絵画旅行 秋晴れの日だった。そのたったひとつの印象さえ日常に希釈されて色を亡くしている、ありふれた日になるはずだった。
そういう類の無味なキャンパスを俺たちくらいの学生はノートの余白のように持て余してして、例えば両手をペンキまみれにした子供がいきなり触れてくるような奇跡を待ち望んでいる。でも、得てしてそういった色は思ったように絵にはならず、大抵は混ざり合って泥のような色になってしまう。図工の時間から知っているはずなのに、俺たちはいつまで経っても懲りることがない。
そんな秋晴れの日だ。生徒会の仕事が中途半端な時間に終わり、俺はのんびりと下校していた。帰りに買い物でも行こうか、と思案する。隣に親友の姿はないが、通りの靴屋は勝手にセールをやっているしコンビニのホットスナックは一人分より余計に温まっている。別に、肉まんとピザまんを一人で買ったっていい。誰かと半分こなんてしなくても、晩ご飯が食べられる程度には男子高校生というものは食べ盛りなのだ。俺には俺がいる。自分に似合う靴くらい、ひとりで選ぶことができる。
今は一人でいい。そういう時に限って人に出会う。カラフルなパーカーに目立つ髪色。花園百々人がそこにいた。
「アマミネくん、ちょっといい?」
彼は挨拶もなしに屈託なく笑う。この場所にいるはずもない人間が風景に溶け込んでいるのは変な感じがした。ここは百々人先輩の通学路ではない。ということは、わざわざ俺を待っていたということだろう。俺がいつ下校するかもわからないのに一切の連絡をいれずに待ちぼうけだなんて、やっぱりこの人は少しわからない。
「別にいいですけど、なんですか?」
これもひとつの奇跡なのだろうか。空想上のペンキまみれの手で目の前の男が笑う。香るはずのない美術室の匂いが鼻先を掠める。
「紅葉を見に行こうよ。誰かに見てほしくてさ」
秋晴れの日だった。だからきっと、百々人先輩の提案は素敵なものになるはずだった。
***
ガタゴトとなるリズムには音楽性を感じない。正確には、何かが浮かぶ前に退屈か眠気が顔を出すというのが正しいか。
今日はよりにもよって後者だった。先輩の前で眠くなるなんて我ながら珍しいと思う。でも、不自然ではないと思う。
それなりに信頼している。そして信頼されている。その証明のように、俺たちはお互いに自分のことを少しずつ喋るようになっていた。スニーカーを買い換えたいこと。お気に入りのシャーペンが壊れたこと。テストで満点を取ったこと。体育で女子から黄色い声援をもらったこと。心配している友達がいること。トロフィーの置き場所に困っていること。本当に会いたい人。本当に欲しいもの。それは本質の中心ではないけれど、お互いがお互いを理解していると勘違いさせるには十分すぎる語らいだった。
知った気になっている。憐憫がないと言えば嘘になる。この人の幸いを願ったりして、幸せとはなんなのかを風呂場でぼんやりと考えたこともあった。
この人は、この穏やかな時間にも、見知らぬ死の形に追われている。
「寝ててもいいよ」
百々人先輩はこちらを見ずにそう言った。起きていたいと思うよりは、沈黙と隣り合った体温が心地よい。
どうせ連れられて乗った知らない路線だ。行き先は先輩しか知らないのだし、優しく甘い声は抗いがたかった。
眠ってしまおう。意識が閉じる。一瞬を経て覚醒する。あまり眠った気はしなかったが、目に入る景色は一転していた。
この時間には似つかわしくない淡い夕暮れだ。座席を埋めていた乗客はもう一人しかいない。
「ん……俺、結構寝てましたか?」
「おはよ。……どうして?」
「人が減ってるから。あと、夕焼けが見えるし」
窓の外には夕焼けが霞み、オレンジに照らされた看板が目を惹いた。ぼんやり眺めているうちに、違和感に気がつく。景色がまったく変わらない。電車が動いていないのだ。
「……あれ? 電車止まってますか?」
事故だろうか。そう問えば先輩は返事もせずに呑気に笑った。足下に、モノクロの何かが動いているのが見える。
それは、濃淡の乏しい白黒のひよこだった。
「え……?」
それは次々と、どこかから現れる。電車の中を数匹の不思議な生き物が彷徨いていた。俺の視線の先と、その困惑に気がついたのだろう。百々人先輩が言う。
「ああ、これ、ノートの端っことかについ描いちゃうんだよね。」
「これ……?」
「ひよこ」
