツが家にくるなんて、初めてなんじゃないだろうか。
「今日はオレ様が直々に、チビの家に行ってやるよ」
アイツはそう言った。何を偉そうに、そう思う。でも今日の俺は気分がよかった。
「……泊めてやってもいい」
「オレ様が泊まってやるんだ。勘違いすんな」
俺たちの言葉は、相変わらず平行線だ。
家に来たアイツは真っ先に風呂に入った。レッスンのあとシャワーは浴びたが、改めてじっくり風呂に入りたいのだろう。アイツの自分勝手にはもう慣れた。いちいち文句をいうのもバカらしい。
「…………やっぱりあるよな……? ええ?」
そして、朝から居座るイレギュラー。枕元に鎮座した瓶。だけど、見やれば何やら様子がおかしい。
今朝、たった一つの金平糖が入っていた瓶。それを摘んで確かに空っぽにした瓶の中、それの半分ほどをオレンジ色の金平糖が埋めていた。
「おい、風呂入んねーのか」
その声にハッとして視線を瓶から移す。アイツがびしょびしょの髪で背後に立っていた。
「……髪を乾かせ」
「めんどくせー。朝になりゃ乾いてんだろ」
「……濡れた髪でベッドに入られると迷惑なんだ」
「じゃー床で寝る。ほっとけ」
また、いつものやりとり。きっと俺はいつもの通りコイツの髪を乾かしてやるんだろう。もしかしたら、今日は五回に一回の、コイツを床に転がして眠る日かもしれないが。
てっきりコイツは床に転がるのかと思っていた。ところが、金の目は俺に注がれている。
いや、違う。コイツは金平糖の入った瓶を見てるんだ。一瞬の空白のあと、そう気がつく。
「……金平糖が気になるのか?」
「コンペイトー……?」
金平糖を知らないのか。コイツが物を知らないのはいつものことだ。ただ、何回かに一回、例えば自分の思い出に寄り添ったものをコイツが知らないと、俺は悲しいような、苦しいような気分になる。
今回が、それだった。金平糖は甘くてキラキラした思い出だ。好きな色を分け合った、遠い記憶。
カラン、硬質な音。きっと、空耳だ。
「……菓子だ。甘くて、ザラッと溶けるんだ。あと、形がかわいいし、色もいっぱいあってキレイだ」
「……オレンジ色しかねーじゃねーか」
「本当はいっぱいあるんだ」
そう伝えつつ、そのオレンジの金平糖を口に運ぼうとした。また血の味がしたら、全部捨てるつもりだった。でも、それが甘かったらコイツにあげてもいいと思っていた。
「……ん?」
オレンジの金平糖。その中に一粒、鈍色の金平糖がある。口にすると、ほろ苦い、だけどどこか懐かしい味がする。たった一粒だけあったその金平糖を食べ終えた俺は、次においしそうなオレンジ色の金平糖を口に運ぶ。
「……うまいな」
オレンジ色の金平糖はおいしかった。甘い。でも、どこか果汁のような爽やかさがある。ただ、この味に該当する果物の心当たりがない。
「オマエも食べるか?」
「よこせ」
「こっちにこい。……瓶が動かせないんだ」
「ハァ?」
それでもアイツは素直にこちらにやってきた。そうして、今朝俺がやったみたいに瓶を持ち上げようとして、それが叶わずに不思議そうな、悔しそうな顔をした。
「金平糖、食わないのか?」
「うるせー。言われなくても食ってやるよ」
そう言って金平糖を口に運ぶコイツを見ていた。疑うような表情が綻んで、機嫌の良さそうな感情が滲んでくるのがわかる。
「悪くねぇな」
そう言って、次々に金平糖を口に運ぶ。あっという間に瓶は空っぽになった。
コイツは今日、初めて金平糖を食べたんだな。思えば俺は、こうやってコイツの「初めて」に何度か立ち会ってきた。金平糖を気に入ればいい。近いうちに、ちゃんと買ってきた金平糖をやろう。カラフルな砂糖の塊を見て、コイツは何を思うんだろう。アイツらみたいな笑顔を見せるかもしれない。食えればなんでもいいと言うのかもしれない。
