夢のあと『助けて』
日付の変わる少しだけ前、百々人先輩がグループトークにたった三文字を投げかけた。それ以上の言葉はなく、いつものように可愛らしいひよこのスタンプが押されることもない。
『どうかしましたか? 大丈夫ですか?』
慌ててメッセージを打てば既読が一件だけついた。先ほどの百々人先輩の発言にも既読はひとつしかついていないから、きっとまだ鋭心先輩は気づいていないんだろう。百々人先輩は俺のメッセージを見たはずなのに返事はない。ただ返事がないだけのたかだか数分間が、薄く引き延ばされて濁った膜を張る。
助けて、だなんて不穏な言葉だ。それに百々人先輩はこういうことを、あんまり言い出せない人だと俺は思う。そんな言葉を、こんな遅い時間に、たった一言だけ送ってきたんだ。きっと百々人先輩はとても困っているに違いない。
心配でドキドキする。息が少しもつれる。既読はついたけど反応はないだなんて、画面を開いたまま倒れていたりするのかもしれない。何か悲しいことがあって、何も伝えることができないのかもしれない。いま、もしかしたら一人だけで泣いているのかもしれない。
あと一分だけ待って、反応がなかったら電話をしよう。そう考えた矢先にひとつのメッセージが届く。そこに感情はひとつもなくて、画面は無機質に、俺が降りたことのない駅名を表示していた。
『百々人先輩?』
既読はつかない。
『何があったんですか?』
間髪入れずにメッセージを送る。
『ここに行けばいいんですか?』
既読が、ひとつだけついた。
『百々人? 何があった』
それは鋭心先輩からの既読だった。それきりグループトークは動かない。百々人先輩に電話をかけようか迷ったが、でない可能性が高いだろう。そう決めつけて、俺は鋭心先輩に電話をかけた。
「……もしもし? 鋭心先輩、百々人先輩が」
『わかっている。もう遅い時間だ、俺が百々人の言う駅まで様子を見てくるから、秀は』
「俺も行きます。もし先に着いたら俺が合流するまで待っててくださいね」
返事を待たずに電話を切った。急いで着替えて、爺ちゃんたちを起こさないように注意して家を出る。百々人先輩に電話をかけながら、途切れることのないコール音を耳に押し当てて駅まで全力で走った。終電までは余裕があったけど、少しでも早く百々人先輩に会いたかった。生ぬるい夏の風が皮膚を撫でて、滲んだ汗を鈍く揺らした。
***
「あ、アマミネくんだー」
駆け足で近寄った俺を迎え入れたのは拍子抜けするほど呆気ない声だった。百々人先輩はラフなTシャツに薄手のパーカーを羽織って薄暗い夏の夜に溶け込んでいる。改札の蛍光灯から少しだけ外れた道路沿いに百々人先輩は座り込んでいて、他に人影はない。
「百々人先輩……大丈夫ですか?」
百々人先輩はひとつも損なわれることなく存在していた。顔色も良く、きっと怪我もしていない。俺がもう一度大丈夫かと問えば、百々人先輩はキョトンとした瞳をこちらに向けてとぼけた声を出した。
「え? なにが?」
「はい……?」
話が違う。いや、百々人先輩が元気なのは嬉しいけれど、あれが嘘だったと言うには百々人先輩の声は無邪気すぎた。
「いや、百々人先輩……助けて、って」
「あー、うん。大丈夫だよ? でもちょっと……ひとりだと、なんだかなーって」
曖昧な言葉を返して百々人先輩は視線を下げる。その降ろされた左手には、真っ黒いゴミ袋が握られていた。
「うん。だから、アマミネくんが来てくれて助かったよ。どうもありがとう」
「どういたしまして。鋭心先輩もじきに来ますよ」
「え、そうなの? ふたりとも優しいなぁ」
うれしい、と笑う柔らかい声に被さるようにガタゴトと電車が立ち去る音が聞こえる。この電車は鋭心先輩を運んできたのだろうか。なんとなく、鋭心先輩が来る前に深くを聞くのは抜け駆けのような気がしていた。
「……アマミネくんは何をしてたの?」
「え?」
「さっき」
電車に吐き出されたであろう人間がまばらに散って目の前を通り過ぎていく。鋭心先輩の姿はない。
「ん……別になにも。ソシャゲしてたら通知がきたんで……」
たった数人が見えなくなれば、また俺たちは二人きりになった。たっぷりとした沈黙を挟んで百々人先輩がぼやりと呟いた。
「……邪魔しちゃった?」
「邪魔なんかじゃないですよ」
反射的に答えていた。じわじわと、電車のクーラーで冷えていた体が生ぬるい外気で汗ばんでいく。
「……っていうか、困ったことがあったら邪魔だとかそういうこと気にしないで、こうやってちゃんと教えてください。遠慮とかされるほうが、よっぽど、」
いやです、と吐き出す声に電車がやってきた音が重なった。俺は駅の改札に視線を移す。
「鋭心先輩、来ましたかね?」
「どうだろうね?」
改札を出た人間はふたりだけだった。そして、そのうちのひとりは鋭心先輩だった。俺と百々人先輩は短く手を振って鋭心先輩を呼ぶ。鋭心先輩がこちらを見た瞬間、百々人先輩がゆっくりと立ち上がった。
「百々人!」
