愛しき戦場 ぼんやり、事務所のソファーに沈みながら指先でつまみ上げた紙を見ている。僕が書いた『花園百々人』って文字と回答と赤い丸、そしてたったひとつのバツ。どこにでもあるような、平々凡々なテスト用紙だ。
「……あと2点かぁ」
もう一番になる必要は無い。だからどうでもいいはずなのに、やっぱり少し気になってしまう。どうしても順位が気になる悪癖から目を背けるために、僕はこの焦燥感の理由を探す。
「やっぱり、頭がいいほうがクイズ番組の仕事とかもらえるよね……」
僕はもう一部では有名人だから、いまさらバカのフリはできない。そもそも、生徒会長が揃っていることが売りでもあるユニットなのだから、それはぴぃちゃんのプロデュースからは外れてしまうだろう。
少しだけ焦る。この事務所には少し外れた回答をしても場が盛り上がるような愛嬌がたっぷりとある人間がいて、それがしっかりとバラエティでウケているのも、ちゃんと知っている。バカにするわけじゃないけど、伊瀬谷くんの回答とかはわざとやっていると聞いたら納得してしまうかも知れないような内容だ。
バカのフリは出来ない。僕は満点くらい取れないといけないのに、そこで戦おうとしても大きな壁がそびえていることに気がついてしまった。
「……黒野玄武、かぁ」
知らない人は知らないだろうけど、彼もちょっとした有名人だ。全国模試一位の彼と、成績は悪いって聞いてるけど地頭は良さそうな紅井くん。彼らはとてもいいコンビで、きっとクイズ番組に映える。学年は違うらしいけど、この前とても分厚い本を読んでいるのを見た。家庭の医学なんて読んでいるんだから、きっと雑学も網羅しているんだろう。
中途半端だな。ああ、嫌気がさす。もうどうでもいい人の事を思い出す。ぴぃちゃんはあんな人とは違うけど、こんなに大勢いるアイドルから僕が選ばれる可能性はほんのちょっとでもあげておきたいのに。
中途半端だ。
今日はクラスで一番になれなかった。
たとえクラスで一番になっても、学校で一番じゃない。
学校で一番になっても、全国では一番じゃない。
ようやくそこから離れても、同じ事務所には全国模試一位がいる。
ぴぃちゃんは僕になにを望むんだろう。僕はどうなれば、もっとたくさんお仕事がもらえるんだろう。
どうすれば、ぴぃちゃんに僕を見てもらえるんだろう。
「なに見てんだよ」
突然、頭の上から声が聞こえた。山村さんは仕事で忙しいし、ぴぃちゃんはいないはず。そもそも彼らはこんなにざらざらとした特徴的な声をしていない。
心当たりはひとりしかいなかった。この声は牙崎くんだ。
「あっ……テスト、見てた」
唐突な質問にほとんど反射のように返す。こんな情けない紙切れ一枚も隠すのを忘れた僕に、牙崎くんは得意げに笑った。
「なんだ、98点とかたいしたことねーな! くはは!」
す、っと血の気が引いていくのがわかる。他人の口から、僕への評価が吐き出されるのは、きっと一生かかったって慣れやしない。値踏みされているような賞賛だって僕は怖いんだ。ましてや、こんな言葉なんて。
「……うん。ほんと、たいしたことないよね」
僕はうまく笑えたんだろうか。でも、どうでもよかったのかもしれない。僕の心なんてどうでもいいかのように、上機嫌そうな牙崎くんはマイペースに口にする。
「オレ様なんて176点だぜ!」
「……え?」
176点。もう一度牙崎くんが繰り返すものだから、これは聞き間違いではないと知る。
「え……? 176点? どういうこと?」
「アァ? 176点は176点だろ。98点より強ぇ」
そうやって彼が掲げて見せた紙切れには、26点と書かれている。
「……26点に見える」
「だから、176点なんだよ」