そういえば見覚えがある。百々人先輩がよく台本の端に手癖で描いているひよこがこれだ。その空想上のひよこがぴよぴよと俺たちの回りを歩き回っている。
「……どういうことですか?」
動かないのは景色だけではなかった。対面に座るたった一人の乗客も微動だにしていない。無礼を承知でそっと近づけば、それはスマートフォンを見ながら彫刻のように固まってる。
「人が減ってるのは、ひとりしか描かなかったから」
声に振り向けば、百々人先輩は笑っていた。
「人間よりも風景が描きたかったんだと思う。その看板はお気に入りかな」
窓の外には額縁に飾られたような景色が張り付いている。
「褒めては、もらえなかったけど」
ガタンと大きく体が揺れて、電車が走り出す。動き出した窓の外に夕暮れはなく、いつの間にか乗客はひとりもいなかった。
***
改札を抜けて改めて思うが、何かがおかしい。あれほど世界をオレンジに染め上げていた夕日はどこにもなくて、穏やかな青空が広がっている。
雑踏に潜り込めば晴れて烏合の衆の仲間入りだ。道を知っている百々人先輩が一歩先を歩くから、俺はその背中を追いながら必死に脳内を整理する。
あれも夢だったのだろうか。夕暮れ、彫刻、ひよこ。だって現実にするにはあまりにもファンタジーだ。絵画のような景色と何かを知っているような百々人先輩の言葉。いつものように少しだけ甘ったるい声は何かを求めているようで、現状に対する思案が脇道に逸れる。
誰かに見てほしいと百々人先輩は言った。俺は、選ばれたのだろうか。
だとしたら俺は何が出来るんだろう。紅葉を見れば先輩は満たされるのだろうか。ほかになにか出来ることはあるのか。何かしてあげたいと願ったのは、選んでもらえたのが嬉しかったのだろうか。
「百々人先輩」
「なぁに?」
背中まで腕一本分の距離がある。手を伸ばすことが出来ず、俺はただ続ける。
「どうして、俺なんですか?」
瞳が見たいと思った。紫陽花に春を溶かしたような、あの瞳が見たい。それでも、百々人先輩は振り向いてすらくれない。
「……マユミくんは、きっと怒るから」
歩調が少し早まる。足早に継がれる二の句。
「マユミくんはきっと大事にしろって言うから、たまにいやになる。価値がないものを、大事にしろっていうから」
俺がいつもしている勘違いだ。わかったつもりになっている。彼が持て余しているトロフィーに反射した光が目を焼いた。
「だから、マユミくんが誘えなかっただけ。特別なのはマユミくんだよ。アマミネくんじゃない」
「……それって、見方を変えれば俺が特別ってことですけどね」
負け惜しみのようなセリフにようやく振り向いた百々人先輩は、瞳の色が隠れるくらい目を細めて笑う。
「そうかも」
百々人先輩が立ち止まった瞬間に世界が止まった。群衆がぴたりと止まる。百々人先輩の肩にモノクロのひよこがちょこんと乗っていた。
「……もう、驚きませんけどね。夢ならそれでいいし。人間描くの、苦手じゃなかったんですか?」
「そんなこと言ってないよ。あの時はきっと、風景のほうが描きたかっただけじゃないかな」
淀みなく進む会話は肯定だ。一番近くにいる人間の頬に触れればそれはざらざらと滲んでいた。美術室の匂いが立ちこめている。油絵具と埃の匂いがする。
夢だとしたら大層失礼な夢だろう。彼はきっと、一番になれなかった絵を俺に見せたいんだ。
「……誰かに、認めて欲しいんですか?」
「誰でもいいわけじゃないよ。アマミネくんに認められたって、別に」
わかった気になっている。こんなのはどうせ自分勝手に作り上げたイメージだ。憐憫に身勝手な願望を混ぜた、彼にとっての救いになりたいだけの夢。俺は百々人先輩の絵なんて見たことないし、本当に欲しいものもあげられない。
それでも、触れたかった。一歩踏み出して、浮遊感に内蔵が浮く。
「えっ」
ざぶん、と水音がして片足が沈み込んだ。とっさに助けを求めて伸ばした俺の手を百々人先輩の指先が掴む。そのまま引っ張られてふたりして倒れ込めば、近寄った距離に油絵の匂いが立ちこめた。振り向いた先には海が広がっていて、その青さに目眩がする。
「……海、好きなんですか?」
「普通だよ。コンクールのテーマが『青』だったから選んだだけ」
こんなにも近い色彩の匂い。ざらざらとした百々人先輩の指先。俺が物語を進める前に先輩は立ち上がる。
「もうすぐ、紅葉が見せられる」
先輩は着いてきてとは言わなかった。ただ一歩だけ先を進んで、寂しく俺の靴音を待っていた。