鋭心先輩は心配そうに駆け寄ってきたが、百々人先輩はそれを見てニコニコと笑うだけだ。あまりにも普段通りの俺と百々人先輩を見て、呆気にとられている鋭心先輩が困ったように呟いた。
「……百々人。大丈夫、なのか?」
「わーい。マユミくんも来てくれたんだ。うれしいなぁ」
「百々人、いったい何があった」
「え? ああ、ちょっと……うん、でも大丈夫だよ。ありがとうね」
百々人先輩は鋭心先輩にも、何も確信めいたことを言わない。鋭心先輩はそれを聞いて、一度息を深く吸った。大丈夫なんだな、と念を押して、大丈夫、としか答えない百々人先輩を一度見て、問い掛けるように俺に視線を移す。
「秀」
「いや、俺もまだなんにもわかってないです」
「そうか」
百々人先輩は本当にうれしそうに俺たちを見ていた。目が合うとますますニコリとして、ありがとう、と口にする。その綻ぶ花に似た笑みに言葉を奪われている俺を置いて、鋭心先輩が口を開く。
「百々人。お前は助けてくれと言った」
「……うん。そうだね」
「俺たちは助けにきた。何があったか、聞かせてほしい」
「……ありがとう」
ふぅ、と百々人先輩が細い息を吐く。内緒話をするように近づいて、小さな声でこう言った。
「この袋にね、死体が入ってるんだ」
左手には、中身の見えないゴミ袋。人がすっぽりと入るわけもないサイズのそれを見て、俺は願うように口にする。
「……冗談、ですよね?」
鋭心先輩もきっと言いたいことは同じだっただろう。俺の言葉と、鋭心先輩の視線の両方を無視して百々人先輩は続ける。
「これからこれを埋めに行くところだったの。……手伝ってくれないかな?」
耳の裏側で、ガタゴトという他人事のような音が聞こえる。たっぷりとした沈黙の中で、百々人先輩はそれ以上何も言わなかった。
改札から出てきた人間はいなかった。鋭心先輩が何かを──何か正しいことを言う前に、俺は問い掛ける。
「百々人先輩は」
「うん」
「……困っているんですよね」
「うん。とっても」
「……なら、ねぇ、鋭心先輩?」
俺は鋭心先輩の指先を掴んだ。鋭心先輩が首を振る。
「……ダメだ。秀、百々人、それは」
「鋭心先輩。お願い」
百々人先輩は何も言わない。俺は死体という言葉に現実感を見いだせず、ただ百々人先輩をひとりきりにしないためにはどうしたらいいのかを考えていた。死体を埋める先輩を手伝うなんてどうかしてる。それでも、もう俺は一緒にいようと決めた人間をひとりきりにはしたくなかった。
「……百々人、お前は」
「嘘でも、冗談でもないよ。これには死体が入っていて、僕はこれから死体を埋める」
百々人先輩はいつもみたいに甘く掠れた声で淡々と告げる。鋭心先輩の顔は真っ青で、指先と唇が震えている。この人はダメかもしれない。そう思った。
「鋭心先輩……」
百々人先輩をひとりにしたくない。鋭心先輩にひどいことをさせたくない。そもそも百々人先輩にだってそんなことはしてほしくないけど、でもそうすることでしかこの人には寄り添えないんだとわかっていた。どうしようもなくて、俺はただ名前を呼び、声を待つ。
「……この先に埋められそうなところがあったんだ。こっちだよ」
鋭心先輩のことは諦めたのだろうか。口止めも何もせずに、無視するように百々人先輩は俺の腕を引いて歩き出そうとした。鋭心先輩からはぐれそうになった俺の指先を、鋭心先輩の手がしっかりと掴む。
「……マユミくん?」
そして、鋭心先輩はもう片方の手を百々人先輩の左手に重ねた。
「……俺も行く。お前たちだけで行かせるわけにはいかない」
その声は、もう震えてはいなかった。
「やったぁ。じゃあ、三人で行こっか」
手を繋ぎ直す。百々人先輩は左手に荷物を持っているから左側で、なんとなく鋭心先輩が真ん中。誰かがひとりでも振り解いたら破綻してしまうようなうっすらとした繋がりで、俺たちは死体を埋めるために歩き出す。
ありがとう。百々人先輩が一度そう呟いたきりで、俺たちが会話をすることはなかった。
***
俺たちが辿り着いたのは、ギリギリで神社の敷地内にあるような、森と呼ぶには心許ない木々の群れだった。都合のいいことなんて地面がコンクリートじゃないことくらいだけど、都内に穴を掘れるような場所があるだけ感謝しなければならないのかもしれない。なんせ、俺たちはいまから死体を埋めるんだから。
スマホのライトで照らした地面にはシャベルが突き刺さっていて、すぐそばに洗面器くらいの大きさをした穴があいていた。百々人先輩はきっと、最初は自分ひとりでなんとかするつもりだったんだろう。
百々人先輩はてくてくと歩いてシャベルを手に取った。鋭心先輩が声をかける。
「百々人、手伝おう」
鋭心先輩はもういつも通りの『眉見鋭心』に戻っていた。少なくとも俺にはそう見えた。百々人先輩はありがとうと笑ったが、シャベルを渡したりはしなかった。
しばらくの時間、俺たちは二人で百々人先輩が穴を掘るのを眺めていた。人を埋める時にはどれくらいの穴を掘ればいいんだろうか。気になったけど、履歴が残るのが嫌で検索はしなかった。いまさら、いろんなことが怖ろしかった。
「……百々人先輩。手伝いますよ」
