俺はオマエの運命じゃない俺はオマエの運命じゃない
世の中には決まりごとがある。
沈んだ太陽が必ず昇るだとか、降り止まない雨はないだとか、生き物は一日ずつしか年が取れないだとか、いつか人間は死ぬとか、そういうの。
俺みたいな一部の人間が持っている性もそのひとつだと思ってる。持っているって言ったけど、押しつけられてるって言ってもいいかもしれない。世間とか、心とか、いるとしたら神様あたりに押しつけられたどうにもできない衝動だ。
ダイナミクス。生殖器で区別のつかない第二の性別。
人間の分け方はいろいろあって、ダイナミクスでも人は分類できる。俺みたいにSubのことを支配したいって思うDomと、俺みたいなDomに支配されたいって思うSub、あとはどっちでもない人とか、どっちにもなれる人とか。
ダイナミクスによる性質は一応義務教育で習うけど、ちゃんと理解されてるかっていうとちょっとわからない。俺はDomってだけでとんでもないサディストだと思われたことがあるし、Subのことを好きにしていいと思ってるDomがいるってのも聞いた。なんというか、性質で担うことの多い役割が曲解されているって気はしてる。
ダイナミクスという性で繋がった恋人たちは多いし、それなりに市民権は得ていると思う。役割がハッキリしているから、つがいとして理解しやすいんだろう。同姓同士のカップルはダイナミクス性で繋がってると思われやすいとも聞いている。どっちでもない人──ニュートラルだったか。ニュートラル同士の同姓カップルがDomとSubを名乗ることもあるそうだ。
DomもSubも、双方が望むもので満たされたときの充足感がすごい、らしい。俺は満たされたことがないからわからないけど、そういうことになっている。セックスが肉体からくる充足感なら、DomとSubが繋がりを確かめ合うPlayは精神的な充足感を得られるって、顔も知らないみんなが言っている。
精神も肉体も、どっちもどっちだ。それなのに精神的な繋がりが本性よりもうんときれいなものだと思われるときがある。俺はそれが嫌いだった。DomなんだからSubと繋がれって存在しない誰かに言われてる気分になるから、俺はそれが嫌いだった。
ダイナミクスによる繋がりだって、ダイナミクスが性である以上は性欲だ。俺はダイナミクスが強いからDomの欲求が強い。他人と比べたことなんてないからわからないけど、時々喉が渇いて死にそうになる。これがDomの欲求だって、教えられてもいないのにわかる。
支配したい。管理したい。これが愛なのかわからない。愛したいんだろうか。愛されたいんだろうか。愛じゃないんだろうか。誰かのことを愛さなくても、Subを支配しさえすれば俺の衝動は満たされてしまうんだろうか。
「漣」
約束した訳じゃない。でもコイツの名前を呼ぶことは『そういう合図』になってしまった。コイツが俺の声に音もなく反応して、空間が一人と一人からふたりぼっちに変わる。
「…………Look」
ベッドで寝ころんでいたコイツが首だけを動かしてこちらを見た。満たされない。蜂蜜色の瞳は望み通り俺を映してくれたのに、どうしても足りなくて泣きたくなる。コイツのことが本当に好きなら、これで満たされたっていいじゃないか。好きな人が見つめてくれたのに満たされない自分が悲しかった。
「Come」
ベッドからおもむろに立ち上がり、コイツがこちらにやってきた。偉そうに、ずっとこっちを見ている。
俺が、そう言ったから。
コイツは俺の命令──コマンドを叶えてくれる。こんなの馬鹿げてるって笑えばいいのに。なんでチビなんかとって嫌がってくれてもいいのに。それでも足りない俺をなじってくれればいいのに。
だって、コイツは俺からのコマンドなんて必要としていない。それなのに、こうやって俺に付き合ってくれている。
「…………寝るか?」
「オレ様はさっきまで寝てたっての」
コイツは不満げだけど俺は謝らない。どんだけ甘やかされたって満たされない。子供みたく全然足りないって顔をしていたら、呆れたような吐息が前髪を揺らす。目を閉じればおでこに柔らかい唇が触れた。
