あとでちゃんと返した スクラッチくじが削りたかった。だけど手元に硬貨がない。
全然期待なんてしていない、駅前で気まぐれに買った安いくじだ。外回りの時にふと買って、デスクに座るまで忘れていたような紙切れが名刺入れを取り出すついでに出てきたものだから、それを机に置いて俺はもう一度ポケットを探る。ダメだ、財布はあっちの鞄の中だ。
山村くんはいまいない。事務所にいるのは漣くらいだった。漣は珍しく起きていて窓辺でぼんやりと空を見ている。窓辺の誰の席でもない物置代わりのデスクにどっかりと座って、真昼と夕暮れを彷徨う空をただ見ていた。
「漣」
名前を呼ぶと、漣は少しだけ首を動かしてこちらを見る。
「小銭があったら貸してくれ」
スクラッチくじが削りたかった。漣は財布も鞄も持ち歩かないけれど、少ない荷物のなにもかもをポケットに入れて持ち歩くことを知っている。それは万札だったり、商店街のたい焼き屋のポイントカードだったり、誰かからもらったキーホルダーだったりして、その中に小銭があることも珍しくない。
漣はポケットを探ることはしなかった。こちらに向けた瞳をにやりと細め、指で空を指す。
「見てろ」
空には霞むような月がある。太陽がまだ浮かんでいても月は出るものなのだろうか。もしかしたら月ではない惑星なのかもしれないが、俺は宇宙に詳しくない。
その月のようなもの──月ということでいいか──を、摘まむように漣が手を動かす。遠近法で人間を摘まんでいるような写真を撮るときの動きによく似ていた。見ていろ、と言われたので、意識して漣の指先を見る。
きゅ、と漣が指先を閉じる。そうすると、その指先にはなにかがある。
「……ん?」
漣がなにかを摘まんでいた。こちらに向けた金色の瞳をうんと胡乱にしたような色の、柔らかく薄ぼんやり光る、なにか丸いもの。さっきまで空に浮かんでいた月そのもののようなそのまんまるは、真珠を溶かしたように美しく蛍光灯の光を反射していた。
視線を移す。ふと空を見る。空にはさっきまであった月がない。おい、と漣が俺を呼ぶ。
「ほらよ」
そう言って漣がこちらに『それ』を投げてくる。反射的に受け取ったそれは硬貨に似ていた。ただ、質感が多少異なるように思える。牡蠣の殻の内側のような、命とは近からず遠からずといった距離を保っているような、そういう手触りを、それはしていた。
「地球じゃどこでも使えねーけどな! くはは!」
漣はイタズラが成功した子供のように笑う。自販機に行くとでも思っているのだろうか。残念なことに目的はそれではないものだから、俺は漣が不機嫌になるのも承知で礼を言う。
「いや、これでいい。ありがとうな」
その硬貨のようなものでスクラッチを削れば、案外のっそりと銀の膜が剥がれていった。漣はつまらなさそうに俺のそばに寄ってきて、隠し事が暴かれていくのをじっと見ていた。