ダメだ、頭が痛くなってきた。そもそも僕は牙崎くんがちょっと苦手なんだ。なんとなく怖いし、何より彼はぴぃちゃんを下僕と呼ぶ。だから少しだけ距離を取って接していたんだけど、ここまでわけがわからないとは思わなかった。アマミネくんとマユミくんはいつ来てくれるんだろう。正直、もう会話が続く気がしなかった。
「おいオマエ。百々人さんを困らせるな」
呆れきった、きれいな低音が聞こえる。大河くんだ。大河くんは牙崎くんの喧嘩腰な返答を無視して、牙崎くんを引っ張って僕の対面に移動する。
「すまない百々人さん。コイツ、いまちょっとテンションが高いんだ。だから無駄につっかかった」
「あ……うん、それはいいんだけど……176点ってなに?」
謝罪されてもそれは大河くんの謝罪であって牙崎くんの口から出たものじゃない。でもきっと牙崎くんには何を求めたって無駄だろうし、それよりも気になることがあったから大河くんに質問を投げかけた。大河くんは大きく溜息を吐いて、申し訳なさそうに口にする。
「本当にすまない……。コイツ、テストの合計点で競おうとするんだ」
「……合計点?」
「いままでに受けたテストの合計だ。今日は26点だったから、今日で176点らしい」
「はぁ…………」
大河くんは呆れているけど僕は感心すらしてしまった。合計点って例えば国語と数学を足して、とかのことだと思ったんだけど、どうやらそれも違うらしい。淡々と説明してくれる大河くんに、牙崎くんはバカにしたように文句を言う。
「チビ、オレ様に負けたからってうるせーぞ」
「俺は32点でオマエは26点だろ。俺の勝ちだ」
「オレ様は176点だって言ってるだろ。一番強ぇ」
「はぁ……埒があかない。こういうことなんだ、百々人さん」
「そ、そうなんだ……」
相手をするだけ無駄だと大河くんは言う。めちゃくちゃな人だとは思っていたけど、ここまでだとは思わなかった。衝撃はどうやら一定値を越えると感心になるらしい。初めて知った事実が馴染む前に、後ろから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「じゃあ俺たちの勝ちだね」
僕の後ろから手が伸びてくる。満点のテストをテーブルにおいて、彼は言う。
「俺と百々人先輩、合わせて198点だ」
「なら俺の点数も足そう。俺たちに勝てるかな?」
振り向いたら、あんなにも望んだ人間が二人も居た。アマミネくん、マユミくん。名前を呼ぶ前に、不機嫌そうな声が反響しそうなほど大きく聞こえた。
「アァ!? んな点数すぐに抜かすに決まってんだろ! ……おい道夫! いますぐ新しいテストをよこしやがれ!」
台風みたいな音と勢いで牙崎くんが奥へと引っ込んでいく。僕は気がつかなかったけど、どうやらそこには硲さんがいて、きっと誰かしらがテストを受けているんだろう。
残されたのは台風に吹っ飛ばされかけた僕たちだけだ。いや、慣れた様子だった大河くんは無傷のまま、僕に頭をさげる。
「本当にすまなかった。これからもつっかかられたら無視してくれて構わないから」
そういって大河くんも立ち去ろうとする。少しの安堵を切り裂くように、アマミネくんが挑戦的な声を投げかけた。
「タケルさんの点数は足さなくていいの?」
くるり、振り向いた大河くんの表情から僕が読み取れるものはなかった。
「足さない」
ただ、突き放しているわけではないことはわかる。彼らなりの形が、僕には正しくわからないだけ。
「同じユニットの仲間なのに」
アマミネくんも呆れてはいなかった。ただ試すように、挑むように言葉を紡ぐ。きっといま、彼らはテストの話をしていないんだろう。
「……俺が挑み続ける限りアイツも挑むことをやめない。だから、俺が前を向いていれば、アイツは一人で勝手に100点でも1000点でも取る」
「ふーん……」
大河くんは相変わらずの仏頂面だったけど、アマミネくんは楽しそうに笑う。そうなんだ、と呟いて、テスト用紙をくしゃりと握った。