俺から返せるキスは牙の隠せない獰猛なものだけなのに、コイツからのキスは優しい。コイツは表情通りのキスも、俺の知らないキスもできる。
コイツはもう一度ベッドに転がる。俺は寝る前に水を一杯飲む。布団に入る。並んで眠る。
背中から抱きしめる。心臓の在処を確かめる。この鼓動のひとつひとつまで支配したい。きれいな髪を梳いて世話をしてやりたい。コイツから抱えきれないほどの信頼を得たい。こんなに強いコイツのこと、世界中のどんなものからも守ってやりたい。これが愛だったらいいのに、これが愛でなくダイナミクスからくる性欲なんだって細胞のひとつひとつが理解している。
どんなにもらっても足りない。どんどん、どんどん、喉が渇く。水が飲みたい。今日はもう離れたくない。眠ってしまいたい。どうしても足りない。満たされたい。
Domなんて、やめてしまいたい。
***
「今日のラーメン早食い勝負はオレ様の勝ちだったなぁ!」
「ほとんど同時だっただろ」
「アァ? どう見てもオレ様のが早かっただろ!」
「同時だ。それにオマエと違って俺はちゃんと味わって食べてる。俺の勝ちだ」
「オレ様はチビの100倍味わってるし!」
がちゃりと玄関の扉を開ければコイツは我が物顔で上がり込む。ここは俺の家でコイツの家じゃない。俺はずっとここにいてほしいのに、コイツはここを家にしてくれない。でも、コイツはここにいる。
コイツが朝からロードワークについてきて、一緒にレッスンして、一緒に仕事して、一緒にラーメンを食って一緒におんなじ道をゆっくりと歩いて、いまここにいる。「オマエが好きだ」って言葉に「好きにしろ」って笑って、好きでいることを許してる。キスをして、キスをされる。好きって言ってくれないけれど、嫌いじゃないって言って偉そうにしてる。
なんで俺はこれだけで幸せになれないんだろう。幸せはここにあるはずなのに、グラグラと煮えるダイナミクスの欲求が全部を台無しにしてしまう。
「…………漣」
押してはいけないスイッチだ。わかってるけど、どうにもならない。
さっきまでの賑やかな空気が形を潜めて、試合みたいな緊迫感が喉を焼く。こんな一方的な遊びをけしかけておいて、俺は焦燥感だとか罪悪感だかで泣きそうになってしまう。コイツは俺に付き合う義理なんてないのに、俺が望むからコマンドを待ってくれている。
「Stay」
そう投げかけて靴を脱ぐ。コイツはそのまま待っている。
俺は部屋に入り、特になにをするでもなくぼんやりと壁を見ていた。アイツはずっと玄関で待っている。
こんな意味のないコマンドでも口に出さずにはいられなかった。時間がたってもこの言葉に意味が生まれることなんてなかった。満たされることなんてないんだから、こんなのは無意味なんだ。でもコマンドは吐き出さないと肺を満たして呼吸を阻む。
満たされない。乾きがそのまま喉を伝って胃が焼けそうだ。そっか、焼け死ぬ前にアイツを部屋にいれてやらないと。
「Come」
コイツはようやく部屋に入ってこれた。騒いでいない時のコイツはいつも余裕があって、ゆったりと俺の言葉を待っている。見守っていると言ってもいい。
ベッドに腰掛けて深呼吸をひとつ。縋るようにコマンドを投げかける。
「こっちに…………。Kneel」
しゃがみこんだコイツは俺の膝に頬を乗せて目を細めた。許されてると思うし、試されてると思うし、バカにされてるって気もしてる。
「漣」
名前を呼んで頭をなでれば、静かに伏せられた瞼がふたつの満月を覆い隠す。
きっと漣って名前はこんなくだらない遊びの合図にしちゃいけなかった。愛の正体は知らないけれど、きっと愛ってやつで俺って器が満たされたときに自然と溢れるのが『漣』って音だったはずなんだ。
それなのに、こんなくだらないことに使ってしまった。俺はたぶんとんでもないバカなんだろう。
「……Come」
「くはは、もう近寄ってるだろ」
「もっと」
「チビ、これしかコマンド知らねーのかよ」
