最初の一歩、次の二歩目。 ポン菓子が砕けてしまった。お米がどういうわけか形を変えた、軽くて甘くて脆いお菓子。
せっかくアマミネくんにもらったんだけどな。袋を逆さまにして粉々になった欠片を口に流し込みながら、僕はひとつの記憶を無意識に辿っていた。
すごく小さい頃、だと思う。僕が炊いたご飯がぐちゃぐちゃのおかゆになっちゃった日のこと。
形なんて覚えてないけれど、結果から考えればそのお米もこのポン菓子みたいに砕けていたんだろう。理由だってわからないけれど、小さかった僕がお米をとぐときに力を入れすぎたって考えるのが自然だ。そうやって一生懸命になりすぎた結果、ご飯はぐちゃぐちゃのべちゃべちゃになった。きっと僕の表情もべちゃっとしてたと思う。お母さんは僕を見ず、こう言った。
「百々人には料理の才能はないみたいね」
そう言ってお母さんは宅配ピザを注文した。ピザが届くまでの時間、僕がどうしていたのかは覚えていない。ただゴミ袋に入れられたおかゆがぐったりとしていて、重たく弛んだゴミ袋が弾ける心配の無い水風船に似ていたんじゃないかと思う。本当に小さい頃だったからなんにも覚えていなくって、だからこれは後付けの、想像の記憶だ。ただ、僕が大好きだったピザの味がしなくなったのは、あの日からなんじゃないかって思う。
それ以来、キッチンに立ったことはない。禁止されていたわけではないけれど立ってない。
お母さんはもういないけど、立てない。
***
「おはよう大河くん……ダイエット?」
事務所についたら大河くんがいた。大河くんは牙崎くんと一緒でたくさん食べるイメージがあったけど、テーブルに乗せられているのは控えめなスープジャーひとつだ。大河くんはボクサーだったらしいし、もしかしたら前職に関連づけて減量しなければならない番組や企画があるのかもしれない。
「おはよう、百々人さん。これは……アイツのせいだ」
大河くんが不機嫌を滲ませるときは牙崎くんがセットになっている。牙崎くんのせいで大河くんの食事に制限がかかるんだろうか。疑問に首を傾げていると、大河くんはスープジャーをあける。
おかゆがはいっていた。なんだか、いまは見たくなかった白い泥。
「……牙崎くんのせい、なの?」
不安、だろうか。なんだか心臓がドキドキする。それでも、大河くんが梅干しやらおかかやらが入ったタッパーを取り出したから、少し心が安まった。このおかゆは、大河くんが食べるんだ。
「その……俺たちはよく夕飯を一緒に食べるんだが、アイツは後片付けをしない。なんにも手伝わない」
俺たち、っていうのはユニットメンバーのことだろう。円城寺さんと、牙崎くん。牙崎くんがなんにも手伝わないのは容易に想像ができた。
「だから円城寺さんがアイツをお米大臣に認定したんだ」
「おこめだいじん」
「アイツはバカだから、おだてればやる」
まるで子供みたいだ。そして、なんとなく察しがついた。
「で……アイツがヘタクソすぎるんだ。もう三回とも粥にしてる。昨日は円城寺さんの家に泊めてもらったから……朝に四回目を試して、このざまだ」
そう言って大河くんはしわくちゃの梅干しをおかゆに落とした。そのまま乱雑にスプーンでかき混ぜるから、着色料めいた紫蘇の色が白に砕けて消えた。
「そっか……」
食べてくれていいな、ってちょっと思った。四回目があって、きっと五回目もある牙崎くんが羨ましかったのかはちょっと自分でもわからない。だから口から出た言葉は事実だけで、僕は自分の気持ちを追うことはしなかった。
「僕もお米炊くの苦手なんだよね。おかゆになっちゃう」
「百々人さんもか」
意外そうに大河くんが目を丸くした。
「うん。大河くんはできるの?」
「俺はお皿大臣だから……やればできると思うけど、いつもレンジで出来る米を買ってちまうから……」
炊飯器が家にないと大河くんが言う。
「そっか。でも大河くんなら出来る気がする」
「そうか? それを言うなら百々人さんも……器用そうなイメージがあるから、意外だった」