***
雨の切れ目を見たことがある。世界が真っ二つになったみたいに分かたれて、片側だけに雨が降っていた。
そういう、神様の気まぐれによく似ていた。雑踏が突然草原に切り替わって、少し歩いたら高台に俺たちはいた。
燃えるような紅葉があたり一面に広がっていた。作り物みたいに都合のいい美しさだった。本当にきれいなものを見た時に人は泣くのかもしれないけど、俺はただぼんやりとその赤を見つめていた。
「見せられてよかったな」
百々人先輩が清々しく告げる。それは先輩の望みだろうか、俺の望みだろうか。
俺が見ている夢だ。それなのに、それを先輩の望みだと思うだなんて、馬鹿げているけど。
「もう、全部いらないかなって思ってたから」
瞬間、熱風が喉を焼いた。脳が警鐘を鳴らすほどの熱を背に、俺は百々人先輩の瞳に揺らぐ炎を見つめる。
世界の終わりみたいにあたり一面が燃えていた。真っ赤な紅葉をオレンジの火が舐め尽くしていく。耳の奥で轟音が鳴っていて、百々人先輩の声がうまく聞こえない。
「燃やしちゃおうって思ったんだけど、最後に見てほしくて」
「何言ってんだよ!」
考える前にからだが動いていた。ブレザーを脱いで必死に炎に叩き付ける。勢いが衰えることのない熱にも、のんびりと佇んでる男にもイライラする。こんなの、俺の勝手なイメージだ。その空想上の男に感情をぶちまける。拙い声に先輩は表情を変えることはなかった。最後は願うように、声を絞り出した。
「……アンタ、なんなんだよ」
辛そうに細められた瞳に炎が揺れている。怖くて、きれいだ。悲しそうに、目の前の男が呟いた。
「銀賞だよ」
だからいらない子になっちゃった。そう呟いて、呼吸をひとつ。取り囲む炎は俺を無視するくせに、あっけなく目の前の男を取り囲んだ。
「自画像って、呼んでもらえなくなっちゃったんだ。もう僕はいらない子だから」
パリパリと彼の表情が剥がれていく。絵の具の下には、泣きそうな、つまらなさそうな顔があった。
いやな顔だと思う。百々人先輩が絶対にしない顔だと思う。でも、こんな顔をしたって何にも不思議じゃない。俺はこの人のことをなんにも知らない。
知ったつもりに、なっているだけ。
「最後に、誰かに会えてよかったな」
パッと花火が爆ぜるように炎ははじける。あとには燃え落ちた世界があって、残ったのは肉の燃える匂いなんかじゃなくて煤けた美術室の匂いだった。
***
夢が終わるのには時間がかかった。
セオリーなら炎が消えたあたりで目覚めればいいのに、俺は焼けた草原を通り抜け、人一人残さずに燃え尽きた雑踏を背に、見当たらない海を想い、焦げた電車に辿り着いた。
ひよこは一匹もいない。別に、あれくらいは残っていていいだろうに。あれはただ、なんの気なしに描いただけのらくがきなんだから。
焼け焦げた座席に腰掛けて、息を吐く。どうやったら現実の世界に戻れるのかと目を閉じれば、ガタンとからだが揺れて世界に音が戻ってきた。
『次は──大学前。次は──大学前』
聞き覚えのあるアナウンスだった。乗客はたくさんいたし、ひよこも看板も見えない。ただ、燃えるようなオレンジが同じように車両内を照らしていた。
***
不思議な出来事──もしくは俺の夢から一日経っても二日経っても一週間経っても日常は変わらなかった。変わったのは俺の心のほんの一部だけで、百々人先輩も世界もなにも変わらない。
たまこやで適当に買い物をして事務所への階段をのぼる。どうせ多めに買っても事務所のみんなが食べるだろうと思ってコロッケを何個も買った。誰が食べても構わないけど、どうせなら百々人先輩や鋭心先輩に食べてほしいとは思う。
芸能人らしく「おつかれさま」と声をかけて事務所に入れば、山村さんが口元に人差し指を当てた。彼曰く、プロデューサーは不在でソファーでは百々人先輩がうたたねしているらしい。
ソファーを見下ろせば眠っている百々人先輩がいる。昨日と同じように、一昨日と同じように、のんきな顔をして眠っている。そこに悪夢の気配はない。
瞳の色は見えない。頬に触れればそれは当然のように肌の質感だった。薄皮一枚を隔てて、そこには血肉が通っている。
あの夢で見たつまらなそうな表情を、いつも笑顔の下に隠しているのだろうか。あのゾッとするほど悲しくて、泣きたくなるほど愛おしい子供のような顔を。
あんなの、現実でもなんでもないに決まってるのに。それなのに、俺は夢で見たあの感情が忘れられない。炎を映した紫陽花の、その燃えるような春を。