いつもこれだ。コイツは特徴的な笑い声を転がしながら俺の腰をぎゅっと抱きしめる。コイツの体に触れてない部分が冷たくて、悲しい。
「Come」
コイツをベッドの上にあげることをせず、俺が床に座り込む。同じ高さになったコイツは全身を使って目一杯くっついてくれた。
「このコマンド、これであってんのかァ?」
「あってる……ってことでいいだろ。こっち来いって意味だし」
「ふーん……ま、いーけど」
コイツが楽しそうに笑ってくれる、それだけが救いだった。救いはあるのに俺はまだまだ足りなくて、Domっていう血液がぐらぐらと煮えてどうしようもない。
しばらく抱きしめあっていた。コイツはずっとあったかいのに、それだけで幸せになれない自分のことが大嫌いになる。
「チビ」
眠そうな声だった。
「もういいのかよ」
あったかい。やさしい。足りない。泣きたい。
「…………Come」
「くはは! バァーカ」
強く抱きしめあった。Comeコマンドってこれでいいのかな。俺たちってこうしてていいのかな。俺は正解がわからなくて途方に暮れる。それでもコイツは眠らずに、俺の次の言葉を待っている。
***
「漣様ってPlayの時は優しそうじゃない?」
「えー? 絶対自己チューでしょ。Sub dropさせそう」
「マキは漣様にキツいよね。同じDomじゃん」
「マキはタケルくん強火だから」
「うるせー! 牙崎は嫌いじゃないけど距離が近いんだよ!」
「タケル担が漣様に勝てない話いつ聞いてもウケる」
「ねー。そだ、タケルくんのPlayは優しそうだよね」
「えー? 無口だからちゃんと口にしてくれなくて不安になりそう」
「いや、そもタケルくんDomって決まってなから」
「いやいや、それは牙崎もだから」
「いやいやいや、漣様はもうどうみてもDomでしょ」
「怖いってか、Glareヤバそう」
「でも漣様に命令されたーい! マジで漣様みたいなの理想のDomなんだわ……Subになって管理されたい……」
「あたしは道流さんがいい! 絶対優しいDomだよ。あたしニュートラルだけど付き合ってほしいもん……」
「虎牙道全員Domはないっしょ。そもそもたいていの人間はニュートラルなんだし」
「わかんないよー? アイドルとか芸能人は結構DomとかSub多いって言うじゃん」
「噂でしょ? 東慶田にはDomが多いってのもガセらしいし」
「Domが東慶田行けんなら私は赤点取ってねーんだよ!」
「落ち着けマキ! おーよしよし……ほら、黒飴あげるからね」
「チョイスがうちの婆ちゃんと同じなんだよな……ありがと」
「やっぱりDomへの偏見ってあるんだな……」
なんだかどっと疲れてしまい、俺は事務所のソファに沈み込む。買い物に行っただけなのに、イヤホンを忘れただけでこんなに消耗してしまうとは。同世代の女性と話す機会はあまりないけれど、みんなあれくらい賑やかなんだろうか。盗み聞いてしまったのはこちらだが、結果として俺はいまくったりとソファに身を預けている。
Domは支配という欲求に加え、Playではコマンドを発するほうだ。それゆえに『Domは、』みたいな典型的イメージがある。アイツへの言葉はDomへの偏見そのものなんだろう。
「タケルっち、なんか言われたっすか?」
四季さんがひょっこりと現れた。独り言だと思ったが、聞いている人間がいたようだ。労るように飴玉をこちらに差し出した四季さんにぽつりと言葉を返す。
「いや、俺がと言うか……アイツが」
ふんふん、と四季さんが相づちを打って続きを促す。俺たちの関係を四季さんは知らないけど、俺がアイツのことで心を痛めるのは不思議でもなんでもないらしい。俺はアイツに向けられた偏見じゃなくて、アイツがDomだと思われてるのが気に入らなかっただけなんだけど黙ってた。
「ほら、アイツは偉そうなDomみたいなイメージあるらしくて怖がられてた。Domへの偏見っていうか、アイツへの偏見だな」
「あー……漣っちは誤解されやすいっすからね。漣っち、本当は優しいのに」
もったいない、とボヤきながら四季さんも飴玉を口にいれる。
「てか、漣っちってDomなんすか?」