そんなことを思っていたら、カラン、と音がした。どこかで聞いたような、最近耳にしたような音。
「……は?」
「……嘘だろ」
二人して、呆然と瓶を見る。そこにあったのはたくさんの、檸檬のような色をした金平糖だった。
***
檸檬色の金平糖はおいしかった。ただ、それを食べると舌がじんわりと熱くなる。不思議な金平糖だった。
アイツは文句を言わなかった。てっきり出処のわからない物を食わせたことを怒ると思っていたが、そういうところはわりと寛容、いや、雑なのだ。曰く、「食えればいーじゃねーか」
檸檬色の金平糖を食べ尽くしたあと、アイツは背を向けて玄関にまっすぐと歩き出した。
「おい、どこ行くんだ」
「帰る」
「はぁ!?」
てっきり泊まるのかと思っていた。というか、それ以外の目的がないはずだ。
「床で寝るんじゃなかったのか?」
「気が変わった……ああ、オレンジのほうがうまかったな。次はオレンジのコンペイトー、用意しとけよ」
そう言って、俺の言葉を待たずにさっさと鍵を開けて出ていってしまう。俺は呆然と取り残される。
ばたん、扉の開く音。誰も聞いていないから、思わず本心が口に出る。
「……どこに帰るんだよ」
応えのあるはずもない声に、呼応するように返ってくる音。
カラン。ああ、もう見たくない。考えたくない。勘弁してくれ。
振り向けば、瓶には真っ青な金平糖が一粒。
くらくらする頭で思い返す願い。「わかりやすく感情が見えればいいのに」
もう声だって思い出せない言葉。「かなうよ」
なんだよ。夢なら、もっともふもふとした夢がいいのに。
***
夢ではなく、現実だったと認めるのに対して時間はかからなかった。違う、これが現実でも困らないように、いつも通り日常を過ごすことに決めただけだ。こんな夢みたいな出来事、いつ覚めたって構わない。
ところが日常に限りなく近い夢はどんどん登場人物を増やして進んでいく。今日も事務所には大勢の人間がいる。
「タケル、なんかテンション低いね。なんかあった?」
隼人さんの気遣う声。ありがたいけど返せる言葉なんてないから、「大丈夫だ、」だなんて曖昧に微笑むことしかできない。
なんか、あった。だけど、言えるわけがない。そもそも、謎の瓶に表れる金平糖の正体に、確証なんてない。
それでも、思う。きっと、猫神様が夢じゃないのなら。俺の望みが叶ったのなら。
あれは、俺の感情なんだろう。それも、アイツに対する感情だ。
どうせ叶うなら、もっと他に叶えたいことがある。それでも、猫の恩返しはこんな益体もない願いを叶えてくれたらしい。爪が甘いのは猫だからなのだろうか。ゲーム画面のステータスみたくわかりやすい形じゃなく、あんなにわかりにくい金平糖という形で俺の感情は目に見えるようになった。
我ながら、ひどく飲み込み、いや、順応が早い。でも、この予想が外れてくれたらな、とも思う。まるで、祈るように。
だって、こんな感情、言葉通りの意味で苦い。
「漣っち~! 今日こそインスタにあげる写真、一緒に撮るっすよー!」
「うっぜえ! 離れやがれ!」
アイツと四季さんのじゃれ合いを見たのが今日の昼間。その夜に俺を出迎えたのはどろ、と濁った蓬色した金平糖。
口に含めばひどく苦くて不味い。嫉妬の味を初めて知った。
それでも、俺はアイツとどうなりたいのかわからない。
***
その日の俺は機嫌が悪かった。そして、アイツの機嫌も悪かった。俺たちはお互いに不機嫌だった。
悪いことって続く。雨の日に地面がぬかるむのによく似ている。レッスンで、俺たちはずっと一緒にいた。今日は円城寺さんだけが地方ロケでいなくって、星が見えない夜だった。
機嫌が悪くても、俺は薄情者じゃない。最近は冷えてきた。濡れたらきっと風邪をひく。
「家に来い」
「ぜってーやだ」
「雨が降るって天気予報で言ってたぞ。いくらオマエがバカでも、風邪をひく」