恐ろしくて、恐ろしいから口にした。弱気に唆されてこの人を裏切らないように、手を汚さなければいけない。そう思った。
「アマミネくん、汚れちゃうよ?」
「……いいんですよ。手伝いにきたんだから」
半ば強引にシャベルを取り上げて土に突き刺す。しばらく掘っていたら鋭心先輩が交代してくれて、あっという間に彼の手も汚れてしまった。そうやって俺たちは三人とも指先を泥だらけにして、穴を広げて、共犯になって、繋がりを深めていく。穴はずいぶんと広く、深くなっていた。
「……もう、埋められるんじゃないか?」
穴を覗きながら鋭心先輩は言う。そうかもね、と返す百々人先輩に、鋭心先輩がためらうように口にした。
「……ゴミ袋の中身を見ていいか?」
「もちろん。でも、見ててあんまり気持ちのいいものじゃないと思うよ?」
百々人先輩は転がしておいた袋を持ってきた。中に手を突っ込んで、ずるりと中身を出す。
「とりあえず、片腕だけ持ってきたんだ」
「ひっ……」
取り出されたのは人間の腕だった。掴まれた二の腕の先はくったりと伸びて、しっかりと生えそろった五本の指先まで繋がっている。土気色の爪はスマホのライトに照らされて、うっすらと、白々しく浮かび上がっている。その無機質な死骸は、願望も相まってマネキンの一部分に見えた。
「……マネキンか?」
鋭心先輩にもそう見えたんだろう。こぼれた言葉に百々人先輩は一瞬だけ悲しそうな顔をした。確かめようとしたのだろう。鋭心先輩が伸ばした手を交わすように手を引っ込めて、そのまま穴の中に真っ白な腕を放り込んだ。
「死体って、言ってるじゃない」
ふてくされたように百々人先輩は間を置かず土をかけていく。どんどん闇に溶け込んでいく腕に触れるタイミングを俺たちは逃して、どんどん埋まっていく痕跡を見つめることしかできなかった。
手伝うとも、確かめさせてくれとも、やっぱりやめようとも、どれも、なにも言えなかった。それでも百々人先輩はときおりこちらをちらりと見たから、俺たちがいる意味はあるように思える。単調な音に鳥の声が混じりだした頃、百々人先輩が大きく息をついた。
「よし……おしまい」
ぽんぽんと土を均している百々人先輩に、俺はなんて言えばいいのかわからなかった。だから、なんだか間の抜けた言葉を返してしまう。
「えっと、おつかれさまでした」
近寄って、土で汚れたパーカーの裾を払ってあげることしかできなかった。一寸遅れで鋭心先輩が意を決したように問い掛けた。
「……俺には、あれが死体には見えなかった」
「……だから、言ってるでしょ。あれは死体なんだってば」
「そうだとしたらお前は犯罪者になる。俺は」
「鋭心先輩! そんなの、いまさら」
手酷い裏切りだと感じた。声色は憤りが滲んでしまう。鋭心先輩は一瞬だけ我に返ったように──あるいは悪夢に惑わされるように溜息を吐いた。
「いや……そうだな。ここについてくると決めたのも……さっきまで見守っていたのも俺だ。もう決めたことだ」
鋭心先輩は少しだけ猫背になって、口を押さえて「けほ」と短く呻いて黙ってしまった。吐いてしまうのかな、と思って背中をさすれば、数十秒後には立ち直って大丈夫だとまた背筋を伸ばす。鋭心先輩みたいな人もまっすぐ立っていられない時があるのが新鮮で、あんまりにも平然としている自分が少し気持ち悪かった。気持ち悪いと思ったのは自分のそういうところだけで、俺はあの死体がちっとも怖くなかったし、百々人先輩のことはひとつも嫌じゃなかった。
「あと腕が一本。足が二本」
帰り道に百々人先輩が思い出したように口にした。もう終電がなくなってしまった俺たちは行く当てもなく、ただ目的地も決めずに歩いていた。
「それと、あたま」
そうか。埋めるべきものはまだあるのか。俺はぼんやりと、重たいからと捨ててきたシャベルを想う。
「胴体はどうしたんだ? そこが一番大きいだろう」
今日埋めたのは腕一本だけだ。死体はいまどこにあるのだろう。そう問い掛ける前に百々人先輩が笑う。
「胴体は食べちゃった」
「食べっ……?」
「冗談だよ」
また鋭心先輩が口元を押さえるのを見た。別になにも感じなかった俺が聞くに、胴体は四つに分断してあるらしい。つまりあと八回は死体を埋める必要がある。
「このペースで行ったらあと八回ですね。結構あるなぁ」
「……腐らないのか? そもそも、死体はどこにある」
確かに、それもそうだ。いまこの世のどこかには片腕がない死体があって、それは百々人先輩の手の届くところにある。
「僕の家。腐らないようにしてるから平気だよ」
「……百々人先輩の家にあるんですか!?」
「うん。……あー、ちょっとややこしいから話したくないんだけど、いま僕の家だれもいないんだよね。だからバレないよ。大丈夫」
俺は百々人先輩の家に死体が転がっているっていうのに、誰もいないというほうが心配になってしまった。だから、きっと大切ではないことを口にしてしまう。俺にとってそちらが心配だっただけだ。
「じゃあ、百々人先輩ちゃんとご飯食べてますか? 百々人先輩、ひとりだと食事に頓着しないから……」