「アイツが? ……いや、知らない」
罪悪感もなく、反射的に嘘を吐いた。アイツがDomではないことなんて俺が一番わかってるくせに。
「そーなんすか。まぁユニットメンバーだからってダイナミクスまで知ってるわけないっすもんね」
四季さんは「漣っちはDomっぽいけど」と呟いたあと、ちょっと申し訳なさそうに「いまのってセクハラっすかね」と問いかけてきた。ダイナミクスはもうひとつの性なのだから、言われてみれば確かにそうなのかもしれない。けど、どうなんだろう。
「そう…………なのか?」
「どうっすかね……?」
今度プロデューサーに聞いてみよう。そう二人で結論付けて、俺は飴玉を噛み砕いた。
***
『牙崎漣、実はSubだった!? 同ユニット大河タケルとのパートナー関係』
『大河タケルのパートナーは牙崎漣!? 牙崎漣へと向けられたコマンド』
『控え室でのPlay? 関係者が耳にした大河タケルの言葉とは』
などなど。言葉は違えど机に並べられた雑誌にはどれも似たようなことが書かれていた。やっちまったという気持ちがたくさん、くだらねえなって思う気持ちが少し、それをプロデューサーや円城寺さんに迷惑をかけたという罪悪感が覆っている。
「気にしなくていいですよ。問題が起きそうなら私が対応しますから」
それが私の仕事です、とプロデューサーが言った。あまりにもケロっとしてるから、たいしたことなんてないんだろうって思いそうになってしまう。そもそも、こんなのは単なる性別と関係の話だ。取り立てる方が下世話なだけだが、こういう話を食い物にしている人間がいるってのはアイドルになる前から知っていた。
「悪いことをしてないんですから、堂々としていてくださいね。…………ただ、事務所としては事実関係だけ把握しておきたい気持ちはあります。こういうことを書かれる心当たりはありますか?」
「ある」
返事をしたのはソファで寝ころんでいたもう一人の当事者だった。コイツはのっそりと起きあがって、しれっと答える。
「オレ様がチビのごっこ遊びに付き合ってやっただけだ」
「……ごっこ遊び?」
「Play」
コイツの口から吐き出されたPlayという単語は、セックスという単語よりも下品に聞こえて悪寒が走った。精神的な繋がりを確認する神聖な儀式をドロドロの地面に引きずりおろして、コイツはもう一度眠りに戻ろうとする。
「えっと……漣?」
「プロデューサー」
代わりに俺が口を開いた。
「一度だけ、控え室でコマンドを出したんだ。俺が、コイツに」
心当たりを淡々と伝える。控え室でコマンドを出したこと。それにコイツが従ったこと。その場には円城寺さんすらいなかったこと。言えることはそれくらいだった。
嘘は吐けなかった。本当のいくつかは俺にだってわからないから話しようがない。どうしようもない話はどうしようもない。
バカなことをしたあの日、俺がどれだけDomとして飢えていたのかはよく覚えていない。ただ、なにをしたって満たされなかったことだけを覚えてる。
いつもの部屋の中じゃなくて、外だったらどうなんだろうって思ったんだ。自分のテリトリーの外だったら、この宝石はどんな色をしてきらきらと光るのかってのが気になった。なにかが変わるのかな、って。
でも本当のところはもっと欲深い。俺は知らない他人ばかりの空間で、俺のコマンドで座り込んだアイツの頭に優しく触れてみたかった。宝物を見せびらかすように、ただコイツを支配する俺を誇示したかった。でもそんなことはできないから、控え室で、小さな声で口にした。
一度だけ名前を呼んだ。Kneelと投げかけて、座り込んだアイツの頭を撫でた。ドアは開いてなかったし、たった二人だったはずなのにこういうことになる。
こういう俺の中のどうしようもないこと、言った方がいいんだろうか。考え込んだふりで思考を止めた俺にプロデューサーが問いかけてくる。
「……こんなこと聞いてすみません。二人は……Playをする間柄なんですか?」
「ちげーし」
返事はコイツの方が早かった。寝ていなかったみたいだ。コイツはくぁ、とあくびをして、本当にひどいことを言う。