する、と俺に向けた背を流れる銀の髪。後ろ髪を引いたらどうなるんだろう。
ずぶ濡れになったほうがマシだ。そう言って立ち去るアイツを止める言葉を俺は持たない。
帰宅すると、案の定金平糖が出迎えてくる。真っ青な金平糖だ。
こんなもの、口にする気にもならない。予想はこの頃には確信になっていた。あの時に感じた、胸が詰まるような衝動がきっと、金平糖に形を変えているんだ。
寝て、起きて、やっぱり金平糖はそこにあって。
たんなる、思いつきだ。たった一粒の金平糖をタッパーに入れて、家を出た。たっぷりとした隙間の中で、金平糖がころころと揺れた。
「……やる」
いつものランニングコース。ぬかるんだ地面。真っ青な金平糖を摘んだ、コイツの真っ白な手。相変わらず不機嫌な顔。金平糖の砕かれる、ガリ、という音。
「……クソまじい」
そういって、地べたに金平糖を吐き出すコイツを見て、また感情が動く。届くはずもない音が、俺の鼓膜を揺らす。カラン、
「……そうか」
「嫌がらせかよ」
違う。ごめん。口に出せなくて、だけどそうだ、とも言えなかった。さして長くない沈黙も、アイツが呆れるのには十分すぎる時間だったらしい。
「……バカらし」
そう言って立ち去るアイツを見て、思う。
そうか、そうだよな。俺でさえ、口にしなかった感情だ。
家に帰って、思ったとおり増えていた真っ青な金平糖を全部捨てた。ゴミ箱の底にたまった真っ青な星は、少しだけ海のようだった。
俺は後悔していた。自分でも飲み込めない気持ちをアイツが飲み込むわけがない。
わかっている。だけど、それだけのことがひどく悲しい。
***
アイツはこの金平糖の正体を知っているのだろうか。突然金平糖が現れるのをアイツは見ている。
だからと言って、こんな突拍子もないことがわかるはずなんてない。だけど、万が一、アイツにこの正体を突き止められているとしたら。
嫌がらせかよ。そう言われた俺の感情は。あの、飲み込まれることすらなかった感情は。
ゴミ箱の底。真っ青な砂糖の海。ざらざらとした星のカケラで溺れる夢を見た。
***
アイツの怒りは持続しない。いや、アイツがまるで何事もなかったかのように振る舞っているだけなのかもしれない。こういう時、アイツは意外と大人で、俺は呆れるくらい子供だ。
俺はオフだった。どしゃ降りの、雨の日だった。やれることがないから、部屋で筋トレをしたあとはずっとゲームをしていた。
アイツが来ればいいのに。いや、こなくていいから雨をしのげるところにいれば。カラン、もう振り向くのも嫌になって、ゲームに意識を向ける。それでも埋まる思考。今回の金平糖は何色だろう。
自分から生まれた金平糖をおやつに、ずっとゲームをしていた。うまくもまずくもない金平糖だった。晩御飯を考えるのも面倒で、カップラーメンを食べてまたゲームをした。風呂も億劫だったから、明日の朝に入ればいいと思っていた。
ぴんぽん。
間の抜けたインターホンの音。来訪者に心当たりはない。それでも不用心に扉を開いたら、そこにいたのは予想もしない人物だった。
そこにいたのはずぶ濡れのアイツだった。まるで、あの日の返答のような。
インターホンを鳴らすコイツは珍しい。初めてじゃないだろうか。いつもは、台風みたいな勢いで俺の玄関の扉を叩くのに。
コイツは何も言わない。ただ、つまらなさそうに俺を見ている。
「……待ってろ」
返事はない。俺はタオルを持ってきて、改めてコイツと向き合う。コイツは目を離す前と寸分違わない姿で俺を待っていた。
「かがめ」
コイツはかがまなかったが、お辞儀をするように頭をさげてこちらに向ける。意図は伝わっているらしい。
銀の髪をがしがしと拭く。眼の前にいるのはコイツなのに、まるで逃げるように別のことを考えていた。