「え? ……あはは、死体じゃなくて、僕のご飯のこと気にしてくれるんだ」
ありがとう、と。いつもと変わらない声で百々人先輩は笑った。鋭心先輩はなにか思い悩んでいるようだった。当たり前だけど、ちょっと心配だった。
鋭心先輩は『大丈夫』だろうか。
「でも早いほうがいいから僕はこれから毎日埋めるつもり。もしも二人が暇な日があったら手伝ってほしいな」
「……連絡をしてくれれば、いつでも」
「ですね。……タクシーとか手配したいけど、そういうのって足がつくんですかね」
「どうだろうね-。でも、毎日朝まで歩くのは現実的じゃないかも……」
俺たちは行く当てもなく歩く。カラスが鳴いていて、断続的にコンビニの明かりが見えた。
夏の空はうっすらとピンクに染まって朝を待っている。紫が溶け込んだ桃色は、百々人先輩の瞳によく似ていた。
家に着いたのは爺ちゃんが起きる時間のギリギリ一歩手前、みたいな時間で、俺は爺ちゃんに見つからないかヒヤヒヤしながら玄関の扉を開けた。
目が覚めたということにしてシャワーを浴びる。泥の入り込んだ爪を、見られたくなかった。
眠気ごと洗い流して部屋に戻ると、メッセージが届いていた。ひとつは俺たちのグループトークで、もうひとつは鋭心先輩とのトークだ。
グループトークには百々人先輩のお礼の言葉とひよこのスタンプが添えられていた。そして、次もよろしく、とも。
俺はなんだか頼られているという嬉しさがいろいろな感情に勝ってしまい、「まかせて」とスタンプを押した。そうして、鋭心先輩とのトークを開く。
鋭心先輩からの言葉は簡潔だった。
『秀はあの腕が本物だと思うか?』
薄暗闇にぼやりと滲んだ白い腕を思い出す。肌の白さはさほど珍しくない色だった。百々人先輩の肌の色だってあれくらいだ。でも、光の加減かは知らないけど、必要以上に白く見えた。なんというか生命が抜けたと言うよりは元々なかったかのような、そういう無機質さがあった。
『……どっちにも見えるんですけど、状況が状況ですからね。俺はマネキンだったらいいなって思います』
『俺はマネキンだと思う。百々人が死体を保持しているとは考えにくい』
数秒も経たず、またメッセージが届く。
『考えにくい、ではないな。考えたくないというのが正しい』
『……はい。それはそうです』
少し不安になる。鋭心先輩はやっぱり『大丈夫』じゃないのかもしれない。鋭心先輩はあれが本物ではないと信じたいんだ。なら、本物だと確信したら、もう百々人先輩にやさしくしてはくれないんだろうか。
『……本当に死人が出ているなら何らかの動きがあると思う。もしも何もないのであれば、あれはマネキンだったと俺は思う』
もし、明日警察がきたら
途中まで打って、全部消した。流れたはずの眠気が一気に襲ってきた。
百々人先輩がマネキンを埋める意味ってなんだろう。死体を埋める方が、よっぽど人間っぽい。鋭心先輩は『大丈夫』なんだろうか。俺は百々人先輩が心配で、おなじだけ鋭心先輩が心配だった。
『誰が、誰を殺したんでしょうね』
送ってしまって、ちょっと後悔した。それでも既読がつかなかったのは運が良かったんだろう。鋭心先輩も、きっと眠気が限界だったに違いない。
送信を取り消してなかったことにする。気絶するように俺は眠って、大量のマネキンを百々人先輩がギターで壊しまくるというパンクな夢を見た。
***
『いまから埋めます! 暇な人はよろしく』
元気のいい犯行予告に「やるぞー!」と元気がよろしいひよこのスタンプ。これが寝る前とかなら寝る間も惜しんで参加するけど、現在時刻は朝の八時。俺はいま通学路を歩いている最中だ。
「サボりじゃん」
さてどう返そうかと考えていると、当たり前のように当たり前のことを鋭心先輩が言っていた。
『百々人、今日は開校記念日かなにかか? 俺はこれから学校だ』
朝まで歩いたのは二日前のことだ。流石に夜中に埋めると終電がなくて困ると話していて、結局昨日は眠くて埋められなかった。しかし、だからと言ってこんな時間に埋めなくても。
『サボりだよ』
ぶい。と言う文字と、なにやら得意げなひよこのスタンプ。もちろんVサインなんて出来るわけもない手羽を、ひよこは誇らしげに掲げている。
「マジでサボりじゃん……」
『百々人。それはよくない』
『ですよ。それに、こんな時間だと見つかっちゃいませんか?』
よくない、の部分は少しズレたが、俺と鋭心先輩の意見は概ね一緒だ。百々人先輩の表情は見えないが、きっと困ったような、ふてくされたような顔をしているんだろう。
『夜中だと朝帰りになっちゃう』
困った顔をしたひよこと同時に送られてきたメッセージも、確かにその通りなのだ。少し考えて、俺は提案する。
『俺の家の近くに埋める場所があれば、俺の家に泊まればよくないですか?』
これなら朝まで路頭に迷うこともない。俺はすぐに、家の周りで埋められそうなところを探す。
『え? それはご迷惑にならないかな?』
『ご迷惑もなにも、ここまで巻き込んでおいて今更ですよ』
百々人先輩のツボ、よくわかんないなぁ。死体を埋めるのは手伝わせるくせに、家に泊まるのは気が引けるのだろうか。