「オレ様はSubじゃねえ。Subじゃねーんだから、Playもなにもねーだろ」
コイツの中で話は終わったらしい。今度こそ眠りだしたコイツの言葉は俺とプロデューサーのあいだで宙ぶらりんになって、益体もなくふわふわと揺れている。
俺が、言わなきゃ。
「…………コイツはSubじゃない」
口にしたくなかった。認めたくなんてなかった。そうであったらって、何百回も願っていた。コイツがSubなら。俺がDomじゃなければ。ダイナミクスなんてなければ。俺がたた、コイツの優しさで満たされることができれば。
「コイツはSubじゃない」
もう一度、繰り返す。自分に言い聞かすように繰り返す。
「俺がDomだからごっこ遊びに付き合ってくれただけなんだ。俺がコイツのことを好きだから。好きなのに、Domの欲求を抑えられないから」
一度口にしたら止まらなかった。許してくれって、コイツじゃなくてプロデューサー相手に思っていた。
「好きなんだ。コイツは俺のこと好きっていわないけど、嫌いじゃないって言ってくれる。パートナーになりたい。コイツがSubなら。俺がDomじゃなければ、あんな、こんなバカバカしいことなんてしなくていいのに」
悲しかった。でもコイツにそんなことは言えないから誰にも言えなかった。コイツにそんなことは言えない。ごめんって言葉すら、何かが終わる気がして口にできない。
「俺が、ただコイツの、コイツが、足りなくて、どうしても、どうしてもダメで、俺はどうしようもないDomで、足りないんだ。どうしようもなくて、喉が渇いて、でも、」
プロデューサーの手が俺の頬に触れる。なんでだろうって不思議に思って、ああ、俺が泣いてるんだってぼんやりと気がついた。
コイツは寝てるんだろうか。なんか、根拠なんてないけど寝てるふりなんじゃないかなって思う。俺の言葉を遮るものはなんにもなくて、俺はコイツじゃなくてプロデューサーに背中を撫でてもらいながら泣いていた。
***
俺がコイツを好きってのは本当。
コイツがSubじゃないってのも本当。
コイツはSubじゃなく、知らない女子高生が思うようなDomでもなく、見たことのないSwitchでもなく、ただ当たり前にニュートラルだった。
それでも俺はコイツが好きで、コイツはそれでいいって笑ってた。俺がそれで満足してれば、それでうまくいくはずだったんだ。男女って性別もダイナミクスとしての性も、俺はたいした問題じゃないと本気で思ってた。
それまでもDomとしての欲求はあった。ただそれは減量中にどうしようもなくドーナツやらラーメンやらが食べたくなるようなもので、氷なんかを口の中で転がしたり、ジョギングなんかで頭を空っぽにしたら逃れられるような甘っちょろい蛇みたいなもんだった。
それって知らなかっただけだ。本当に欲しいものがわかってなかっただけだって、俺は隣で眠るアイツのきれいな髪に触りながら怯えていた。
どうしようもなく、コイツを支配したい。守りたい。奔放なコイツを躾たい。うんと、褒めてやりたい。
わかってる。コイツはSubじゃない。仮にコイツが俺の言うことをなんでも聞いたって、それはごっこ遊びにすぎない。それでもいいって思ってた。それなのに、ダメだった。
コイツはSubじゃなくて、Domの欲求はSubでしか満たされない。
なんでコイツなんだろう。ほかのSubとパートナーになることは考えられなかった。どうしても、コイツがよかった。ほかのDomはどうしてるんだろう。気になって、どうでもよくなった。誰がどんなやつを愛したって、俺はアイツじゃなきゃダメなんだ。
「なぁ、」
「アァ?」
「俺、Domなんだ」
「……で?」
「オマエに命令したい。叶えてもらいたい」
「……オレ様はSubじゃねーぞ」
「それでも、オマエがいい」
「チビ、Domなんだろ?」
「Domだけど、好きなのはオマエなんだ。知ってるだろ? 好きでいていいって、オマエ言ったじゃないか」
「別に、勝手にしろよ。よそのSubとなんかしてたって気にしねぇよ。好きじゃねーのにパートナーになるやつだっているんだろ?」
