愛していたと言ってくれ.
髪を切ったから、もしかしたらすぐには僕だと気づかないかもしれない。墓参りへの道中、そんなことを思う。
なんせミハイルは死者だ。死者には記憶の更新ができないだろうというイメージが、僕の中にはふわりと存在していた。
髪を切ったのはイメージチェンジなどではなく、そこに僕の意志はない。単純に制圧対象に髪を掴まれ身動きが取れなくなっていた僕の髪をダニーのナイフが切り裂いて拘束を解いてくれたことがあったという、それだけの話だ。
僕はそれ自体になんら問題はないと感じている。それなのに、ダニーは自分が信じられないと、ただ僕に対して謝罪をしてきた。自分の腕なら髪ではなく、敵の手を貫くことができたはずだ、と。
「そんな時もあるだろう」
僕の言葉に、ダニーは首を振る。
「そうじゃない。そうじゃないんだ」
ふ、と息を吐いてダニーは言葉を続けた。
「あのとき、おれはちょっとおかしかったのかもしれない。バカげた話だけどさ、エ……ミハイルがオレのそばにいたんじゃないかって、そう思う」
なんか、惑わされた。ダニーが困ったように笑う。
「おれだって髪の毛は長いのにさ、ミハイルはレナートの長い髪が大っ嫌いだったんだよ」
だからかな、とダニーは眉を下げた。死者の仕業か。それも悪くはないのだろう。
いまだからわかるけど、きっと僕はミハイルに嫌われていた。ダニーが言ったとおり、きっと僕の長い髪のことだってミハイルは嫌いだったんだ。それでも、僕とミハイルはずいぶんと長いこと一緒いた。僕は僕自身がミハイルの特別であると疑っていなかったのだ。この髪からつま先まで、心の内まですべてが彼の特別だと自惚れていた。
事実、僕はミハイルの特別だった。それは僕が望み、向けられていると勘違いしていた愛などではなくて、憎悪という感情だったのだけれども。
ひどい男だ。特別扱いされてしまったら、好きになってしまっても仕方がないだろう?
僕はミハイルのことが好きだった。僕を特別に想ってくれるミハイルのことが好きだった。勝手に特別な気持ちを好意だと勘違いして、勝手にうれしくなって、勝手に好きになってしまった。
ミハイルはこの髪にだって触れたことがある。一度は褥で。一度はそう、僕たちと袂を分かったときに。
月明かりからも逃げ出すように求め合った──いや、求めていたのは僕だけだったのだけど、望み通りに僕に触れた手は優しかった。あの宵闇に溶けるような指先を僕はまだ忘れることができていない。
優しい温度だったんだ。あれが大嫌いなものに触れる手だなんて気がつけるはずもない。でも確かにミハイルはこの髪を好きだとは言わなかった。ミハイルはただ一言、「きれいなもんだな」と言ったんだ。
いまから思うに、それは嘲笑だったんだろう。ミハイルが自分を卑下してなんらかの感情を得るための出しにされたと言ってもいい。
きれいだと、言っていた。
きっとミハイルが愛でるうつくしさというものは夕暮れだとかそういうもので、ああ、そうだ、ミハイルは僕のことをうつくしいと言ってくれたくせに、一言も好きだとは言わなかった。ミハイルは、そういう容易い嘘をつかなかった。
ミハイルがもしもそんな嘘を吐いていたら、なにかが変わったんだろうか。わからないけれど、なにも変わらない気がしている。魔法みたいに言葉が真実になって、ミハイルが僕を本当に好きになって、裏切るだなんてことをせずにずっと一緒にいてくれたら。それはあまりにも夢みたいで、どうしようもなくミハイルを侮辱している気がしてならない。
言い聞かせるように息を吐いた。ミハイルは、僕が大嫌いだったんだ。つま先から、髪の一本まで、まんべんなく。
髪はまた伸びる。僕はまた髪を伸ばす。そうやって、ミハイルが大嫌いだった僕になる。戻る。保つ。
それが僕であり、変わってやらないという意地であり、僕を勘違いさせた男への些細な嫌がらせなのだ。ミハイル、僕はおまえのためになんて変わってはやらないぞ。ずっとおまえが言ったとおり、長くうつくしい髪を伸ばしてヒールを履いて背筋を伸ばして生きると決めている。
ただ、もしも僕が変わるのなら。それはミハイル、おまえの仕業以外は有り得なかったんだろう。たとえばおまえが生きていて、何気なく「ショートヘアーが好きなんだ」だなんて口にしていたら、僕はなんのためらいもなくこの長い髪を切り落としていたかもしれない。そうではないかもしれないけど、もう確かめるすべはない。
もしも、だなんて記憶はいくらでもある。それでも思い出すのはあの指先で、あの温度で、あの声だ。
「きれいだ」なんて、たった一言。それだけだ。