いくつか候補があったから学校帰りに下見をしてきます。それから、家族にも許可をとります。
そう文字を打っている途中で、鋭心先輩がとんでもないことを言いだした。
『俺の家に来い』
ここまではいい。問題は次だ。
『俺の家の庭に埋めろ。そうすれば誰にも見つからないだろう』
「……え?」
鋭心先輩が、自分の家に死体を埋めろと言っている。自分の懐に入れて、守り抜こうと、そう言っている。
『なにいつてるのまゆきくゆ』
百々人先輩めちゃくちゃ驚いてるな。わかる、俺も死ぬほど驚いてる。鋭心先輩が『大丈夫』か心配だったけど、こんなに『大丈夫』だとは思ってもいなかった。
『何言ってるのマユミくん! そんなことできるわけないよ!』
『俺たちはもう共犯だ。ならば発見されるリスクが低いところに埋めた方がいい』
確かに私有地なら掘り起こされる危険は少ないだろう。でも、それは同時に見つかったら言い逃れができないと言うことだ。百々人先輩だって、そんなことはわかってる。
『タイムカプセルを埋めるから掘り起こさないようにと頼めば問題ないだろう』
『でも……』
『これから八回危ない橋を渡るよりも、こちらの方が安全で合理的だ』
『……それで鋭心先輩は大丈夫なんですか?』
『問題ない』
しばらくグループトークは動かなかった。俺はグループトークじゃなくて、鋭心先輩に直接メッセージを送る。
『鋭心先輩、本当に大丈夫なんですか?』
『問題ない』
端的な返事だった。俺はなんだかざわざわして、詰めるように質問をしてしまう。
『鋭心先輩、やっぱりあの腕はマネキンだったと思ってるんですか?』
『そうだ』
くらりとした。この人は百々人先輩を信用してない。そう思った。
『万が一、本物だったらどうするんですか?』
俺は百々人先輩をひとりにはできないけど、おなじくらい鋭心先輩にひどいことをしてほしくない。死体はなるべく無関係のところに埋めてほしいし、百々人先輩を裏切るなんてひどいことは絶対にしないでほしい。そういう心配事が俺にはあったけど、そのうちのひとつは鋭心先輩本人が吹っ飛ばしてくれた。
『本物であればそれを背負うだけだ。何も変わらない』
うまく返事ができないうちに、グループトークにメッセージが届いた。
『……本当にいいの?』
『ああ。俺がうまく誤魔化そう』
鋭心先輩が嘘を吐くんだ。いまさら、そう思った。あのまっすぐで凛とした人が嘘を吐くなんて、俺たちはとんでもないことをしているんだ。
『じゃあ、マユミくんのことを信じるね』
慌てて、俺も参加すると意思表示をした。俺だって、ちゃんと巻き添えになって、ちゃんと共犯になっていたかった。
『決定だ。全て俺の家に埋めるのだから、百々人は学校に行くように』
いきなり会話が日常に引き戻される。はーい、という適当なスタンプを見て、思う。
「百々人先輩、絶対このまま学校サボるでしょ……」
俺もサボっちゃおうかな。そう考えはしたけれど、もう学校は見えていた。
***
話はトントン拍子に進んだ。その日のうちに鋭心先輩は家の人から了承を取り付けて、翌日にはこうやって俺たちはお泊まり計画を実行している。
百々人先輩は大きめのキャリーケースを引き摺ってきた。一見すると荷物が多い人だけど、このなかには死体が入っている。人間はこんな呆気なく、コンパクトに収納されてしまうんだな、と感慨深くすらなってしまった。
埋めるのは夜中だ。夜中にタイムカプセルなんて怪しまれやしないかと思ったけれど、お手伝いさんが帰る晩ご飯以降なら家には誰もいないらしい。それなら、と百々人先輩が深夜を希望したのだ。やっぱり、明るいところで死体を見るのは嫌なんだろう。
折角だから学校帰りにすぐ集まって、鋭心先輩の家で映画を見た。鋭心先輩が「これが面白いんだ」と取り出した映画は聞いたことのない作品で、鋭心先輩は少し嬉しそうにディスクを取り出した瞬間にぴたりと止まり、やはり別のものにしようと言いだした。なぜだと聞けば「洒落にならない」と返ってくる。なんでも、死体を埋めるシーンがあるらしい。
「それじゃ、一生死体を埋める映画が見れなくなっちゃうよ」
百々人先輩がもっともなことを言いだして結局俺たちはその映画を見た。埋めてるシーンでちょっと気まずくなって、それが暴かれたシーンではみんなでガッカリした。そういえばまだ俺たちのところに警察はきていない。やっぱり、本当に、マネキンだったんだろうか。どっちでもいいけど、結局はどっちかなんだ。わかる日はくるんだろうか。
鋭心先輩はマネキンであれと願っていたけど、マネキンだったらどうするかまでは言っていなかった。俺は百々人先輩が埋めたいなら埋めればいいと思っていたから、鋭心先輩もそうなのかもしれない。どうしてマネキンを埋めたくなったのかは、百々人先輩が言いたくなったら言えばいい。
食事はとてもおいしかった。見たことのない野菜が入っていた。お手伝いさんが夜食を作っておきましたと笑いながらサンドイッチを渡してくれた。きっと埋めたあとはお腹が減るから助かった。死体を埋めるのに、その手で食べる夜食を喜ぶなんて、我ながら色々終わってる。