「オマエ以外、欲しくない」
「……で?」
「…………くだらないって断っていい。殴ったっていい。それでも、」
「チビ、」
「わかってる」
「逃げ道作ってんじゃねーぞ」
「……わかってる……」
「…………聞いてやるから」
「俺とパートナーになってくれ。Subのふりして、それで、Subじゃなくていいから、俺のSubになって」
「言ってることめちゃくちゃだな。ま、別にいいぜぇ」
「……サンキュ……」
「飽きるまでな。ま、オレ様のジヒに感謝するんだな! くはは!」
始まったごっこ遊びはむなしくなるだけだった。一瞬だけ偽物の甘味料で舌が痺れて、ただべたべたするだけの甘さに喉が灼ける。
コイツは俺のコマンドを聞いて、じっと俺の目を見てくる。なにかを探しているんだろう。俺はますますコイツが欲しくなって、足りなくなって、自分をごまかすように腹がちゃぷちゃぷになるまで水を飲んだ。細胞が『こんなんじゃない』って悲鳴をあげるから耳を塞いだ。
***
「オマエがSubだったらいいのに」
俺の足下で座り込むコイツに吐き出してしまった。コイツは俺を見上げて、眩しそうに目を細める。
「やめるか?」
「……やめない」
頭に手を置く。髪に触れる。絶対に許されないはずの手が許されている。だって、そういうごっこ遊びだから。
「……だってオマエがSubじゃないって決まってない。検査とか、してないだろ?」
「ハァ?」
頭がおかしくなってるんだと思う。それでも、止められない。思考はとっくに淀んでぬかるんでいるのに、言葉だけがぽろぽろとこぼれ落ちた。
「そうだ。Subかもしれない。オマエがまだ気づいてないだけで、ダイナミクスが弱いのかも」
「オレ様に弱いとこがあるわけねーだろ」
コイツはすぐに反論してくる。弱いなんて単語をコイツが受け入れるはずがない。俺はそんなことにも気が回らずにまくしたてた。
「じゃあ、強いから。オマエが強すぎてコマンドが通らないのかもしれない。だってオマエは最強大天才なんだろ? だから、」
「チビ」
怒ってない。でも、窘めるような口調だった。ただ呼びかけられただけなのに、少しだけ身が竦む。それでも吐き出さないと息ができなかった。
「それか、それか、」
言っちゃいけないこととか、もうなんにもわからなかった。
「俺のことが嫌いだから。俺のことが嫌いで、心が通ってないから、コマンドが通らないのかも……」
ぐっと腕を引かれた。目線の高さと唇が近づいて、触れあう前に頬を叩かれる。
「……次言ったら本気で殴るからな」
「……悪い」
ぺた、と座り込んで床を見る。目をあわせられないまま数分が過ぎた。数分かもしれないし、数十分かもしれないし、数秒かもしれない。
「……DomとかSubとかくだらねーな」
「っ……! くだらなくねぇよ!」
初めてそんなことを言われた衝撃は大きかった。頭をハンマーで思い切り殴られたような衝撃を逃がすように、俺はコイツの胸ぐらを掴む。
「くだらないわけねぇだろ! DomでもSubでもねぇやつにはわかんねぇよ!」
コイツにダイナミクスはない。コイツはきっと男女って垣根に頓着するやつじゃない。コイツはきっと誰のことも愛せるし、誰のことも愛さなくても一生を終えることができるだろう。
でも、俺はそうはできてない。俺にはコイツが必要で、でもDomの欲求に抗えなくて、本当に、本当にどうしようもないやつなんだ。
「俺だって、俺だってただオマエのことを愛したかった! ダイナミクスなんて関係なくて、理性だけで、こんなどうしようもない感情に振り回されずに、」
一瞬だけ目を合わせて、すぐに逸らした。コイツの目はぽっかりしていて、ただ俺が映り込んでいるだけで怖かった。
「……やりたいって気持ちだけのがマシだった。キスして触ってセックスして、それなら簡単だろ? でも違うんだ。それじゃダメだ」
「セックスできんのか?」
「は?」
ぽん、と投げられた疑問で言葉が遮られる。コイツはそのまま平坦な声で続けた。
「男同士で。セックス」