通り雨。ずぶ濡れの俺たち。兄、妹、弟、三人。渡されたタオルで、自分をほったらかしにしてあいつらの髪を拭いた記憶。子供特有の、柔らかな髪の感触。タオルを持ってがしがしと動く俺の手。それは、こんなに大きくなった。大きなったのに、あいつらがいない。なんで、どうして。この手の意味は。
ああ、ずっとああしていたかったのに。
カラン、
「もういいだろ」
はっ、と。タオルの下から聞こえた声に我に返る
「……風呂、沸かすから」
「シャワーでいい」
そう言って、アイツは風呂場に向かった。
こんなにすぐにシャワーを浴びるなら、髪を拭いた意味はあまりない気がする。それでも、アイツが大人しく、俺に髪を預けたその理由は。
ざあ、という音。雨の音なのか、シャワーの音なのかはわからない。ざあ、記憶が濁る。ざぁ、ざぁ。
俺はアイツに何をしてやりたいんだろう。俺は、アイツを何に見立てているんだろう。
視線をやれば、瓶には金平糖。泣けるほどキレイで、暴力的に甘い。灼けるような甘さが喉にへばりついて痛い。泣きたくなんてないのに、涙が出てくる。
「なにやってんだ」
背後から、声。振り向きたくなかった。アイツの手が俺の横を通り過ぎて、金平糖を掴む。
やめておけ。おいしくないから。言わなくちゃいけないのに、涙でせき止められた喉からは声がでない。
ざり、砂糖の塊が噛み砕かれる音。
「……悪くねぇよ」
そういって、また手が伸びる。ざり、ざり。少しずつ、時間をかけて瓶にあった金平糖は姿を消した。
俺はアイツの髪を乾かした。だからアイツは床じゃなくて俺と一緒にベッドで眠る。
自分の髪を乾かしながら思う。コイツはいったいどこまでを知っているんだろう。
あの甘ったるい、喉を灼くような金平糖。それを「悪くねぇ」と言った理由は。
***
おやすみも言わずに同じ布団に入った。だけど、俺はいつも通り背中を向けずに、コイツの背中を見ていた。
視線に気がついたのか、はたまた全く別の理由なのか、コイツもこちらを向いた。同じ布団で寝ていて、目があうのは初めてだ。
なんだか最近、「初めて」が多い気がする。だとしたら、こんな「初めて」も許されないだろうか。
「……寒い」
嘘だ。確かに冷えてきたけど、まだ室内は暖かい。それでも意図は伝わった。アイツは少し考える素振りを見せた後、両腕を広げて、「ん、」と言った。
こんなの、アイツらしからぬ優しさだ。でも、俺が望んでいるのはすこし違う。
「……ん」
アイツの行動を無視して、俺も両腕を広げる。一瞬たじろいだコイツが鼻で笑う。
「どうしようもねぇガキだな」
そうして、バカにしたように笑いながら俺の腕に収まってくれる。コイツはすこし体勢を崩して、俺の胸に頭をあずけてくれる。身長差を物ともせず、俺はアイツを抱きしめて眠る。
何もかもわからないなかで、これは確かに俺の望みだった。アイツがそれを叶えてくれた理由は、きっといつまで経ってもわからないんだろう。
***
夢を見るかと思っていたが、夢なんて見なかった。目覚めたらコイツは律儀に俺の腕のなかにいて、俺はずっとコイツを抱きしめていたのかと改めて思う。起き上がって見てみれば、コイツの足が布団からはみ出ていた。
視線を足元からコイツに、眠っているコイツを見て、視線を枕元に。
瓶は金平糖でいっぱいになっていた。
乳白色の金平糖。光にかざせば少しだけ色味が変わって、虹みたいに透き通った色がうっすらと乳白色の上を滑る。
口に入れる。ほろ苦くて甘くて少し酸っぱくて、なかなか表現が難しい味。でも、これは俺がアイツに感じる一番正しい感情の味だと思う。
「んあ……」
目覚めたコイツがこちらを見る。その口に金平糖を放り込む。
ざり、噛み砕かれる俺の感情。
「……これが一番うめぇな」
「これでいいのか?」
表現の難しい、乳白色の金平糖。
「しばらくはな」
飽きるまでに別の味用意しとけよ。そう言ってコイツは起き上がって、ひとつ伸びをした。