大河くんはそう言っておかゆを食べ出した。お母さんはもう家にいないから、親の話をされなかったのはありがたい。大河くんの家には炊飯器がないって言うし、もしかしたら大河くんのお母さんは料理が苦手か、しないか──ないと思うけど、僕とおなじでお母さんがもういない、とか。
「……小さい頃に失敗しちゃって。おかゆになっちゃった」
「百々人さんもか? アイツと同じだな」
「うん。多分力を入れすぎちゃうんだろうね」
小さい頃の花園百々人なんて、生まれ変わった僕からしたらどうでもいい他人だ。それなのに切り離した過去を掬い上げるみたいに大河くんは言う。
「わかってるなら、次はうまく出来るんじゃないか?」
「……え?」
「また挑戦したらいい。炊飯器、あるか?」
炊飯器はある。もう誰も使ってない、きっとお米を炊くことも忘れちゃった重たい役立たず。
「……僕は料理の才能がないから、台所に立たせてもらえないんだ」
もらえないんじゃなくて、立てなかった、だ。お母さんの視線や声を思い出すと、どうしても僕は台所に立つことができなかった。ゴミ袋のおかゆが、過去から復讐しにやってくるような気がして怖かった。
「そうか……そうだ、円城寺さんがいいって言ったら今度俺たちと晩飯を食わないか?」
「……大河くんたちと、晩ご飯?」
「ああ。円城寺さんの家には炊飯器がふたつあるし、円城寺さんならきっと練習させてくれると思う」
「……ふたつもあるんだ」
「俺たちが上がり込むようになって買ってくれたんだ。円城寺さんの家にもともとあったのは小さくて足りないから」
行くとも行かないとも言いたくなくて話をはぐらかそうとしたのに、大河くんはスマホを取り出した。そうして、僕の目をじっと見る。
「嫌ならいい。ただ、円城寺さんは嫌がったりしない」
そうやって断定できるような、そういう絆に入り込むのは嫌だった。三人と一人になることが容易に想像できてしまう。
それでも断れなかったのはなんでだろう。未練、だろうか。それを僕は体のいい言い訳でふたをした。だってこれからひとりで生きていくんだから、お米くらいとげたほうがいいよね、って。
諦めきれなかったのかもしれない。才能がないって諦めたかったのかもしれない。僕は申し訳なさで少しうなだれて、それでも望むように笑う。
「……じゃあ、お願い。円城寺さんがもしダメって言ったら、いいから」
「言わないと思う。開いてる日を教えてくれないか?」
「仕事とかレッスンがなければ暇だよ。あとでトーク送っておくね」
僕には門限もなければ待っている人も晩ご飯もない。大河くんは真顔で頷いて、スマホに目を落とし、それを僕に見せて微笑む。
「ほら、やっぱり」
円城寺さんって思ったよりもかわいいスタンプを使うんだ。了承を示すスタンプを見て、僕は曖昧に微笑んだ。
***
大河くんに連れられて、僕は降りたことのない駅から見たこともない道へ、そして知るはずもないアパートへと辿り着いた。
「おお、百々人。よくきてくれたな」
ゆっくりしていってくれ。そう言って通されたのは質素な和室だった。生活感があって、なんだかあったかい。やわらかくさしこむ夕日を浴びて牙崎くんが寝転んでいる。
「あの、本当にありがとうございます……ただ、僕ほんとうにお米がとげなくて……」
「なに、硬かったら煮れば粥だし、粥は粥でうまいだろう? 遠慮せずにやってくれ」
荷物をおいた僕に円城寺さんはエプロンをかぶせてくれる。家庭科の授業で着たきりのそれをつけて台所に立った瞬間、急にあの家の気配がして嘔吐感がこみあげてきた。
また失敗したらどうしよう。また見捨てられたらどうしよう。もしも失敗して、もしも、
「……どうした? 具合がよくないか?」
円城寺さんの大きな手が背中をさする。幼少期に一度ももらえなかったぬくもりに、少しだけ吐き気が消えた。
「ぁ……あ、緊張、しちゃって」
「そうか。無理はしなくていい」
やらなくていい。できないんだから。お母さんの顔が浮かぶ。ぐちゃぐちゃのお米が浮かんで、ゴミ袋が浮かんで──本当に唐突に、大河くんの言葉が浮かんだ。
『また挑戦したらいい』
できないなら無理しなくていい、なんてことはない。僕は諦めるくらいなら無理くらいする。だって、それをさせてくれる人達に囲まれているんだから。