食事はおいしくてお風呂も広い。入浴を終えたら時間差で、なんというか、やはりここは『眉見』の家なんだとビビってしまった。百々人先輩も同じくらい萎縮したみたいで、お風呂上がりの髪を触りながら呟く。
「……僕史上最高に髪がつるつるしてる……」
わかる。俺もつるつるしてる。
「金持ちのトリートメント、すさまじいですね……」
「ドライヤーも使った? すごくない? なんか形がもう……へん……」
「あれどっから風でてんのか、意味わかんなかったですよね……形と言えば、なんかよくわからない野菜がサラダに入ってませんでした?」
「入ってた! あれなに? 日本に住んでたら一生出会わない形してたよね」
鋭心先輩がお風呂に入っている間、ずっとそんな話をしていた。死体を埋める前にあとひとつくらい映画が見れるね、だなんて、そんなことを言って笑っていた。
「終わったー!」
きれいに揃った芝生をえぐり取って庭の端に大きな穴を掘った。木の根や石などがない庭は掘りやすくて、心配だった深さも充分に確保できている。
「僕、キャリー取ってくるね」
百々人先輩がぱたぱたと走っていく。その背中を見守りながら鋭心先輩に話しかけた。
「……鋭心先輩、死体を掘り起こすつもりですか?」
「……いや。よほどのことがない限り、そんなことはしない」
「ならよほどのことがあったら……まぁ、いいです。鋭心先輩は気にならないんですか?」
思い出す、真っ白な腕。記憶を辿れば辿るほど、映像はイメージに支配されて遠ざかる。
「気にはなる。だがやることは変わらないからな。知らなくても問題はない」
「問題はあるでしょ……だって、殺したか、そうじゃないかって話ですよ?」
「殺したとは限らない」
「死体を埋めるのとマネキンを埋めるのはイコールじゃないでしょ」
「なら、秀が聞くか? 殺したのか、拾ったのか、マネキンを埋めただけなのか」
鋭心先輩は怒っていない。ただ、淡々と提案をしているだけだ。
それがなんだか気に障った。こういうことに関して感情を剥き出しにしない鋭心先輩に勝手に腹を立てていた。
「百々人は死体だと言っている。なら、死体を埋める覚悟で付き合う。……俺はマネキンであれと、祈っているがな」
「……俺だって、そうですよ」
ガラガラと、漫画みたいなタイミングで百々人先輩がキャリーケースを引く音が聞こえてくる。キャリーケースの車輪が芝生の上に乗って、音は地面に吸い込まれていった。
「よーし、埋めちゃおう」
キャリーケースの中にはたくさんの、真っ黒なゴミ袋が入っていた。おそらく、八つ。しかし、鋭心先輩がすぐに気がついて口にする。
「……おい、七個しかないようだが」
「え?」
残った部位は八個だったはずだ。どこかの袋に多めに入っているのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。
「あ、あのね。あたまだけ持ってきてないんだ」
ごめん、と呟いて、百々人先輩は慌てたように口にする。
「あたまはさ、なんだかマユミくんの家に埋めるのが申し訳なくて……だからあたま以外を埋めさせてもらって、あたまだけはどこか……別の場所に埋めようかなって」
なんだか、弔うようなセリフだった。マネキンのイメージがガラガラと崩れて、触れたことのない腕の冷たさがイメージになって指先を撫でた。
「言ってなくてごめん」
百々人先輩はしゅんとして黙ってしまった。鋭心先輩が柔らかい声を出す。
「……いや、問題ない。確かに首は、そうかもな。ならとりあえず、これを埋めてしまおう……」
手を伸ばした鋭心先輩は、あの夜みたいに死体に触れさせてはもらえなかった。パッとゴミ袋を鋭心先輩から遠ざけた百々人先輩は、もう一度「ごめんね」と呟いて、俺たちを見る。
「僕がやるよ」
ひとつ、ふたつ、みっつ。百々人先輩はビニール袋を破いて中身を無造作に穴に落とした。どさどさと、腕と足が飲み込まれていく。
うすぼんやりと見つめた腕も、足も、子供と呼ぶには成長していて、大人と呼ぶには未熟だった。いったい百々人先輩はどんな人を埋めているんだろう。
よっつ、いつつ、むっつ。死体、あるいはマネキンを闇へと落とす。胴体にも傷はひとつもなくて、なんだかつるりと青白かった。
スマホのライトで照らしたパーツはどれもきれいで生きていたものの匂いがしない。俺は間違いなく安堵していたし、鋭心先輩もきっとそうだろう。それでも楽観的になれなかったのは百々人先輩がこれを死体と呼ぶからだ。百々人先輩は、何者かの死を願っている。
ななつ。百々人先輩は最後の中身も躊躇いなく落下させて、こちらに振り返り微笑んだ。正しく人間ひとり分、彼は泥に積み重ねて口を開く。
「はい。じゃあ、埋めちゃおうか」
シャベルで、スコップで、足で、俺たちは土をかける。こうやって暗がりで見ると、これが本物の死体でもおかしくないと思ってしまう。
首だけは、どこに埋められるのだろう。どこか見晴らしのいい場所とかに埋めたりするんだろうか。