「俺たちは、三人で1000点でも10000点でも取るけど?」
「俺だって、アイツが1000点を取るならそれを越える……もちろん円城寺さんもだ」
円城寺さんの名前が出てくることに疑問は抱かなかった。あのほがらかな笑顔の下に、彼も闘志を秘めているのだろうか。
「……ライバル」
ぽつりと、口から漏れていた。それを聞いて、アイツが勝手につっかかってくるだけだと言いながら、思ったよりも柔らかい声で大河くんが呟いた。
「フォローくらいはするけどな。……俺たちはこれでいい」
それじゃ。そう言って大河くんも奥へと向かっていく。僕らが短く発した別れの言葉に視線だけを返して、投げかけるように、独り言のように彼は言った。
「……俺たちは、負けないから」
僕は返す言葉がなかったけど、アマミネくんとマユミくんはどうだったんだろう。彼の言葉は霧散して、あとには僕らだけが残される。
「……ありがと」
振り向いて、そのラムネのような瞳とメロンソーダのような瞳をそっと眺める。マユミくんは相変わらず真面目な顔をしていたけど、アマミネくんは不敵に笑ってみせた。
「俺たちは三人で1000点ですからね」
「そうだったね……ありがとう」
「しかし、三人で10000点を取る必要が出てきたな」
「あの人たち、ひとりで1000点取るつもりみたいですからね。……まぁ、そのへんは追々」
アマミネくんが向かいのソファに座って、マユミくんは僕の隣に来た。マユミくんはカバンからみかんを取り出して、僕に渡してくれる。
「差し入れだ」
「ありがと。マユミくんの持ってくる果物、おいしいから大好き」
みかんを受け取って、てのひらで揉む。こうするとおいしくなると言ったのは誰だったっけ。でもそのみかんを剥く気にならず、みかんを弄びながらぼんやりと口にする。
「……THE虎牙道は強いね」
彼らのパフォーマンスも見たことがある。あれは真似できないというのが正直な感想だった。それでも、アマミネくんの自信は揺るがない。
「強いです。在り方も、考え方も。……でも、あれは俺たちの最適解じゃない」
「そうだな。俺たちは俺たちの戦い方で戦えばいい」
「うん……そうだね」
わかってる。僕たちは三人で1000点だ。この言葉に、僕はどれだけ救われたんだろう。
それでも、少しだけ考えてしまうんだ。いままで一番でなかったからと捨て続けてきた、どうしようもないテスト用紙のことを。
認められなかったトロフィー。情けないと自分を責め続けるだけだったテスト用紙。ああいうトゲだらけで僕を傷つけるだけだった全部を、いまもしっかりと抱えていたら、僕はひとりでも牙崎くんに勝てたんだろうか。
「……牙崎くんは強いね」
一番になりたいなら100点を取るしかないって牙崎くんもわかってるはずだ。それでも、全然足りない結果をずっと捨てずに、抱えて、積み重ねて、ああやって得意げに笑えるのはなんでなんだろう。
捨てたくならなかったのかな。自分の価値を貶めるような、評価されるのが怖ろしくなるような結果たちを。
「……頑張らなきゃね。牙崎くん、きっといつか300点くらい取ってくるよ」
彼はひとりでも僕らを越えようとするんだろう。いつか、彼はテスト用紙を10枚も20枚も持ってくるに違いない。
強いな、って思う。うらやましいのかは、まだわからない。
それでも、僕の、僕らの戦い方はハッキリとわかる。三人なら、1000点でも10000点でも取れる。
「……俺たちは負けませんよ」
恐れなんてひとつも知らないみたいに、アマミネくんが口にする。
「ああ。俺たちには俺たちの戦い方がある」
翡翠の双眸が燃やす意志をそのままに、マユミくんが呟く。
「……うん、そうだね」
ふたりから見た僕の目は何色をしているんだろう。彼らと並んでも恥ずかしくない自分でいたい。強く、願った。