カロケリ その日はなんとなく帰りたくなくて、漣っちを半ば引き摺る形でフードコートに立てこもった。本当は麗っちもこれたらよかったって言いながら、門限きっかりに帰っていく友人を見送ったのが先程の話。三人でいたかったな。だけど、心のどっか、すみっこ、ほんのちょっぴりだけ二人っきりを喜んでいる自分もいる。
ずーっとおしゃべりしてたかったから小ぶりのバケツみたいな容器に入ったポテトを買ったのに漣っちはそんなのすぐに食べちゃうもんだから、オレはなんどもポテトを買いに店に向かった。ポテト以外にも、色々。
テーブルの上はちょっとしたパーティみたいになって、オレと漣っちのお腹を満たした。それでもオレはどっかがずっと足りなくて、漣っちの目を見ながら言葉を吐き出した。漣っちはそれに適当な相槌を打ちながら、寄せ集めたチープな軽食の群れをずっと食べていた。
時間はどんどん過ぎていく。ピークにあった賑わいが徐々に薄れていく。まばらになった店内、ひそひそとした静けさ。それらを際立たせる、同情と哀愁を誘う音色。
「……蛍の光だ」
オレはこれが嫌い。正真正銘のお開きの合図。オレと同じことを思った数少ない残党たちが、諦めたように帰り支度を整える。それを、漣っちが珍しいものを見る目で眺めている。
「なんだ、みんな帰りだしたぞ」
「オレたちも帰るっすよ。蛍の光、鳴ってるじゃないっすか」
「……ホタルノヒカリ?」
あー、蛍の光、知らないんだ。だから、みんなが一斉に立ち上がった理由が、漣っちにだけわからない。
この空間で、たった一人、この曲にその日のさよならを感じることができない人間。オレはこういうとき、たまに漣っちをいつもの違う目線で見て、勝手に慈しんだり、苛立ったり、その鼻に噛み付いたりしてみたくなる。空っぽの容器をゴミ箱に放り込んで、油分のついた手をナプキンで拭って店を出た。
夏は日が落ちるのが遅い。それでも、もう夕焼けは見えない。それなのに、オレは思いついた歌を歌う。「ゆうやけこやけで、ひがくれて」
確か、夕方の町内放送。これもやっぱりお別れの歌だ。これがなったら追いかけっこはおしまい。家に帰らないといけない時間。
「ねぇ、この歌は知ってるっすか?」
答えなんてわかってて問いかける。案の定、知るかとどうでもよさそうな声。
オレは途中で歌うのをやめる。これはどこかに帰る子供のための歌で、オレはそれを漣っちに伝えていいのかわからなかったから。
漣っちには知らないものがたくさんある。花火、メロンクリームソーダ、星座の名前。他にもたくさん。もちろん、キレイじゃないものだって、たくさん。
キレイなものは教えたくなる。初めて金平糖をかじった時の漣っちを見て、それがおおげさでもなんでもなく、このざりざりとした砂糖の食感をこの人に教えるために生まれてきたのかもしれないだなんて思ってしまうほど強い直感。きっと、歌う日々と並び立つくらいに大切になるという予感。天啓のような感覚がこの胸を覆った瞬間、限りなく恋に近い感情がこの胸に伝っていった。
たとえ独りよがりでも、たとえ自分勝手でも、キレイなものを知ってほしくなる。汚いものは、知らないでいてほしい。
思うに、漣っちは透明な水溜まりの中にいる。それは俺の部屋くらいの広さで足首までが浸るくらいの、誰も見たことがないくらい透明で涙よりも冷たい水。その中心に漣っちの居場所のひとつがある。
なーんにも知らない漣っちは、そこで、ぼーっと水を見てる。時々、足を踊らせて雫を跳ねさせる。ぱちゃぱちゃ。
オレはその水に入れない。オレはこの浅瀬に足を取られてしまうのと同じくらい、この水を汚してしまうのが怖い。頭が蛇のバケモノとか、足のない女性とか、そんなの目じゃないくらいに怖い。この水が汚れたらきっとオレの臓器にも汚れと同じだけの毒が回って死んじゃうんだって、本気でそう思って、そう願ってる。
鏡とか、ダイヤモンドとか、そういうスラリとした輝きを横に倒してキラキラしている、教室よりも小さな世界のほとり。そこに座り込んだオレは騎士のような使命感で、神様みたいな万能感でオモチャを仕分けする。
花火、合格。ぽちゃり。沈めた水は濁らない。
メロンクリームソーダ、合格。ぽちゃり。決め手は彩りのさくらんぼ。
星座の名前、合格。ただ、これは漣っちが覚える前に飽きちゃった。
こうやって、キレイなものだけを沈めながら少し先の漣っちを見る。漣っちは何かを考えるように浮かんださくらんぼを口に運んだ。そうして名前も知らない星座を仰ぎ見て、それまでに沈めた何もかもよりもキラキラ光ってみせる。
蛍の光は、ゆうやけこやけは合格にするべきだろうか。これは、少し、わからない。だってオレ、正しい歌詞とか知らないし。ただ、あの旋律を縛る寂しさなんかは、時折伏し目がちになる漣っちを飾り立てる気がしてる。漣っちの過去に、その寂しさを誘発するトリガーなんてないんだから、音律を教えたってこれはたんなる鼻歌にしかならないのに。
イメージの世界の表側、オレの目の前を歩く漣っちが、さっき少しだけ口ずさんだ音をたどたどしくなぞる。ゆうやけこやけ、漣っちはどこに帰るんだろう。やっぱりこれは合格だ。オレは漣っちに歌詞と音を導くように歌い出す。
漣っちにとってこれがどんなに残酷な歌でも、その冷徹な光が照らす白銀はうんとキレイ。
オレはただ、この水が汚れなければいいんだ。
自分勝手な行進は続く。二つの唇が同じ歌を歌う。オレは数十分後のお別れを考えて、ちょっと寂しい。
漣っちはこんな哀愁、感じもしないんだろうけど。