そんなの、本当に弔いみたいだ。この死体はそういった、愛のようなものを受けるべき存在なのだろうか。
百々人先輩は、この死体を愛していたのだろうか。
目覚めたら見知らぬ天井を目に入った。死体を埋めた夜の記憶より、こっちのがずっと夢みたいだ。
今日が休みでよかった。こんなふわふわの布団と一緒に入れる時間は長ければ長いほどいい。
それでも鋭心先輩がとても健康的な時間に起きるので、俺たちも一緒に起きることになった。鋭心先輩は寝ていてもいいと言ったが、起きた。正直寝ていたかったけど、それ以上に俺はお腹が減っていた。やったことは死体を埋めるという犯罪行為だし、終わったあとにサンドイッチまで食べたのに、健康的な男子学生は一晩寝たら空腹になるんだから仕方ない。
朝ご飯もおいしかった。真っ白で光沢のないパンはあの夜に見た腕に似ていた。きれいに泥を洗い落とした手で、慣れない手付きでパンをちぎって食べた。
午後のレッスンの時間まで、俺たちはのんびりと映画を見る。沈黙を紛らわせる映像と音声は俺たちを核心から遠ざける。こうやって消費される架空の人生に涙を浮かべる人がいるように、なにかを弔いたいのなら俺たちはあの死体を忘れてはいけないんだろう。人がひとり死んでいる。死んでいなくても、死んだことにしたいと願った人がいる。たったひとこと、『助けて』と言った人がいる。
エンドロールでチラリと百々人先輩を盗み見る。百々人先輩は泣いていた。
***
『助けて』
メッセージが届いたのは死体の大半を埋めた夜から二日後のことだった。あの日のように、百々人先輩はたったそれだけを願っていた。
『なにがあった?』
真っ先に反応したのは鋭心先輩だった。俺も、それに続く。
『死体関係の話ですか?』
バレたのだろうか。また埋めていないあたまが発見されたのだろうか。それとも、埋めた死体が掘り起こされたんだろうか。
思ったよりも焦っていないのがなんだか不誠実ですらあった。俺は似つかわしくないほど冷静に百々人先輩の言葉を待つ。
返事はすぐに来た。送られてきた、たった四文字の駅名を指でなぞる。
『いまから行きます』
『すぐに行く』
まだ夕飯前の時間だった。それでも、あの日と同じように駅まで走る。電車に乗って息を整える。何十本もの腕がつり革にぶら下がっている。俺は真っ白な腕と、ちぎったパンの感触を思い出していた。
***
「あ、アマミネくんもきた」
駅に着いたらもう百々人先輩も鋭心先輩も来ていた。百々人先輩は当たり前みたいに、片手に黒いゴミ袋を持っている。
「なんかもう、白昼堂々って感じですね」
「公共の森があるらしい。夕方以降なら人も少なく、逆に深夜のほうが危ない……だったな、百々人」
「うん。……自然がいっぱいだから、喜ぶかなって思って」
百々人先輩はどこか愛おしげにゴミ袋をぽんぽんと撫でた。この人は自然が好きなのだろうか。そういうことを、知っている相手を百々人先輩は埋めているんだろうか。
鋭心先輩はゴルフケースを持っていた。なんでも、中にはシャベルとスコップが入っているらしい。そういえば、そうだ。百々人先輩が最初に持ってたシャベルは深夜のノリで捨てたっけ。
俺たちは並んで歩く。手は繋がない。それでも、たくさん、たくさん喋りながら歩いた。鋭心先輩の家がすごかったこととか、この前のレッスンのこととか、いまから行く、森のこととか。
「……いまから埋める人、自然が好きだったんですか?」
ドキリとした顔をしたのは鋭心先輩だけだった。百々人先輩はちょっと悲しそうに笑う。
「どうだろう。この子は、何が好きだったんだろうね」
その話はそれきりだった。百々人先輩は、「この子」と呼ぶ人間を埋める。それだけがわかって、なんだかとても寂しかった。
***
森には誰もいなかった。整備されてない森は鋭心先輩の家の庭とは大違いで、掘るのに手間取っていたらあっという間に夜になっていた。
ぽっかりと空いた穴に百々人先輩がゴミ袋をいれようとする。それを鋭心先輩が制止した。
「……なに?」
「中身は取り出さないのか?」
いままで埋めてきたパーツのように袋から出さないのかと鋭心先輩は言う。俺は死体を埋めるときのセオリーは知らないけれど、そういえば百々人先輩はあの庭で、わざわざ中身を取り出して埋めていた。
「ん、この前はちゃんと持ってきたよって伝えたくて見せたけど……死んだ人間の顔なんて、別に見たいものじゃないでしょ?」
どうやらあちらがパフォーマンスだったようだ。それなら、と俺が口にする前に鋭心先輩がまっすぐに告げた。
「顔が見たい。百々人が自然を見せてやりたいと弔う相手だ……俺もちゃんと、弔いたい」
百々人先輩は放りかけたゴミ袋をぎゅっと腕に抱いた。そうして、問い掛けるように俺の方を見る。
「……俺も、見たいです。百々人先輩の態度見てたら……その人はちゃんと弔われるべきだってわかるから」
俺は手を伸ばしたりできなかった。百々人先輩はたっぷりと沈黙に視線を沈め、ようやく言葉を吐き出した。
「……僕がこの人にしてやろうとしたことなんて、ただ森に埋めるってだけだよ」
