月には花が咲いていたって 名前も知らないそれを、ただ気に入っていた。
それが『青』という色だということも、それが『地球』という星だということも、全部全部後から知った。
名も知らぬ存在をただ見つめていた。伸ばす手もないまま、美しいという感情も知らぬままに。
それが幸せなのか不幸なのかもわからないままに。
昔の夢をよく見ていた。幼い頃からずっと。
ずっと旅をしていたが、そのどの景色とも違った風景は、きっとこうして生まれる前の景色だろう。こんなに風景がくっきりとイメージなんて出来るほど年を重ねていなかった時から、その景色は頭の中にあった。
思い込みだと無視をするにはあまりにもありありと浮かぶ情景。これは、夢想ではなく記憶だろう。一度だって疑ったことはなかった。
前世。
親父が言っていた。オレ様がまだ小さい頃。
オレ様が自分以外の花を初めて見た時、ようやく話し相手が見つかったと思った時。
それでも言葉が通じなくて少しだけ不満だった時、親父が何をしているのかと聞いてきた。
『オレ様は花だから、こいつらと話してやろーと思っただけだ』
『ふぅん。いつから?いつからオマエは花なんだ?』
『昔から』
そう言った俺に親父が言った。
『それは、あれか。前世ってやつだな』
そして、教えてくれた。
『オマエ、今は人間だぞ』
そう言われるまで、オレ様は自分が花だと疑ったことはなかった。葉も、花もない、この体で。
この記憶はいったい、いつ頃のものだろう。確かめる術はないと思っていたが、ついこの間のバラエティ番組のクイズで知った。月面着陸、1969年。
ふわり、と、地球の1/6ほどの重力で降り立った生き物は、月に咲いていた最後の花を踏みつぶして、地面に母国の旗を突き立てた。そのときに踏みつぶされた最後の花、それがオレ様だった。
取り立てて、怒りは感じなかった。ああ、終わるのか。そう思った。悲しみとも、安寧とも違う気持ち。あの感情は、ここに生まれてから感じたことがない。ただ、生に固執していなかった。理由もなく、ただ咲いていた。
意識がふわ、と上に引っ張られるような感じがした時から、意識というものを持った瞬間から、月には誰もいなかった。そこが月だとも知らず、ただ広がる薄暗い砂の世界をただ見ていた。
種から生まれたのかも、根から分かたれたのかもわからない。ただ、たった一人でオレ様は咲いていた。それが当たり前で、寂しいと思ったコトなんてなくて、ただぼんやり、過ぎゆく時間の合間に現れる青い星を見て過ごしてきた。数えられないほど途方もない回数、その星を迎え入れて、見送った。
「漣っちは一人が寂しくないんすか?」
事務所の喧噪から逃れ、屋上で風を受けているときに、追いかけてきた四季に聞かれたことがある。オレ様は人間になってから、孤独を感じたことがない。
だってここには生き物がたくさんいて、何もかもに色がある。風が頬を撫でて、星が指先を照らす。その指先を伸ばせば、触れられるモノがいくらだってある。熱も、音も、匂いも、味も、そして自分以外の存在も。
オレ様は本当の孤独を知っている。音のない空間で、ただ、時折見える青い星だけを見つめている時間。あれこそがきっと孤独だった。美しい青に伸ばす手を持たず、あの、あの星を見たときの気持ちを分かち合う相手もいない。あの時間こそが、きっと。
あの青に触れてみたいと思ったことも、この気持ちをわかってほしいと思ったこともない。ただ、孤独というのはああいうことなんじゃないかって思う。
人間は、忙しい。
いいことなのか、悪いことなのかは、わからない。でも、月には何もなかったし、何もすることがなかったから、飽きるまでは人間をするのも悪くない。そう思う。
実際、人間は悪くないのだ。ラーメンはおいしいし、猫は柔らかい。たい焼きは甘いし、アイドルは気分がいい。周りにいる変なのも、つまらなくはない。
ただ、ここにいると、あの青が見えない。
青い星の正体を知ったときは少しだけ驚いた。ぼんやりと眺めていた青い星。そこに自分が立っているというのは不思議な気分だった。だけど、納得もした。きっとあれは、空と海の色だった。
だけど、海を見ても空を見ても、あの青い星を見た時みたいな、茎がぎゅっ、となる感覚はなかった。人間になって、茎がなくなったからだろうか。それは、違う気がした。きっと、この青には何かが足りないんだ。
正体不明の青。人間であるうちは見られることはないのだろうと、諦めていた。
でも、巡り会ってしまった。
舞台袖から見える、チビの後ろ姿。その奥に揺れるサインライト。真っ青で、空とも海とも違う。あの日々に月から見ていた、地球のような。
音も震動も、何も感じることも出来ないほどの、既視感。喜びに体が震えた。真っ青な景色、青い髪、青い瞳。
歌い終えたアイツが戻ってくる。触れたい、そう思った。青を見て、始めてそう願った。
触れたい。
押さえきれない衝動が、意地を砕いて背中を突き飛ばした。触れたい。気持ちが抑えられない。今はあの日々とは違う。今の自分には、伸ばすことの出来る腕がある。
伸ばした指先が、チビの髪に触れる。チビが笑って、その青い瞳が瞼に隠れた。