桜リタルダンド 鋭心先輩が桜に攫われてしまった。何を日科学的でバカなことをって思うでしょ? 俺もそう思う。
鋭心先輩と、俺と、百々人先輩。桜並木を名乗るには少しばかり力不足と言えるような、まばらな桜の中を俺たちはのんびりと歩いていた。丁寧で暖かい時間だったと思う。俺たちは仕事帰りで、次の仕事の話なんかをしながら、たまに視界を横切る桜の花びらに目を細めていた。
あっ、という間だった。眼前を完璧な形で通り過ぎた桜の薄桃色に視界を奪われた刹那、その向こう側に鋭心先輩の姿はなく、呆気に取られたような百々人先輩が頼りなく眉を下げていた。
「……消えた?」
「……どこにもいない……よね?」
消失マジック。ドッキリ企画にしては非現実的で撮れ高もない。こういうとき俺の取る行動は天才に相応しくない凡庸なもので、咄嗟にできたのはスマホを取り出して鋭心先輩に電話をかけることくらい。
──おかけになった番号は、現在使われておりません。おかけになった番号は……
ああ、どうにもならない。百々人先輩は困ったように笑っていて、そりゃそうだよな。笑うしかない、こんなの。
「……どうしましょ」
「……どうにもできないかなぁ」
現段階ではここに鋭心先輩がいないという事実しかなくて、それは鋭心先輩が失踪したとも、たんに俺たちとはぐれただけとも言える。
はぐれただけなら合流地点にいるのが一番手っ取り早いだろう。鋭心先輩を──そして現実的な現実を信じて、事務所で待つのが一番いい。一番かは知らないが、俺の動揺を沈めるには都合のいい落としどころだ。
いったん事務所で待ちましょう。俺が告げた結論に百々人先輩は頷く。歩調は妙にそわそわして、会話はろくに成り立たない。
「マユミくんじゃん」
「いるし」
事務所にいたのは頭のてっぺんからつま先の先までしっかりと『眉見鋭心』だった。真っ直ぐに伸びた背骨はそのままに、表情は少しだけ居心地が悪そうだ。
「心配したよ。どこに行ってたの?」
百々人先輩の安堵と言うよりは甘えが滲んだ声に、鋭心先輩は普段の彼を知る人間なら想像もしないような声色を出す。
「……わからない」
「は?」
「気がついたらここにいた」
鋭心先輩は桜道を歩いていたことをちゃんと覚えていた。ただ、薄紅に心を許した瞬間、気がついたらここにいたそうだ。
「非現実的だなぁ……」
「まぁまぁ、会えたならよかったじゃない」
百々人先輩はもうこの不可思議な道中に折り合いをつけ、安易な結果だけ享受することにしたらしい。俺はといえばどうにも現実感がなく、せめて存在を確かめようと鋭心先輩に視線を注いでいる中で彼の整えられた髪に桜の花びらを見つける。
「……ついてる」
そっと、それを引き剥がす。なんとなしに気分が悪かった。
「すまないな」
鋭心先輩はどこ吹く風だ。それどころか、俺をもやもやさせるようなことを言う。
「でも、なんだか落ち着く場所にいた気がする。ふかふかとして、柔らかな場所」
瞬時に俺の脳裏にはイメージが浮かぶ。積雪に見間違うような、積み重なった桜の花びらに体を預ける鋭心先輩の、安心しきった、胎児のような顔を。
相応しくない。そんな子供らしいワガママは口にしない。それでも、もう彼が桜に攫われませんように。そう願った瞬間、百々人先輩特有の甘く柔らかな声が鼓膜を揺らす。
「そんなに素敵な場所なら、また行けるといいね」
鋭心先輩は曖昧に返事をして目を伏せた。俺は自分の幼稚な願望を棚に上げて、やっぱり百々人先輩ってよくわからないなって思ってた。