「それでも、お前が弔いたいを思った気持ちは本物だろう? なら」
「僕が殺したって言ったら?」
突き放すような声に心臓が冷えた。深く吸った息は夏の夜風に侵されて、生ぬるく喉に張り付いた。
「いらない子だから殺したんだ。もう顔も見たくないの。だから、このまま埋めさせて」
百々人先輩は独り言のように呟いて穴に近づく。その腕を、今度こそ鋭心先輩が掴んだ。
「百々人」
「なに?」
「感情を抱いた相手ならしっかりと弔え。目を背けるな」
そう言って、圧倒的な正しさを投げかける。それでも鋭心先輩はゴミ袋を奪うことはしなかった。
百々人先輩は悲しそうに一度だけ目を伏せて、諦めたように悲しく笑う。
「……弔ってあげたら、きっとこの子は喜ぶよ」
「そうか」
「二人が弔ってくれたら。でも、この子はもう死んだから、お願い、埋めさせて」
そう言って百々人先輩は袋に手を突っ込む。俺たちはそれを見守る。百々人先輩が何かを取り出す。一瞬、若草色がちらついた。
引きずり出されたのは、百々人先輩の首だった。
「……え?」
閉じられた瞳の色はわからないが、髪の色も、輪郭も、目鼻立ちも、特徴的な泣きぼくろも、その首を持っている百々人先輩となにひとつ変わらない。
「百々人が……ふたり……?」
混乱する俺たちを無視して、百々人先輩はその首を穴へと落とす。そうして、つまらなそうに足で土をかけ始めた。
しばらく動けなかった。百々人先輩は足では埒が明かないと思ったんだろう。シャベルを手に取る、その音で呪縛が解けたように体が動いた。
「百々人先輩!」
百々人先輩は俺を無視してどんどん土をかける。俺の声を聞いた鋭心先輩も我に返ったように百々人先輩の肩を掴んだ。
「百々人! いまのは……」
鋭心先輩がまた言葉を失う。一瞬、俺は百々人先輩から視線を逸らして埋められかけた穴を見ていた。その隙に、変化が起きていた。
「百々人……先輩……?」
百々人先輩の顔が見えない。百々人先輩の顔に、子供がマジックでぐしゃぐしゃにしたような線がかかっていて、その表情がわからない。
「百々人……?」
鋭心先輩にもきっと同じものが見えているんだろう。油断した鋭心先輩は百々人先輩に突き飛ばされてしりもちをついた。俺たちからたっぷりと距離を取った百々人先輩が、足下からじわじわと、墨で塗りつぶされるように真っ黒になっていった。俺は足の力が抜けて、すとんと座り込む。目の前で、百々人先輩は色を失って、黒に食いつぶされていく。
あとはあっという間だった。全身が真っ黒になった百々人先輩は──百々人先輩がだったものは、一瞬で灰になってしまった。取り残された俺たちは呆然とするしかなくて、しばらくのあいだ、呼吸すら忘れて座りこんでいた。
どれくらいそうしていただろう。鋭心先輩が俺の名前を呼んだ。
「……秀」
鋭心先輩の声だった。それ以外は、ぜんぶニセモノめいていた。
「……はい」
鋭心先輩は立ち上がって、シャベルを手に取る。
「向き合おう。俺たちだけでも」
そうして、穴を掘り出した。
「俺たちは、誰を埋めたのか」
俺も立ち上がる。瞳を閉じた、眠っているようだった百々人先輩の首を思い出す。
「百々人は、誰を弔うことを望んだのか」
シャベルが何かに当たったようだ。二人で、そうっと土を避けていくと、そこには額縁に納まった絵があった。
「これは……」
「……百々人、先輩……?」
描かれていたのは百々人先輩だった。泥だらけになって、なんだか不幸せそうに笑っていた。
***
「ネットで検索したら出てきましたよ。自画像のコンクールで花園百々人は銀賞ですって」
「そうか……」
百々人先輩と連絡が取れなくなった俺たちは鋭心先輩の家にいた。二日前に芝生を剥がしてまで埋めた死体を掘り起こそうと、必死にシャベルで土を掻き出している。
「……出てきた」
穴を掘っているとき、なにも言えなかった。百々人先輩が弔いたかった『この子』は百々人先輩自身だったのだろうか。
腕や、足や、胴体が入っているはずの暗闇の中で、何かが泥に埋もれている。掘り起こして出てきたものは死体でもマネキンでもなかった。
「……トロフィーだ」
「こっちは……賞状、ですね」
「……腕も、足も、どこにもない……」
あの日に弔った死体は消えて、穴の中にはたくさんの勲章が埋まっていた。手だったものも、足だったものも、胴体だったものも、人の形をしているものはひとつも存在しなかった。銅賞、佳作、銀賞、入賞。抱えきれないほどの全ては『花園百々人』を中途半端に称えている。
「これが……百々人の埋めたかったものなのか……?」
「……賞キラー」
「え……?」
「……鋭心先輩。俺たち、埋めちゃいけない人を埋めちゃったのかもしれない」
百々人先輩は弔うつもりだったんだ。いらない子って呼んで、殺してしまうつもりだった。違う、もう、殺してしまったんだ。
「俺たち、止めなきゃいけなかったんです。ちゃんと話を聞いて、それは埋めたら……殺しちゃダメですよ、って」
それきり声が出せなかった。泥まみれのトロフィーが、夏の濁った月明かりでぼんやりと輝いていた。