毒にも薬にもならないアイツが万能薬になった。なってしまったとも言える。万能薬なんてゲームの中の存在だと思ってた。アイツがあれば、どんな病気だって治るってことに、なってる。
なぜアイツの髪や爪が万能薬になるとわかったのかを俺は知らないが、その事実を知られたアイツの髪はあっという間に出会ったときよりも短くなった。最近はそれなりに整えられていた爪は深爪気味になって、そこからささくれが絶えなくなったあたりでアイツは数日姿を消した。姿を消したと言っても行き先はみんな知っていたし、アイツもそこに行くことを拒否していなかったから俺はなにも言えない。もっとも、そこに行くことを喜んでいるようには見えなかったんだけど、それだけじゃ俺はなんにも言うことができない。
アイツが連れて行かれたのは研究所だと聞いている。嫌がったらいいのにって思う。でも数日経って帰ってきたアイツはあまりにもいつも通りだったから、俺だっていつも通りでいなきゃいけなかった。思えばはじめっからそうだった。髪が短くなったって、爪が短くなったって、そうやって少しずつ目減りしたってアイツはいつも通りだった。
研究所という響きが俺は嫌だっただけで、行った成果はあったらしい。『ちゃんとした調査』の結果、アイツのすべてが万能薬なわけではないということが明らかになった。万能薬になるのは爪と髪だけだ。だから、血液や肉体は狙ってはいけませんよ、ってアナウンスがあった。そりゃそうだ。なんでも巷ではアイツの肉体を不老不死の妙薬だと崇める宗教まで興されたらしいから、アイツの価値がそこまでないということは周知されなければならないだろう。髪が伸びるまで、爪が伸びるまで、祈られ、望まれ、監視されている。それでも平然と俺に勝負を挑んで平然とアイドルをやっている、そのメンタルはすごいと思う。人間、堂々としていればなにもされないものなのだ。髪も爪も、それがどれだけ待ち望まれていても、それはあまりにもアイツだけのものだった。
アイツがさらわれた。あとから同意の上だと聞いたけれど、実質あれは誘拐みたいなものだろう。警察が扉を蹴破って突入した先で、アイツは敷き詰められた新聞紙の上で大口を開けて眠っていた。なんでも、コイツに果物だけを食べさせて満月の光を三十回当てると不老不死の妙薬になるらしい。コイツはそれを聞いていなかったらしく、ただ寝ているだけでいいと頼まれたらしい。コイツは首謀者の主張を聞いて、肉が食えないのなら興味はないと立ち去ってしまった。警察が保護する間もなく、俺たちが回収する間もなく、アイツはふらりと夜に溶けた。
風邪を引いた。万能薬が隣にいるときに風邪を引くだなんて、絶対にやりたくなかったのに風邪を引いた。コイツは寝込んだ俺の横にぼーっと座り込んで、なにかを考えている様子だった。
用がないなら帰れって言えたらよかったんだろうか。ここまできて、俺はコイツが俺の家に居た方が安全だと思っていた。別にコイツは万能薬になったって外を彷徨いていたし、世界はあまりにも突拍子もない生き物相手に全員が全員とも牽制しあっている様子で危険らしい危険はなかったんだけど。いや、あの宗教は例外として。
なにやら考え込んでいたコイツが俺の口にいきなり指を突っ込んできた。ぐ、と指が舌に押しつけられて息が詰まる。喉の奥を押されては吐きそうになる。目尻に涙が溜まっていくのがわかった。コイツが何をしたいのかもわかった。コイツの指からは血の味がした。
ざぁっと血の気が引く感覚があって、嘘みたいに頭痛が消える。鼻水がぴたりと止まって、熱っぽさは欠片もなくなっていた。
「…………それ、絶対隠しとけよ」
「うるせー。オレ様に指図すんな」
必要な嘘ってこういうものだ。次の日、俺は血液を抜かれてカラッカラになったコイツの夢を見た。なんというか、銀髪のミイラを初めて見た。想像上の銀髪のミイラは墓荒らしに持ち去られることもなく、ずっとステージ裏の倉庫の奥で埃を被ってのんびりとしてる。
万能薬が風邪を引いた。いや、風邪ならよかったんだけど、それはもうありとあらゆる病気の症状が出ていると聞いている。まるで今まで治してきた人間の肩代わりだと言うように、真っ赤な顔で苦しそうに咳をしている。
「自分は治せないのか?」
「治すもなにも、オレ様は風邪とか引かねーし。病気に負けるわけねーだろ」
自分は治せないらしい。そういう漫画の主人公がいたなってぼんやりと思う。
「…………治るから、シケた面してんじゃねーよ。ウゼェ面すんなら帰れ」
「……ここはオマエの家じゃないだろ」
ここはコイツの家じゃなくて、コイツには家もないくせに変な体質のせいで変なことになって。別にそんなもんなくても、家がなくても常識がなくても思ったより優しかったりオレ様のくせに自分に対してぞんざいなせいでこんなにややこしくなっている。
別にコイツがこんなに弱っている理由が今までしてきた人助けと関係があるとは言い切れないけど、俺は根拠もなく奇跡をばら撒いた代償をコイツが払わされているんだと思っていた。こんな、因果応報の逆みたいな。
胸が薄く上下していて、口がうっすらと開いている。コイツっぽくないなって思って、苦しそうだなって思う。俺はベッドサイドにあったフルーツナイフを手にとって、コイツの小指に押しつけた。
「髪は?」
俺のすべてをすっ飛ばした独り言のような呟きを、コイツは一瞬で理解して言葉をこぼす。
「試した。ダメだった」
そりゃ試すよな。オマエは万能薬なんだから。
「爪は?」
「試した」
もう削るところがなかったのか。コイツの反対側の手、その小指の爪には包帯が巻かれている。
「血は?」
「試した。どれもこれもマズくて最悪だ」
ぐ、っと力を込める。コイツの指先から、真っ赤な万能薬がぽたぽたとこぼれて真っ白なシーツを鮮やかに汚した。
「…………肉は?」
三十日も月光に当てていないけど、もしかしたら。
「バカ言ってんじゃねーよ」
治るって言ってる。そう言ってコイツは目を閉じてしまった。俺はぼんやりと取り残されて、手持ち無沙汰にナイフを見つめる。なんにもわかんないまま、操られたように、導かれたように自分の親指にナイフを滑らせた。
ぽたぽたと血の流れる親指をコイツの口に突っ込んだ。コイツは一言「まじぃ」と呟いた。寝たふりしてんじゃねーよ。バカ野郎。