謙虚、陶酔、初恋 季節外れの、金木犀の香りがした。
気がついたのはきっと僕だけだ。ここには雨彦さんと僕しかいなくて、ここにやってくる人間も今日はいない。ここは僕の家──というよりは兄の家で、家主はあと三日ほど、職場に閉じ込められるとの連絡があったばかりだ。
そんな兄さんの不在に乗じるのは少しだけ心が痛むが、こんなときでないと恋人ひとり呼ぶことのできない男が僕だった。別にひとりで暮らすのが嫌なわけでもそれが不可能なわけでもないが、ひとり暮らしを望む理由に雨彦さんが混ざるのは少し癪だった。しかし雨彦さんを除外すると一人暮らしをするための動機がない。結局僕には現状がしっくりと来ていて、この食えない男との逢瀬だって、頻繁じゃないくらいがちょうどいいんだ。
そう納得して、お茶を淹れてテーブルへと戻る。雨彦さんにお茶を出すとき、その首筋との距離が近づいた瞬間にあるはずもない秋の気配を感じ取った。
「……雨彦さん、なんだかいいにおいがするねー」
清涼な、あるいは線香の香りがまとわりついていそうな男から香るには、柔らかく、甘ったるく、命のほころぶような香りがする。普段は身長差があってできないが、椅子に座っている雨彦さんの頭は僕のそれよりも低い位置にある。恋人でしか許されないような距離で顔を寄せ、香りの理由を聞いた。
「ああ、この前のロケで行った店の練り香水だな。今日初めてつけてみたが……気づいたのはお前さんくらいだ」
「大木の-、果実届かぬ伸ばした手。雨彦さんの顔はいつだってみんなの上にあるからねー。こうやって下にきてくれないと、わからないでしょー」
金木犀はどこに咲いているのだろう。指先を首筋に這わせれば、「耳の裏と鎖骨だ、」と雨彦さんが呟いた。
「手首とかじゃないんだねー」
「普通は手首なのか? 店主は首筋か、耳の裏か、鎖骨につけろと言ってたぜ」
「そうなんだー。練り香水と普通の香水は違うのかもー」
恋人なら許される悪戯心、もとい下心だろう。首筋を辿っていた指先をするすると頬まで滑らせて、伸ばした人差し指で僕よりも少し白い耳に触れた。
「……ははっ、」
「何がおかしいのかなー? それとも、くすぐったい?」
空いている手を鎖骨に伸ばす。その不埒な手を取って雨彦さんが笑う。
「おかしくもなんともないさ。……なぁ、そうだろう? 北村は香水が物珍しい、それだけさ」
「……そうかもー。だから、ねぇ、いいでしょー?」
僕を掴む指先を一度振り解いて、今度は僕から指を絡めた。親指の腹をくすぐるように撫でれば、雨彦さんの笑みが深くなる。
大好きで、大嫌いな、狐の顔だ。
「よし、北村も興味があるみたいだしな……お前さんにもつけてやろう」
「え?」
「ほら、座ってくれ」
半ば強引な言葉で僕は雨彦さんの隣に座らされる。目をやればいつの間にか雨彦さんの左手には小さなケースが収まっていた。金木犀の色をしたシンプルな容器は、くるりと回すと蓋が外れた。
「……聞いてないなー」
「言ってないからな。時折つけ直そうと思ってポケットにいれておいたんだが……役に立ちそうでなによりだ」
とっくに僕から離れている指先が、ほのかに色づいた蝋のようなものをなぞる。それはうっすらと剥ぎ取られ、雨彦さんの中指にべったりとへばりついた。こうやってべたべたと鈍い光沢が主張しているくせに、香りは驚くほど謙虚で気を抜くと見失う。なにも変わっていないっていうのに、僕には僕らふたりの、人間の匂いのほうがよっぽと強く感じられた。
「観念するんだな。なに、ふたりで秋を先取りっていうのもいいだろう」
雨彦さんの長い指が僕の耳をやわやわとつまむ。そのまま、潤滑油のような粘度をまとった指が僕の耳の裏をそっと撫でた。
「んっ……ちょっとー」
「どうした? 北村」
「……別にー」
雨彦さんの手はゆっくりと動いて僕の耳をくすぐる。いま僕の耳がどんな色をしているかなんてわからないけど、自覚してしまうほど吐いた息が熱い。
「……香水、つけてるんだもんねー?」
「ああそうさ。あとは、ここだな」
雨彦さんの手が離れ、もう一度油膜をまとってから僕の方に伸びてくる。雨彦さんがいつも胸元の開いている服を着ているから麻痺していたが、僕だって鎖骨の出る服を着ている。
そっと、わざとらしく、明確な意志と情欲を持って雨彦さんは僕の鎖骨をなぞる。鎖骨のくぼみに中指をいれて、骨をなぞるように何度も動かして笑ってる。
「……雨彦さんにこういうとこ触られることってないから、新鮮」
「いつも触ってくれるのは北村だもんな。お返しさ」
浮いた親指か、人差し指か──死角に入り込んだ指先が僕の喉仏をぐっと押す。けほ、と弱く咳き込めば、慈しむように首を掴まれた。
雨彦さんの手は大きい。完全に雨彦さんの手に握りこまれた喉を思い、こんなに食えない男にここまでの距離を許している僕自身を、呆れたように僕が見ている。ぬる、と中指だけが滑り、頬の下をそっと引っ掻いた。その指先に釣られるように手は上へとのぼり、香水のついていない少しかさついた指が僕のくちびるをゆっくりと押す。
大きな手だ。それだけだ。雨彦さんなんて怖くない。目を見て、睨み付けながら口角を上げる。雨彦さんが逃がすように、あるいは観念するように僕から手を離した。
「終わりだ。せっかくおそろいの香りになったんだ。ふたりの秘め事ってのも味気ない……少し出かけるかい?」
そう言って立ち上がろうとした雨彦さんの手を取る。若い思春期の人間をここまで焚きつけたのはこの男なんだから、責任をとってもらいたい。いや、責任はいいから、少しだけ痛い目を見てもらう。
「この香りは独り占めしたいかなー。それよりも、香水って汗で香りが変わるんでしょ-?」
手首を取って、指先に唇を寄せる。さっきまで僕を弄んでいた指からは、うっすらと金木犀の香りがした。
「試さないー? 僕、この香りごと混ざって、めちゃくちゃにしちゃいたい」
「……はは、いいぜ。そのあとはめでたく、同じ石鹸で同じ香りだな」
そういえば、と雨彦さんは口にした。みのりさん曰く金木犀の花言葉は『陶酔』だと言って、狐のように目を細めて笑った。