「いや、できます」
そう言って僕は腕まくりをした。大丈夫。この人はぴぃちゃんが選んだ人で、挑戦してもいいと背中を押してくれたんだから。
「じゃあはじめようか。大丈夫、今日できなくても、いつだって来ていいんだからな」
ほら、次もある。じわりと熱くなる目元を誤魔化すように、僕は心から笑った。
***
「うまいじゃないか!」
「そ、そうですか?」
「ああ。飲み込みが早いというか……教えることなんてないくらいだ」
「よかった。一応予習してきたんです」
動画サイトでお米のとぎかたは予習してきた。それを覗き込んだ大河くんが感心したように言う。
「なるほど……勉強になる」
そういえば、僕には教えた経験も、教えられた経験もない。
「タケルもこっちを見習ったほうがいい。自分のは適当だからなぁ」
「適当でもなんでも、うまければいいと思う」
仕事と事務所でくらいしか話したことはなかったけど、大河くんも円城寺さんも優しかった。牙崎くんは、どちらかと言えば優しくない。
「漣もこっちにきたらどうだ?」
「きょーみねえ。ってか、ソイツが米とぐならオレ様は寝てていいだろ」
すっと背筋が凍る。僕はいま、誰かの居場所を奪っていないか。
「あ、ごめん、牙崎くん……」
声が震えた、気がした。それを宥めるように、そして牙崎くんを咎めるように大河くんが言う。
「炊飯器が二個あるだろ。一個はお前だ。ただでさえ手伝わないんだから働け」
「そうだぞ漣。お米大臣なんだから、漣の炊いた米が食いたいなぁ」
飴と鞭、って感じだ。それでもむくれている牙崎くんに大河くんがいつもの淡々とした調子で告げる。
「まぁオマエに米をとぐなんてできやしないか。最強大天才が聞いて呆れる」
こんな簡単に乗せられるのは小学校低学年くらいではないか。
「アァ!? できるに決まってんだろ!」
乗っちゃった。
「じゃあ次は漣の番だな。よし……あとは炊飯器にいれて、スイッチを押すだけだ」
「うん。……ちゃんとできるかな、ドキドキする」
スイッチをいれる。ピー、と音が鳴る。その音を合図に牙崎くんがやってきて、邪魔だと言って円城寺さんと大河くんを追いやってしまった。僕は追いやられることも歓迎されることもなく、ただただ取り残されてぼんやりと立っていた。
牙崎くんを見てると、きっと小さい頃の自分もこうやってお米をといだんだろうなって思う。
お米をとぐときに出せる最大の騒音で、釜のなかでお米同士が悲鳴をあげるようにぶつかりあっている。盗み見ても真っ白な集合体の破片はよくわからないけれど、確実に、ポン菓子みたく砕けていくんだろう。
円城寺さんにきてほしい。このままじゃ失敗してしまう。早く、教えてあげないと。
ところが円城寺さんは何処吹く風であみぐるみを始めてしまったし、大河くんはゲームの電源をいれてしまった。残された僕はおろおろと、牙崎くんの破壊行為を見守っている。
僕が教えてあげないと、きっと牙崎くんは失敗してしまう。
それでも教えるのはこわかった。そもそも僕は牙崎くんのことが少し怖いし、人に教えられるほどの才能もない。僕なんかが助言したって、きっといいことなんてひとつもない。
それなのに勝手に言葉が溢れた。あの日、必死にお米をとぐ僕に、誰かが、お母さんが何かを教えてくれていたらと、そういう気持ちが喉元までせり上がって言葉になる。
牙崎くんが、あの日の僕ならば。
「……牙崎くん」
「アァ?」
怖い。それでも。
「お米……もうちょっと力を抜かないと失敗しちゃうよ」
声は小さくなってしまったけれど、ちゃんと言えた。牙崎くんはじっと僕を見て返す。
「オレ様は失敗なんてしねーし」
「四回も失敗しといてなに言ってんだ」
「うるせーぞチビ!」
大河くん、聞こえてるなら助けてくれればいいのに。というか、教えてあげないだなんて円城寺さんと大河くんは薄情者だ。内心で少し憤れば、牙崎くんはそれを見て少しだけ言い聞かせるように僕に向き合う。
「……失敗すんのはオレ様の勝手だろ」
「え……?」
「オレ様は失敗しねーけどな! ただ、オレ様が何やってもオレ様の勝手なんだよ」