***
金平糖は増える一方。オレンジ色、檸檬色、赤い色、若草色、空色、紺色、そしてあの時の乳白色。おいしい金平糖もあれば、顔をしかめるくらい不味いものもある。頻度は少ないけど、吐き出したいような血の味だってたまに現れる。
アイツが家に来た時は、アイツが金平糖をぱりぽりと食べる。たくさんの感情。どの金平糖が一番うまいのか、聞くことができなかった。でも、何も言わないということなら、あの乳白色が一番いいと言うことなんだろう。時折現れる乳白色の感情。俺もこれが一番、この関係にふさわしい気がしている。
アイツがいないときは俺が金平糖を全部食べる。もう、金平糖は捨てないと決めている。苦い金平糖も、辛い金平糖も、しょっぱい金平糖も、酸っぱくてたまらない金平糖も、全部全部、ざりざりと噛み砕いて飲み込む。例えその味に涙が出たって、ぐっと飲み込む。
アイツにおいしくない感情を食べされるのはやめにした。それでも、たまにアイツは思いつきのように苦すぎたり酸っぱすぎたりする金平糖に手を伸ばす。そうして、言う。「たまには食ってやってもいい」
幸いなことに、徐々に瓶はおいしい金平糖で満たされることが多くなっていった。親愛度、マックス。なのだろうか。
でも、これじゃ俺がアイツのことを好きみたいだ。そう思った矢先に喧嘩をしたり勝手に胸を詰まらせたりして、苦い金平糖で瓶を満たしてしまうときもある。結局、俺はどっちの感情にも振り回されてアイツと過ごすんだろう。甘い感情、苦い感情。たくさんの感情、全部がきっと本物で、その全てがアイツに向いている。
こんなことなら、アイツの気持ちも見られるように願えばよかった。たまに、そう思う時もある。
アイツは何を考えているんだろう。思案する俺の耳に、聞き慣れた音が響く。カラン、
そういえば、俺は桃色の金平糖を見たことがない。いつか、見る日がくるのだろうか。
***
「なんでテメーがくんだよ!」
「オマエが俺の部屋に台本を散らかすからだろうが」
「だから、オレ様一人で持てるって言ってんだろ!」
「オマエ、放っておいたらコレを円城寺さんの家に持ってくつもりだろ」
チッ、と。盛大な舌打ちは肯定だろう。俺たちは台本を抱えて、寮にあるコイツの部屋に向かっていた。
一応、コイツにも部屋がある。しかし、その部屋は全く機能していない。コイツはふらふらと事務所の人間の家に泊まったり、事務所に泊まったり、挙げ句公園で寝たりする。なぜだかはわからないが、寮の部屋で寝ようとは思わないらしい。
一度、コイツの部屋に行ったことがある。殺風景とかいうレベルではない。コイツの私物はブランケット一枚。あとは部屋の真ん中に山を作っているファンからのプレゼントと、その横に積まれた台本タワー。この部屋は、完璧に物置だった。ベッドどころか布団すらない。考えないようにしたいが、きっと家でまた金平糖が生まれている。切なくて苦しい土の色。
がちゃ、と開ければ記憶通りの何もない部屋。いつ帰ったのが最後かと聞けば、覚えてないと返される。
お邪魔します、と部屋にあがる。あの台本を束にこの台本を混ぜるだけだ。だけど、近寄れば近寄るほど様子がおかしい。何かを踏んだ。普通に痛い。
「なんだ……ん?」
足に刺さった異物を見る。オレンジ色の、星。
視線を移した先。部屋の一角。そこにあったのは金平糖の山。
「……え?」
「ハァ!?」
掘り起こしてみれば、そこには床にへばりついた瓶。瓶から溢れ出したのであろうたくさんの金平糖は、俺たちの両手から簡単に溢れてしまうほどの量だ。
「……意味わかんねぇ」
アイツが脱力したようにつぶやく。俺は色とりどりの金平糖を見つめている。たくさん、たくさん色がある。
そこに乳白色の金平糖を見つけて、俺は手を伸ばす。柔らかな色をした星を指先で捕まえて振り向けば、アイツがどこか諦めたように俺を見ていた。