甘い香りに騙されて 牙崎漣が様々な屋根の下を渡り歩いて覚えたこと。その中のほんの一部。
彼が「カフェなんとかのケーキ作るやつ」と呼ぶ男──名を東雲という──の家に行けば甘いものが食べられるということ。甘く満ちる香りの温度を自分は案外好きだと言うこと。パンケーキの生地を生のまま舐めるとやんわりと窘められるということ。
そして、その男は気まぐれに来訪しても自分を無碍にしないこと。
今日、牙崎は甘いものが食べたかった。ラーメンではなく、甘いものが食べたかった。だから、足は彼がらーめん屋と呼ぶ人間の家には向かず、普段は曲がらない角を右に。
当然のように目当ての家の扉を叩けば、いつものように東雲が出迎えた。彼は漣を見て柔らかく笑ったあと、まだ何もできていないこと、これから気まぐれな来訪者の為に何かを作るということを告げた。
くつろげるようにと、ふかふかのクッションを与えられた牙崎だが、これでは腹は膨れない。あいにく眠る気分でもなかったので、つまみ食い以外の目的では立ち入ったことのない台所に足を踏み入れた。
牙崎は菓子作り自体には興味がない。だから、東雲が何をしているかはわからなかった。それ自体に何かを思うこともなく、彼に声を掛けることもなく辺りを見渡す。まだ、何もできていませんよ、と声が聞こえる。
その言葉を聞き流しながら牙崎は探索を続ける。だが、東雲が言う通り、そこに並んでいたのは食料ではなく食材だった。牙崎は思い切り興ざめしたが、ふと、とある小瓶に目が移る。手のひらに収まる茶色い小瓶。ラベルには『バニラエッセンス』の文字。手持ち無沙汰にその蓋を開ければ、甘い香りがふわりと香る。
食べていいやつだ。バニラってのは聞き覚えがあるし、なにより香りがそう言っている。牙崎は迷うことなく手のひらにその液体を取ってぺろりと舐めた。この程度でも、少しは甘いものが食べたい気持ちがマシになるだろう、と。
「!?」
イ、の音に濁点をつけたとしか形容できない悲鳴が牙崎の口から溢れる。その音に特に驚くこともなく東雲は振り返り、牙崎が持つ小瓶を見て、全てを悟る。
「おや、苦かったでしょう」
そう言って、東雲は牛乳を注ぐためのグラスを取りに食器棚まで移動する。
ややこしいもん置いてんじゃねーよ! 牙崎は苛立ちを隠しもせず叫ぶ。そうして散々に文句を言いながら、差し出された牛乳を手に取った。