失敗するのが自由だなんて、そんなことは思ったこともなかった。またお米を破壊しはじめた牙崎くんを僕はじっと見つめる。
「漣はいま挑戦してる最中だもんな」
円城寺さんの、ほがらかな声が聞こえた。
「言っただろう? 何回失敗してもいいんだ。漣はいまそうやって力加減を覚えてるんだよな」
僕は牙崎くんから離れて円城寺さんの横に座った。笑顔でこちらを見てくれる円城寺さんに、そっと言う。
「失敗して、いいの?」
「ああ。最初に言っただろう?」
「でも、迷惑かけちゃう」
「いいさ。それに、失敗するのは権利でもある」
奪っちゃならない大切な権利だと、円城寺さんはそう言った。
「痛い目を見ないとわからない……とまで突き放すつもりはないが、失敗から学ぶこともちゃんとある。大事なのは失敗しないように閉じ込めることじゃなくて、失敗したときにフォローしてやることだと自分は思う」
それを聞いて感情が溢れそうになった。失敗をしたって、守ってくれる人がいるって知って、泣きそうだった。
ぐっ、と嗚咽を堪える。円城寺さんがそっと僕の頭を撫でてくれる。震える手を、大きな手がやさしく包み込んでくれた。
「……だから、練習したくなったらいつでもうちにきてくれ。なんでもいいさ。練習して、終わったらみんなでメシを食おう」
「……うん」
牙崎くんがつまらなそうに息を吐くのがわかった。くだらねー、と漏らす声はなんだか居心地が悪そうだ。それでも、彼は言う。
「何度でも勝手に失敗しやがれ。弱っちいやつにはそれがお似合いだ」
やっぱりちょっと怖いけど、なんだか悪ぶっているようにも見えてきた。何度も失敗して、何度も諦めなかったのはキミだから、もらった言葉はあたたかくて誠実だ。
「オマエはそろそろ覚えろ。勝手だろうがなんだろうが、粥を食うのは俺たちだぞ」
「んだと!? チビには一口もやらねーよ!」
「いらねぇよ。百々人さん、安心してくれ。アイツの態度が悪いから言っただけで、百々人さんの粥ならいくらでも食べる」
「……ふふ。ありがとう」
牙崎くんがスイッチを入れる。ピーッと鳴って自由時間だ。残された五〇分、みんながそれぞれ好きなことをしていた。無言だけど、許されている。なんだかすごくリラックスできた。
***
「うまい! すごいぞ百々人!」
「本当だ。うまい。味もだし、すごくつやつやしてる」
「ふん、まぁ悪くねぇな」
三者三様の感想はどれも好意的で、でもそれが慰めじゃないのはすぐにわかる。僕が口に含んだご飯はとってもおいしくて僕も自然と微笑んだ。
「そっか……よかったぁ……」
才能がないと諦めていた。でも、僕にだってできた。炊きたてのお米は湯気を出して、その向こうにみんなの笑顔が見える。
「……ねぇ、円城寺さん」
「ん? どうした?」
欲がでた。あんなに怖かったはずなのに、甘えるように口を開く。
「あの、もう一度来てもいいですか……? 僕、アマミネくんとマユミくんとぴぃちゃんに……おにぎりを作ってあげたい」
「……そうか! ああ、何度でも来い。きっと二人も喜ぶぞ!」
「……うん!」
円城寺さんは僕の頭をわしゃわしゃと撫でる。大河くんも僕の言葉に賛同してくれた。いいと思う、って言って、おいしい、って言ってくれる。
それから呆れたような、親しむような目を牙崎くんに向けた。
「……それに比べて……オマエは……」
「うるせー! チビは食うなって言っただろ!」
牙崎くんが炊いたお米は案の定おかゆになってしまった。それでも円城寺さんはおかゆにおかかを混ぜながらおおらかに笑う。
「どうどう。漣も上達してるぞ」
テーブルにはご飯にあいそうなおかずがたくさん並んでいる。おかゆにも対応できるようにだろう、梅干し、おかか、肉味噌、卵、鮭、明太子、お漬け物。
あんなにあったご飯はすごい早さでなくなっていった。本当によく食べるなぁ、って見ていたら、円城寺さんが手を差し伸べてくる。
「百々人もたくさん食え。百々人が炊いたんだ、うまいぞ」
僕はそっとお茶碗を差し出す。炊飯釜がからっぽになるまで、僕らは四人でご飯を食べた。