「……できる。調べた」
「じゃあやってみりゃいいだろ。満足するかもしれねぇじゃねーか」
「……いやだ」
子供の、ワガママだ。
「なんでだよ」
「怖い」
怖かった。それで満たされなかったとしたら、そう考えるだけで絶望的な気持ちになる。
理性じゃ満たされない。肉欲で足りなかったらどうすればいいのかは考えたくなかった。だったら、生ぬるいごっこ遊びでごまかし続けていたかった。
「こわいんだよ。支配したい。優しくしたい。俺のものにしたい。俺の好きになったオマエは、そんなことされるようなガラじゃないのに」
コイツに支配は似合わない。それなのに、そう思ってしまうことが怖かった。
「本当に好きなんだ。嘘じゃない。疑わないでくれ。それでも足りなくて、ダメなんだ。理性じゃ満たされない。本能に逆らえない」
ぎゅっと目をつぶる。涙はこぼれなかった。これ以上喋ったら泣きそうだった。そんなことしても、どうにもならない。
しばらく身を固くしていたら肩を突然ぐっと押される。あ、と思った時にはすでに押し倒されていた。
「……理性なんていらねぇ」
「え?」
「理性とかどうでもいい。本能ってのも、生ぬるいんだよ」
心臓に置かれた手に体重がかけられて、限界まで沈み込む。肋骨に阻まれて止まって手のひらの熱がじわりと広がって溶けていく。
「オレ様を誰だと思ってんだよ」
「…………牙崎、漣」
名前を呼んだ。コイツは俺の言うことなんかひとつも待たずに、俺を見下して告げる。
「ここの、心臓の奥だ。もっと奥のとこで、死ぬ気でオレ様を求めろ。本能で足りるかよ。もっと、全部よこせ。足りねぇんだよ」
言葉とは裏腹に口調は穏やかだった。ちら、と尖った犬歯が見える。
「やんなら半端なことすんじゃねぇよ。他のSubはイヤでセックスは怖い? オマエが欲しいやつは誰だと思ってやがる」
白い指先が、俺の首にかけられた。
「命を賭けろ」
応えてやるから。ああ、これがきっとコイツが持ち合わせている、冷たくて大きすぎる愛情なんだろう。
ダイナミクスの繋がりよりも深く。飢えて、渇いて、苦しんで、それでもがむしゃらに愛せとコイツは言っている。残酷で、ひどくやさしい。全てに応えてやると、コイツはそう言ってくれた。
「……オマエはそれでいいのか」
「別に。好きにすりゃいいだろ。オレ様はカンヨーだからなぁ! くはは!」
指先が離れていく。触れあっていない首筋が冷えていくけど、思考はクリアになっていった。
「じゃあ、さ。オマエも求めてくれよ。俺を」
全部差し出すから。応えるだけじゃなくて。
「俺のこと、欲しいって言ってくれ」
「なんだよ。くだらねぇ」
寛容も慈悲も感じない、ただの愛情と笑顔でコイツは言った。
「とっくにチビはオレ様のモンだろーが」
***
Playごっこはやめた。満たされないダイナミクスの欲求を埋めるのは潔く諦めた。
なんとか別の繋がり方をしたくて、俺はたまに甘えてみせる。コマンドじゃなくて、ただ「かがんでくれ」とねだって近づいた唇にキスをする。
やっぱり、つらい。喉は相変わらずカラカラで、欲で脳みそが焼き切れそうになる。それでも、嵐が過ぎ去るのをコイツの腕の中で待つとき、晴れ間が覗いたときにようやく気がつけるコイツの体温がひどく心地いいからなんとか大丈夫だと思うことができた。
わからなかった正解に近づいているのかは、わからない。それでも、こうやって少しずつ進んでいくしかないんだろう。
「チビ! 事務所まで競争だ!」
「うるさい。勝手に……いや、受けて立つ。負けても泣くなよ」
「言ってろ。吠え面かかせてやる!」
俺を呼ぶコイツの声はうるさい。でも、ときどき驚くほど柔らかく俺を呼ぶ。どっちの声だって、ちゃんと大好きだと胸を張って言える。
俺は、コイツが好きだ。
俺はきっとコイツの運命じゃない。俺が本当に満たされる日はきっとこない。それでも俺にはコイツしかいないんだ。
喉が渇く。日差しが強い。事務所まではあと数分は走らないと辿り着かない。
それでもコイツが隣にいるから、悪くないかなって思えたんだ。